五話 火触之添
子供の頃の時の流れ方──経過の感じ方は大人の感覚と違うのだから、ズレが生じる事は自然な事。
だから、遊んでいる子供にとっては「まだ早いよ!」と思っていても、大人──親には「もう遅い!」となる。
勿論、それは時間の感じ方だけが要因ではない。
子供は知らないが、大人は知っている。
世の中が危険なのだという事を。
だから、日が暮れる前に帰宅しようとする。
子供には「危ないから」と言っても判らない。
……判る子供も居るのかもしれないないが。
一般的には知らない子供の方が多いだろう。
そう言われて知ってはいても、理解まではしていない。
その為、楽しい事に夢中になると忘れてしまう。
そう、だから、子供にとっては仕方が無い事。
「そんな言い分が通る訳が無いだろうがっ!」
「痛い痛い痛い痛い痛い冥琳痛い痛いってばあっ!!」
拳骨から流れる様に耳を掴み、引っ張って行く。
その見慣れてしまった光景には誰も助けようとはせず。
孫策が手を伸ばそうとも、反応は薄い。
「自業自得です」と溜め息を吐く韓羽。
「頑張ってね~」と手を振り返す曹忠。
「他に誰か──」と視線を動かすが、現実は非情。
今、自分が孤立無援である事を突き付けられただけで、助けてくれそうな者の姿は見当たらなかった。
周瑜に連行されていった孫策の事は早々に忘れて。
韓羽と曹忠は並んで歩き出す。
特に用事が有った訳ではないのだけれど。
何故か、仁王立ちして待ち構えていた孫策に捕まった。
──いや、既にそれなりの付き合いの長さになる。
だから判っている。
孫策自身が暇──ではないが退屈しているのだと。
そして、その理由もだ。
「……獅琅くん、どうしてるのかなぁ……」
そう、空を見上げながら曹忠は呟く。
その呟きに、韓羽は地面を見詰めながら手を握る。
二者二様の反応ではあるが、胸の中の感情は似ている。
一番多くを占めているのは“寂しい”だろう。
次いで、「どうしてっ……」という不満。
二人共に聡く、真面目なので理解はしている。
してはいるけれど──それはそれ、これはこれ。
幼くとも、恋する乙女心は理不尽なまでに我が儘だ。
どうしても、自分が曹丕の一番で在りたい。
そう思う気持ちが溢れてしまうのだから。
勿論、それで曹丕や両親達を困らせたりはしない。
グッ……と堪えられる。
孫策ではないのだから。
ただ、「我が儘を言ってくれてもいいんだけどな」と。
韓浩達としては思っているのだが。
それを言うべきなのかは──微妙に悩む所。
これが一般的な家庭であれば迷いはしない。
まあ、一般的な場合は逆に「我が儘を言わない!」等と怒る事の方が多いのかもしれないが。
一般家庭ではない為、自制心の強さは良い事だ。
だから誉められる事は有るが指摘されたりはしない。
その上、曹丕の存在が有る。
そう、だから韓浩達はこう考えた。
「それは曹丕の役目だよな」と。
御互いが支え合う関係の為には、それが最良だろう。
そして、あの二人はその辺りの教育は欠いてはいない。
それは曹丕を見ていれば自然と判る。
意識せずとも最低限の事は出来ている。
その上で、その時、その状況、その気持ちに合わせる。
其処を意識的に出来ているのだから。
韓浩達が曹丕に託す事にするのは必然だと言える。
決して、面倒臭いから丸投げする訳ではない。
──いや、遣ってもいいのなら押し付けるだろうが。
その必要は無い事を経験から理解している。
だから、心配はしていない。
──が、それとこれとはまた話が別。
まだ子供なのだから、無理に抱え込む必要は無い。
大人になれば嫌でも色々と抱えなくてはならない。
まだ若いとは言え、韓浩達には立場も責任も有る。
二人の下に居た時とは変わったのだから。
以前のままでは居られない。
それでも、二人が──特に曹晧が教えてくれた処世術は間違い無く自分達を支えていると実感している。
だから、それまでに吐き出し方を身に付ける。
それも大きな意味を持つ事なのだと判る。
尤も、「御前はもう少し忍耐力を付けろ!」と。
そう言いたくなる誰かさんも居るのだが。
それが話をややこしくしていたりもする。
さて、曹忠達が曹丕の側には居ないと判っただろう。
では、その曹丕は今、何処に居るのか?
その答えは単純。
洛陽である。
「獅琅くん、獅琅くん、どうかな?」
「……うん、ちゃんと出来てるよ、天和ちゃん」
「やった~」
手に持っていた木彫りの人形を曹丕に見せ、褒められて嬉しさから笑顔を弾けさせる劉協。
曹丕が直々に教えている事で褒められている、という事も嬉しさを高めている要因。
そんな劉協の隣では、眉間に深い谷を作りながら手元の木材に小刀の刃を当てる賈駆の姿が有った。
同年代の子供と比べても、とても聡明な賈駆。
曹丕にとっては周瑜という存在が身近に居る事も有って不思議には思わないのだけれど。
賈駆の才能は大人達から見ても稀有な物。
その為、劉協の側に居る事を快く思わない者も居る。
まあ、居たとしても何も出来はしないのだが。
当の賈駆自身が聡明な故に察してしまう。
そして、理解してしまうと敏感──否、過敏になる。
その結果、賈駆はとても気にしいに。
それによる負担を考えて曹丕を招いた。
要するに息抜きの為に、である。
勿論、可愛い愛娘の恋路を応援する為でもあるのだが。
今回は賈駆の為に、という側面が大きい。
それだけ賈駆の事を大切に思っている。
それこそ自分達の娘も同然に、だ。
──話を戻して。
賈駆が聡明である事は間違い無い。
才能だけに頼らず、研鑽を怠らない本人の努力も有って確実に成長をしている。
──が、そういう子供は頭でっかちに成り易い。
其処で、曹丕である。
実用技術主義であった両親に負けずに器用な曹丕。
賈駆は「何よ、それ位の事……」と思っていた。
はっきり言って舐めていた。
どんな事だろうと、理解さえすれば出来ると。
そう考えていた。
しかし、それは容易く砕かれた。
自身の知に対する自信と共に。
曹丕の説明は聞いていたし、理解もしている。
だがしかし、自分の思う様に小刀は動かない。
力を入れなければ刃が入らず、力を入れれば削れ過ぎ、その加減が知識では補えない。
その為、最初は苛々していたが──今は泣きそうだ。
「詠ちゃん、ちょっといい?」
そう訊ねる様に言ってはいるが、賈駆の返事を待たずに曹丕は後ろから賈駆の手に自分の手を重ねると、優しく導く様に動かしてみせる。
流石に見兼ねて──という訳ではない。
それは曹丕なりの切っ掛け作り。
賈駆の様に知識と感覚のズレが有るのなら。
それを修正する為の情報──経験を与えればいい。
その事を曹丕は自身の経験も含めて知っている。
誰しもが、初めてなら上手くは出来無いものだ。
勿論、個々により得手不得手は有るのだろうが。
それは決して全てがそうという訳ではない。
どんなに要領が良かろうと、それなりにだ。
上を見れば、まだまだ遠い事が判る。
判らないと、その差を理解する事も出来無いのだが。
それは今は関係の無い事。
賈駆の場合、劉協の側に居る事や歳上という事も有って過剰に「上手く遣らないと……」と。
そう無意識に自分を追い込んでしまっている。
それが本人でさえ判らない所で力みと混乱を生む。
結果、ズレが更に酷くなってしまう。
それを曹丕は意識せずとも、出来てしまう。
そう、曹丕自身が教わってきたのだから。
「────ぁ……」
たったの一彫り──いや、一削り。
それだけで、賈駆は正しい経験を獲た。
同時に、「こんなにも自分の身体って不自由なの?」と思っていたのが嘘の様に軽くなる。
「ね?」
そう耳許で聞こえた曹丕の声に反射的に振り向く。
「──っ!?」
──が、次の瞬間、顔が爆発したかの様に熱くなる。
何故なら、曹丕の顔が目の前に──鼻先が触れ合いそうなまでに近い場所に有ったから。
「近い近い近い近い近いっ!!」と。
胸中で連呼する余裕さえも与えて貰えない超至近距離。
寧ろ、「……ぁ、意外と睫毛が長いのね……」と。
思考は現実逃避する様に関係の無い事を気にした。
──気にしたが、二人の距離は変わらない。
それは一瞬の事なのかもしれない。
しかし、頭の回転の速い賈駆にとっては雑念からの思考放棄を経て、再起動までを行うには十分な時間。
その為、「……ぁ……」と小さく声が漏れる。
曹丕が眩しい程に真っ直ぐな笑顔のまま言葉を待つ。
そういう性格である事を知っているから鼓動が跳ねる。
でも、賈駆にも歳上としての自尊心が有る。
有るから──手元を見る様に顔を戻す。
「……ぁ、有難う……」
不器用な賈駆の感謝の言葉に曹丕は嬉しく思う。
──が、曹操からは「時として言葉は悪手よ」と。
そう教えられている。
それ故に、曹丕は賈駆に何も言わない。
言わないけれど、伝えたい気持ちが有る。
そんな時にはどうするのか?
その答えは曹晧が教えてくれている。
曹丕は重ねていた手を離し──賈駆の頭を優しく叩く。
まあ、叩くと言うのか、触れると言うのか。
ぽんぽんっ、と。
「どういたしまして」「その感じでね」等。
賈駆への色んな気持ちを込めて。
そして、賈駆から直ぐに意識を劉協に向ける。
これも言われている事。
不用意に女性の事を見詰め過ぎるのは駄目だと。
だから、曹丕は気付かなかった。
賈駆の顔が一層赤みを増し、湯気が出ている事に。
気付かないから、然も当たり前の様に劉協と話す。
「天和ちゃん、其処は刃を逆から当てた方が良いよ」
「そうなの? こうかな?」
「うん、そう
その方が思った様に削り易いでしょう?」
「あ、本当だ!」
──という感じで気にもしない。
だから、賈駆の胸中で小さな怒りの火種が生じる。
「ちょっと! 今の流れで何で放置するのよっ!」と。
曹丕に構って貰えない事に対して不満を懐く。
ただ、それがどんな感情なのかまでは気付かない。
──が、今はそれで十分だとも言える。
緊張や雑念を、その小さな火が燃やしてくれたなら。
後は、賈駆の持ち前の集中力と頑張り屋な負けん気から遣るべき事に意識は向かっていくのだから。
曹丕達が仲良く木彫りをしている頃。
韓浩は曹嵩・劉懿と共に皇帝夫婦と会っていた。
当然ながら韓浩は場違いだと思っている。
また、「何故、俺だけなんだっ?!」と。
今回の話を聞いた時には叫んだのは記憶に新しい。
──とは言え、曹丕を連れて皇帝を──いや、劉協達を訪ねる事は初めてではない。
もう、それなりに遣っている事だ。
──が、普段なら夏侯淵か甘寧が同行してくれている。
自身の拙さを補ってくれている。
夏侯惇には悪いが、それに関しては頼りない。
だから、二人とは比べる事も烏滸がましい。
──で、今回は生憎、何方等も都合が悪かった。
私用ではなく、公務だから無理は言えない。
そうでなくても、もう直ぐ二人目が生まれるのだから。
無理はさせられない。
そう、こうなったのも仕方が無い事である。
「──という事で、此方等が許可状になる」
「有難う御座います」
「これも子供達の将来の為だからな」
頭を下げる韓浩に皇帝は笑顔で返す。
韓浩が曹晧の後任となってから改めて会った時から既に二年以上が経っている。
もう直ぐ、曹丕達も五歳。
だが、まだまだ可愛い盛りだと言える。
まあ、娘達の女の戦いには寒気を覚えるが。
それは、ある意味では他人事なので関わりはしない。
救助の必要も無いのに自ら火事場に飛び込む様な趣味は持ってはいないのだから。
それは兎も角としてだ。
韓浩が皇帝から貰った許可状は徐州に関しての物。
後任──徐州の州僕等は別に居るが、裏で、しっかりと手綱を握っているのは韓浩達と曹家に他ならない。
黄巾の乱で州内は乱れ、それを平定し立て直したのだ。
徐州の民達にしても今更、他の有力者を望みはしない。
それだけ民からの信頼を勝ち得ているのだから。
その事は皇帝も、宮廷雀達も、諸侯達も判っている。
皇帝に関しては言うまでも無い事だが。
他は、身の程を弁える事を覚えた。
要は、余計な手出しはしなくなった、という事。
まあ、だからと言って韓浩達も油断はしない。
「まあ、大丈夫だろう」が一番危ういし、恐い。
その事を嫌という程、教え込まれているのだから。
──とは言え、この場に居るのは姉夫婦と弟夫婦。
確かに自分は曹丕の後見人だが、祖父母が一緒であれば自分は同行する必要は無いのでは?
そうは思ったが、護衛も兼ねている。
だから、拒否権は無かった。
曹操にして、その親である。
自分達を餌に釣りを楽しむ。
その程度の事は平然と遣ってしまうのだから。
改めて、曹家という魔窟の深淵を恐ろしく思う。
表向きの理由が終われば家族団欒。
曹丕達と合流し、和気藹々と御茶をしながらの談笑。
その時も、曹丕の左隣には劉協が居る。
それが何を意味しているのか。
曹丕は、まだ理解はしていないだろう。
だが…………韓浩の目から見ても劉協は判っている。
判っていて、当然の様に其処に居るのだ。
「愛紗、此処にも手強い恋敵が居るみたいだぞ」と。
愛娘に心の中で語り掛ける。
まあ、正式な婚約者は孫策だ。
流石に曹丕と劉協が婚約する事は無い。
「…………無いよな?」と韓浩は心の中で訊ねる。
誰に、と訊くのは野暮というもの。
それに、返答は無いのだから。
ただ、そんな劉協よりも今回は賈駆の方が目を引いた。
明らかに曹丕との距離感が変わっているからだ。
──とは言え、賈駆自身に自覚は無い。
だが、少なくとも仕事の前に挨拶をした時とは違う。
「どう違うんだ?」と訊かれたら……答え難い。
それは現実的な──物理的な距離感とは違う。
“心の距離”と言えば、そうなのかもしれないが。
曹丕の方には変化は無い。
変わったのは賈駆の方だ。
まあ、そう考えれば色恋沙汰に繋がる訳だが。
韓浩からすると、以前から賈駆は曹丕に気が有った。
だから、今更だとも言える。
その為、自覚したのなら判る。
しかし、韓浩から見ても賈駆はまだだ。
恋愛経験が豊富とは言えないが、それでも判る。
尤も、韓浩にとっても感覚的な物だから説明は困難。
韓浩自身が、そう感じているに過ぎない。
(──って訳でもなさそうだな……)
劉懿と王尚花の視線を見ていれば、曹家の女性達同様に楽しそうな気配が窺える。
勿論、御二人共に表情や態度には出てはいない。
その辺りは流石だと思う。
「凄いけど、技量の無駄遣いだな」とも思うが。
決して、深く長くは考えない。
女性の勘の良さは身に染みて知っているのだから。
洛陽で一泊して、翌朝には発つ。
御土産は忘れてはいない。
韓浩は馬車の御者席に一人で座り、手綱を握る。
曹丕・劉懿・曹嵩は馬車の中。
護衛として騎馬が四騎四方に並走している。
何度も経験しているが、何度経験しても慣れない。
やはり、皇帝という肩書きは見せ掛けではない。
──と言うか、場所の所為なんだろうな、と思う。
曹家の方で会う時には大して緊張もしないのだから。
ただ、それは韓浩自身にとっても身内だから。
曹晧達の家臣であり、家族という立場の時から、曹家で出会っていた事が強く根付いている為で。
その時は皇帝夫婦も御客人だからだ。
その無意識の認識の差が緊張として出ている。
それを曹嵩達は判っているが、態々言いはしない。
自ら気付くか、気にならなくなるまで経験を積ませる。
曹晧達なら、そうするだろうから。
何しろ、韓浩達もまだまだ成長途上なのだから。
「──っ、あー……どうやら、釣れたみたいです」
穏やかな天気と気候に欠伸を出した時だった。
韓浩の探知にソレは引っ掛かった。
馬車の中の曹丕が眠っている事を氣の流れで確認して、御者席の後ろの小窓を開けて中の二人に話し掛ける。
「私は感知出来ませんでしたから……南ですか?」
「当たりです」
曹丕と仲良く眠っている曹嵩に代わり、劉懿が答えた。
感知してはいないのに、その的確な読みには脱帽。
同時に、「やっぱ、曹家の女は恐いな」と思う。
猪突猛進な夏侯惇が可愛らしく見えるのだから。
──なんて暢気にしているのは、既に戦闘中の為。
幾つかの候補地で待機していた少数精鋭の討伐隊。
その一隊が捕捉し──ああいや、もう二隊も合流した。
「過剰戦力だな」と思う。
その一隊を曹仁が指揮しているのだから。
「隼人さん、昔より苛烈だからなぁ……」と。
刺客を相手に荒ぶる鬼の姿を思い浮かべる。
「それにしても、まだこの手の馬鹿が居るんですね」
「賊徒と同じですよ
忘れ掛けた頃に、ひょっこりと姿を現します」
「……台所の黒い奴みたいですね」
そう韓浩が言えば、劉懿はクスクスと笑う。
上品な仕草は彼女が皇女である事を感じさせる。
だが、韓浩は知っている。
この劉懿も含めて曹家の女性陣はアレには容赦が無い。
それは兵や文官、侍女に至るまで。
「キャーッ!」なんて悲鳴は聞いた事も無い。
無言のまま、殺気だけが放たれるのだから。
そんな環境の為、アレを曹家の屋敷で見る事は稀だ。
「絶対に無い」と言い切れないのは、アレが故に。
殺されても殺されても奴等はしぶとく生き抜く。
その生命力は曹晧も感心していた程。
──とは言え、害虫は害虫。
見付ければ駆除するのが人の反応だろう。
因みに、娘達も全く怖がりもしない。
見付けたら、手近な物で叩き潰す。
まあ、手加減が出来るだけ、夏侯惇よりはマシだ。
反射的に思いっ切り叩くから……
その惨状に、当の本人が悲鳴を出す事は有る。
悲鳴としての意味が違うが、らしいと言えばらしい。
──なんて事を考えながら帰路に着く馬車を走らせる。
「早く帰って、一杯飲みてぇ……」と思いながら。




