第六話:地上生活一日目 2
人の手が滅多に入らない禁止の森は、原生の姿を留めており、人間が自由に走り回れるような環境ではない。ただでさえ走るには不向きな木靴を履き、小脇にカゴを抱えたミルダでは尚のこと、である。太く張り出した木の根、胸の高さまで伸びた草や垂れ下がった蔦――空いた右手でそれをかき分け突進した先に、壁のごとくそそり立つ大木が姿を現す。正面衝突すれば致命傷を負いかねないそれをギリギリで躱し、ミルダはわき目もふらずに全力で駆けた。
耳まで裂けた魔物の口――邪悪としか形容できない、人間には形成不可能と思われる元魔王の微笑みが頭をよぎる。
――とにかく、逃げなきゃ。
地上の人間の間には、様々な魔物の逸話が伝わっている。特に、人間の王侯貴族を惑わし、勇者に様々な苦難を強いてきたという、青い髪の麗人の姿の魔物が登場する伝説が有名だ。
人型の魔物の姿を初めて目の当たりにしたミルダは当初、恐怖よりも好奇心の方が勝っていた。しかし、恐ろしい魔物の笑顔を見てしまった瞬間、幼い頃より刷り込まれてきた恐怖が頭をもたげ、反射的に逃げ出してしまったのだ。
蔓や枝葉をかき分け、走る音はきっと魔物の耳に届いたに違いない。
ミルダは駆けだしてすぐに後悔したが、それは正しく後の祭りだった。ミルダ自分でも驚くほど、冷静に状況を分析し始めていた。
走り始めて三分ほどは経過しただろうか。ミルダは走りながら後ろを振り返り、追ってくる魔物の姿がないことを確認した。障害物を避けながら全力疾走できる時間はとっくに過ぎた。呼吸が苦しく、足はすでにもつれ始めている。
ちょうど腰掛けるのにちょうどよい倒木が目に入り、ミルダはほとんど倒れ込むようにして、苔むした太い幹に身を預ける。
「はあ……はあ」
ミルダが走り回ったおかげで、周辺の警戒心の強い野生動物は息をひそめるか、彼女から大きく距離を取っていた。
豊かな森には不釣合いな静寂の中、ミルダは耳を澄ましてみたが、早鐘を打ち続ける自分の心臓の音、荒い呼吸音が妙に大きく聞こえるだけで、後を追ってくる巨躯の魔物の気配は感じ取れなかった。
「はああ。焦って損したわ」
追ってこないとわかると、安堵のため息が漏れ、ミルダは同時に自身が犯しそうだった愚行を省みて苦笑した。
焦って森を飛び出せば、禁止の森を監視している棟から丸見えだ。足を踏み入れるだけで鞭打たれる禁止の森で、パフンの実を不法に採取したことが露見すれば縛り首になるところだったのだ。弟の命を救う前に、自分が死んでしまっては話にならない。
ミルダは左腋に抱え込み、強く圧迫されたせいで変形した篭を開いて中身を確認した。彼女の頭の中で、賭博で大きな借金を作り、胴元のヤクザどもに拉致されてしまった弟の顔と、青白くて卵型のパフンの実が重なる。
ミルダの家は貧しくもないが、弟の借金は父の年収の五倍ほどに膨れ上がっていた。
ヤクザは弟を拉致し、「金が払えないならパフンの実三十個取ってこい」と要求した。領内に禁止の森を擁する、マザスに蔓延るヤクザの常套手段だった。
「泣いて謝っても、許さないんだから」
弟の顔に見立てたパフンの実を一つ、指先で弾いて言ったミルダの背後の茂みが動いた。
「――何っ!?」
◇
名もなき魔物は、小さき人間の逃走を許さない。
右も左もわからない地上で、運よく見つけた獲物なのだ。
(……勇者がどこにいるのか、人間に訊ねれば即座に分かることだろう)
魔界で「魔王はどこか」と訊ねたなら、百体の魔物のうち百体ともが、「魔王様は魔王城にあらせられます」と答えることだろう。
名もなき魔物は、光の眷属の最高戦力である勇者は、自分と同じく地上においては絶対的支配者である、と認識していた。
魔物の目論見では、逃げた人間に追いつき勇者の居所を訪ねれば、彼が地上に出た目的の半分――すなわち勇者との和合――の達成まで大きく前進できるはずだった。
「周りにいるのは……」
魔闘技による筋力強化を十全に生かして跳躍した魔王は、その一跳びで、人間が必死の思いで稼いだ距離をゼロにした。鬱蒼とした木々が視界を阻んでいても、闇の眷属の王の目は、光の眷属である人間の纏う気をはっきりと捉えていた。同時に、複数の同朋がそれを取り囲んでいる事実を認識し、名もなき魔物は目を細めた。
「魔界では見かけないヤツだな」
僅かに魔力を放射して空中で静止した名もなき魔物は、そのままゆっくりと下降して地上へ降り立った。気配を殺し、人間とそれを取り囲む魔物を観察する。
「なんなのよ! あんたたち!」
甲高い声で、人間が叫んだ。魔物の姿が邪魔をして容姿は確認できないが、声の質からして女だ、と名もなき魔物は判断した。
人間の周りに集まってきた魔物は、醜悪という言葉がぴったりとはまる容姿をしていた。
金髪の少女の周りに集まっていたのは、豚がそのまま直立したような姿の魔物だった。四足で歩く地上のそれとの違いといえば、ボロ布の腰巻で局部を隠していることと、前足が長く、蹄の代わりに不格好な太い指が付いていることぐらいだった。腰巻の上のでっぷりと太って突き出した腹、その割に小さな乳房とイボのような乳首、頸椎など存在しないのか、体幹から直接生えた、と言うよりは植えたように乗っかっている豚顔は、
「ぶっひっひ……」
名もなき魔物の目から見ても、それが下卑た笑いであることが分かるほどに卑しく口元を歪めて笑っていた。
少女を取り囲む他の三体も、似たようなものだった。彼らは豚ゴブリンと呼ばれる、地上では森や洞窟、廃墟などでよく見かける低級の魔物だった。まだ世界に魔候と呼ばれる上位種が誕生していない頃から存在する、原始の姿に近い魔物で、食欲と性欲、魔物の根源ともいえる破壊衝動に従って行動する、魔物らしいと言えば魔物らしい部類に属する。一般的な人間より力も体力もあるが、しかし単体では、武装し組織立って行動する兵士には抗し得ないため、いつも集団で行動するようになった。魔候たちが魔物の軍隊を組織するようになってからも、知能の低さが災いして兵士としては登用されず、野放しになっている。
《アルゴニア聖教会》がヤトの森を《禁止の森》の一つに指定している理由は、パフンの樹が自生しているからというだけではない。もっとも重要なのは、この森がオーグリンを始め、原始の魔物の巣窟と化しているからなのだ。
(汚らわしい)
妖しくも美しく、艶めかしくも荘厳に着飾っていたジャミネを始め、魔物と言えば魔候しか知らない名もなき魔物は、自分と同じ闇の気を纏う彼らに激しい嫌悪感を抱いていた。これから彼らが人間の女に何をするつもりなのかは知る由もないが、最終的にはその命を奪うことになるだろう。名もなき魔物にしてみれば、人間などいくら殺されようと知ったことではないが――
「いやっ……」
オーグリン達は、少しずつ少女の包囲網を狭めていく。一際身体の大きいものが、両手を広げて正面から大きく一歩を踏み出すと、人間の女が小さく悲鳴を上げるのが聴こえた。オーグリン達の太った身体の隙間から、女の金色の髪が見え隠れする。
「あー……ゴホン!」
聞えよがしな咳払いを一つして、名もなき魔物は自身の存在を主張した。