序話 歩福然進
上から下へと砂が落ちる様に。
高い所から低い所へと水が流れる様に。
時が刻まれて経ち行く事を。
季が過ぎ行き巡る事を。
日が沈み、また昇ってくる事を。
誰も止める事が出来無い様に。
生命は歩みを止めはしない。
死が終わりを告げる、その瞬間まで。
漢王朝を揺るがした“黄巾の乱”が終焉したとされてから既に三ヶ月が経った。
だが、その爪痕を大きく残っている。
それは言わずもがな。
曹晧・曹操という支柱を失った事に他ならない。
だが、二人が育んだ芽は確と育ち、花を咲かせている。
二人が不在となった程度では折れはしない。
枯れず、朽ちず、絶やさずに意志という種子を繋ぐ。
その在り方こそが、二人が示した未来への道標。
一時は寝込んでしまった皇帝も再起した。
まだ幼い曹丕が立ち上がったのだ。
自分が悲嘆に暮れ、俯いている場合ではない。
愛する妻と娘も前を向いているのだから尚更にだ。
自分だけが情けない姿を見せる訳にはいかない。
義兄と同様に、家族には良い所を見せたいのだから。
そんな皇帝が着手したのは内部改革。
黄巾の乱にて露呈した現体制の脆さ。
それを痛感した以上、放置する訳にはいかなかった。
勿論、保身に走る連中は反対するが、自分達が遣った失敗という責任からは逃れる術は無し。
皇帝は厳しく処断──その責任を問い処刑とした。
これにより、皇帝など御輿だ御飾りだと思っていた宮中は緊張感を持つようになった。
派閥抗争・権力闘争という意味でではない。
保身に走れば身を滅ぼす。
今の地位を失わない為には成果を出さなければならない。
金品等の献上は、最早通じなくなったのだと。
宮中の彼等は自らを正さなくてはならなくなった。
それ故に、 自他の失敗には過敏になる。
ただ、当然ながら行き過ぎれば、足の引っ張り合い。
醜い保身暗闘が繰り広げられるだけだ。
だから、皇帝は責任を問うのは上位権力者にのみ。
逆に、不当に家臣や部下を扱う者は厳しく罰した。
これにより、下は働き易く、その上の立場に有る者達には見合った能力と責任が求められた。
当然と言えば当然の事なのだが。
人の社会というのは、地位や権力といった自然界には無い特殊性が生む歪さが蔓延し易い。
それは悪性腫瘍の様なもので。
其処だけを取り除いても、他に感染・転移している場合が珍しくはない。
だから、根本的な部分──意識改革が重要となる。
その為には、地位や権力に応じた責任の必要性。
部下に責任を押し付ける様な上司は不要。
しかし、部下が失敗しない様に扱う上司も不要。
部下を育てられる上司こそが必要な存在。
そういった者達を増やす為には、皇帝も厳しく在らねば。
──というのが、曹晧達が残した指針。
そう、韓浩達だけではなく、皇帝にも二人は道標を託す。
漢王朝を終わらせる事は容易い。
しかし、それでは歴史の繰り返しなだけ。
──であればこそ、漢王朝を立て直し、変えて行く。
去った過ちを無かった事にはしない為に。
それを忘れず、刻み、繰り返さない為に。
悪しきを改め、より良くする努力を尊ぶ為に。
二人は外側から壊すのではなく、内側から変える。
その道を選んだ。
より困難で、より時間も掛かる方法を。
しかし、その先には簡単には揺らぐ事は無い国が在る。
そう確信を持って。
だから、二人に関わった全ての者が道標を信じる。
誰よりも優れた者が、誰よりも困難を選ぶ。
これこそが天下に示せる覇王道なのだから。
そんな二人に最も影響されたのは曹嵩と劉懿だろう。
偉大な祖父、有能な父を持ち、稀代の才媛の妻。
曹嵩自身、周囲に存在する稀有な輝きに埋もれてしまった原石の才能。
遣ればそこそこ出来て、程々に成果も成す。
愛娘が生まれ、愛妻が病床に伏し、家族を愛する事こそが彼の在り方であり、生き方だった。
それが今、舞台に上がり、未来に繋ぐ為に戦う。
曹家の中では曹嵩に対する警戒心は最も低かった。
曹晧と曹操という強過ぎる光に意識も視線も向いていた。
その前は曹騰という巨人が居た。
だから、有力者達は油断しまくっていた。
曹嵩が相手であれば、どうとでもなる、と。
その過信が致命的な隙となる。
覚悟を持った事で、曹嵩の意識は一変した。
抜き放たれる事の無かった秘刃が閃く。
この三ヶ月で、曹家に──否、曹丕を害する可能性の有る勢力の力を削ぐか、排除してきた。
暗殺等の手段ではない。
汚職や不正といった悪事を暴いて。
その為、曹晧達の築いた民の信頼は失われず、高まる。
一方で、劉懿も現皇帝の実姉という立場に配慮・遠慮して動かなかった以前とは変わった。
曹嵩が排除出来無い相手を潰す。
曹操の直属だった諜報部隊を引き継ぎ、影で闇を穿つ。
未来の為ならば、血に染まる事も厭わない。
諜報部隊の皆と共に。
そして、背負う覚悟を持って、初めて判る。
曹操が、どんな思いで未来を思い描いたのか。
血が流れなくては人は、社会は、国は変わらない。
理想は心を惹き付けるが、悲劇こそが世を変える。
それは歴史を繙いても判る事。
だから、劉懿は迷いも躊躇もしない。
確たる背負う覚悟が有りさえすれば。
そして、孫堅達も、馬騰達も同様に。
自分達の足元を固めながら、小さな火種を潰す。
大きな火種は今は無いが、有れば有効活用する。
その為、現状では警戒し、監視するに留まる。
有れば、の話だが。
僅か三ヶ月。
つい、この間まで黄巾党の脅威が有ったのだが。
人々は生きる為に日々の仕事や生活に追われる。
何よりも、今日明日を生きる事。
それが全てなのが現実であり、そんな人々には広くを見る視野や意識というのは生まれ難い。
それだけ多くの民は余裕が無いという事でもある。
その一方で、曹家に関わる多くの者にとっては意味の深い三ヶ月となっている。
曹晧の後任に韓浩が就いた。
黄巾の乱での多くの功績が有る為、反対は無かった。
反対などすれば自分の首を絞める事になる、と宮廷雀達は理解をしているからだ。
それに、曹晧・曹操に比べれば武張った者。
政治という舞台でならば、自分達の方が上だ。
そう考えているから、という理由も有る。
妻の夏侯惇が同じ様に武人という事も大きい。
それは間違いではないが──認識としては不十分。
尤も、正確には意図的に隠していたからなのだが。
勿論、韓浩達ではなく、曹晧達がだ。
韓浩を支える曹仁達も名声という面では武功に偏る。
其処には社会的な背景や時代的な理由も有る為、可笑しいという事は無い。
だから、必要以上には怪しまれない。
だが、実際には韓浩は州牧が務まるだけの能力を持つ。
その程度の事は出来る様に鍛え上げられている。
あの二人が「戦働きさえ出来れば十分」等と思うか?
そんな訳が無い。
それ以上を期待出来るのであれば本人には自覚が無くても鍛え上げるのが二人である。
韓浩も、そんな者達の一人。
自覚が無いから、悟られもしない。
他家や他勢力の内務事情には先ず触れない。
目に見える戦働きとは違うのだから。
自分達が不在となろうとも骨子は揺らがない。
その為の人材育成と組織構築を成してきた。
二人の示した道は決して途切れはしない。
共には在らずとも、二人の意志は皆の心に宿る。
当然ながら、それは一人息子である曹丕にも言える事。
子供ではあるが、両親の灯した意志を受け継ぐ一人。
周囲の──というよりも民の期待は強い。
強いが──子供という事で時間も有る。
だから、民の本当の期待は曹丕の未来に。
その為の努力を曹丕は自らの意志で始めた。
やはり、龍の仔は龍、という事である。
「…………んぅ……」
四肢の感覚よりも先に、全身に気怠さが重りの様になって乗っているみたいに感じる。
だから、起きようとする気力よりも、眠気の方が勝る。
それでも、起きなければならないと判っている。
判っているから、誰しもが「もうちょっとだけ……」と。
自分に都合の良い甘やかしが生じる。
普通であれば、此処で甘えてしまうもの。
そのまま二度寝してしまい──寝過ごす。
ある意味、御約束の流れだと言える。
しかし、そんな甘い誘惑に抗い、決意する。
「ええーっ、まだ寝ようよーっ!」という自分を押し退け気合いで身体を起こそうとする。
「………………?」
横向きの体勢から、右手を着いて起きようとした。
──したのだが……敷き布団の感触がしなかった。
いや、感触が無い訳ではない。
ただ、手を着ける様な
安定感は無い。
──と言うか、妙に柔らかい。
……あと、温かい。
「………………──っ!?」
「まさかっ、遣ってしまったっ!?」という不安が勝って、掛け布団を跳ね上げる様に捲った。
「……ん~…………もぅ朝ぁ……?」
そう言って、眠い目を擦りながら身体を起こす少女。
その性格を反映しているかの様な健康的な褐色の肌。
今まで布団の中に居た為、軽く火照っているのか赤い顔が年齢以上に艶かしく見える。
──が、自分の不安が違っていた事に安堵する。
年齢的には可笑しくはない事なのだが。
自尊というものが芽生え始めた年頃。
そういった恥ずかしい失敗はしたくなくなる。
だからまあ、完全に無防備になってしまう。
目の前に居る相手が心を許している相手であれば尚更だ。
油断ではないが、隙だらけになってしまうのは当然。
ただ、気付いてはいなかった。
目の前に居るのは、優しい姉ではなく、捕食者であると。
ほっ……と一息吐いた、次の瞬間には視界が潰れた。
柔らかく温かい、少し懐かしさも覚える感触が顔を包む。
安心感が有るが、直ぐに息苦しくなる。
最初だけは、驚きながらも「……あ、良い匂い……」と。
そんな風にも思ったのだが、束の間の事だった。
離れようとするが、体勢が悪くて力が入らない。
それならと身体を捻って体勢を変えようとするが、布団に倒され、右足を絡め取られる。
それでも何とか呼吸だけは可能にしようと頭を動かす。
「──ぁんっ、こらっ、暴れないのっ」
そう頭上から聞こえた事に動きを止める。
よく知っている人と判って一安心。
──が、呼吸が妨げられたままな事には変わらない。
自分の頭を抱えている腕を叩こうと手を伸ばし──
「──やはり此処だったかっ!」
──た所で、部屋の扉が勢い良く開かれた音が響いた。
同時に、聞こえた声に事態の終わり──危機が去るのだと経験から即座に理解する。
「あ、おはよ~、冥琳~」
「おはようではないっ! 獅琅を離せっ!」
そう言いながら身体を後ろに引っ張られた曹丕。
解放された視界に映ったのは予想通りに孫策。
つまり、助けてくれたのは周瑜だと判る。
それは判ったのだが──曹丕の視界は再び塞がれた。
孫策から引き剥がした周瑜が守る様に曹丕を自分の胸へと抱き締めた為だ。
しかし、曹丕としては暴れたりはしない。
孫策とは違い、周瑜は力加減をしてくれているからだ。
だから、息苦しいという事は無い。
何より、いつも自分を孫策から助けてくれる周瑜に曹丕は強い信頼を寄せている。
文字通り、身を委ねられる程にだ。
勿論、許嫁の孫策の事も信頼はしている。
ただ、振り回されているから、その分の差は生じる。
孫策にしてしみれば、「えーっ、何でよーっ、冥琳ばかりズルいわよっ!」と言いたいだろう。
しかし、それは自業自得だ。
「そう思うのなら、日頃の行いを正せ」と。
周瑜の御説教が始まる。
それが判っているから、孫策は何も言わない。
頬を膨らませ、睨むだけ。
ある意味、二人の力関係が垣間見える。
身仕度をする曹丕を残し、侍女達と入れ替わる形で部屋を後にする孫策と周瑜。
まあ、孫策は周瑜に耳を引っ張られながらなのだが。
抵抗すると余計に痛いだけだと知っているから大人しい。
「それが判る位に経験豊富なら改めろ」と言いたい所だが周瑜も黄蓋も疾うに諦めている。
これは本質的な事だから直せない、と。
「全く……御前という奴は……」
「え~、何気に冥琳だって獅琅を抱き締めてたじゃない
私と同じでしょう?」
「御前と一緒にするな
私は獅琅を保護していただけだ」
──というのは建前だと周瑜自身も判っている。
勿論、孫策ではないのだから、どさくさに紛れて、という意図的なものではない。
孫策から曹丕を助けると同時に無意識に守ろうとした。
それだけで、その結果として、抱き締める形になった。
ただ、孫策に説教をしながら気付いた。
気付いたが、流れに身を委ねた事も事実だ。
其処に「これは不可抗力で、仕方が無い事だ」と自他への都合の良い言い訳が有った事は否定しない。
特に、途中から曹丕が力を抜いて自分に寄り掛かってきた事は思いの外、嬉しかった。
「くっ……孫策が居なければ……」と。
そう思ったが、事の発端が孫策である為、この結果が実は孫策の御陰だという事実は……素直には認めたくはない。
さて、曹丕を中心とした、この三ヶ月での動きだが。
当初の予定通り、曹丕と孫策は婚約した。
孫策としては結婚したかったのだが。
流石に周囲からの賛成は得られなかった。
──とは言え、猛反対された訳でも、飽きれられたという訳でもない。
寧ろ、悩ませた位だった。
二人の婚約は牽制でしかない。
しかし、結婚すれば政治的にも両家は強く結び付く。
兌州・豫州・徐州・揚州と東部に一大勢力を築ける。
これは様々な面では有利な状況を作り易い。
だから、悪くはない。
……いや、正直に言えば大有りな良案だと言えた。
ただ、孫策自身は良くても曹丕の方が判らない。
この話をすれば受け入れはするだろう。
自分達の結婚による利の一端が判る程度には聡いから。
だからこそ、現時点での結婚には慎重になった。
結婚しても関係が悪くなるとは思わないが。
曹丕が本人も気付かない歪みを生じさせない為に。
因みに、馬家とは既に婚姻が成り、縁戚関係である。
飛び地の涼州ではあるが、東西から中央を睨む形。
まあ、皇帝も縁戚関係に有るので、この睨みは宮廷雀達に対しての意味合いが強い。
この三ヶ月で随分と静かにはなったのだが。
話を戻して。
曹丕の希望通り、孫策との婚約後、様々な指導が始まり、毎日忙しくしている。
当主という訳でもない為、面倒な付き合いは無い。
曹操の様に洛陽に居れば違うのだが。
洛陽の私塾等、比べるまでもない程に、曹丕達の為の教育環境──指導出来る人材は豊富。
その全員が曹晧・曹操に大恩・敬意が有る者達。
それに応える為に曹丕達に喜んで指導する。
自己都合で他所に流れる様な者は一人も居なかった。
そして、その中には孫策と周瑜も含まれている。
曹丕達よりも歳上の二人は実践的な指導も受けている。
その影響という訳ではないのだが、周瑜は口調を変えた。
まあ、一番の理由は黄蓋から離れた孫策である。
以前の様に優しい──いや、配慮した口調では弱い。
そう考えた結果である。
父親達の関係を見ていれば、ガツンと言わなければ駄目と理解しているのだから。
また、自分は陸遜とは違い、父親寄り。
しかし、父親を真似ては孫策に振り回されるだけ。
そこで、黄蓋を見倣う事にした。
はっきりとした強めの口調。
最初こそ自分自身でも違和感が有ったが、孫策を叱る内に気付けば馴染んでいた。
複雑だが、深くは考えない事にした。
感謝するのは、何と無く癪に障るから。
「婚約しているからと言って獅琅に可笑しな噂が立つ様な真似は控えろ」
「大丈夫よ、そんな噂を立てる様な人は居ないから
それに居たら居たで、炙り出せるでしょう?」
「──っ! 御前という奴は……」
そう言った孫策の眼差しは孫堅と黄蓋と同じ。
大切な者を守る為の冷たく鋭利なもの。
ずっと一緒に居る周瑜でさえ、ゾッとする程にだ。
それ故に、それだけ本気なのだと判る。
だから、周瑜も負けては居られない。
曹丕を想う気持ちや覚悟では劣る気は無いのだから。
子供達には子供達の生活が有る様に大人には大人の生活が有るものである。
自身の執務室で韓浩が夏侯淵に睨まれていた。
床に正座し、綺麗な土下座をして。
腕を組み、無言で韓浩を見下ろす夏侯淵。
その眼差しには冷たい憤怒が浮かんでいる。
別に酔って夏侯淵に手を出したとかではない。
昨日までに終わらせていなければならなかった仕事が少し残ってしまっていた為だ。
しかも、後回しにして忘れていた。
夏侯淵から念押しされたのにも関わらず、だ。
一応、朝一で気付き、片付けたので問題は無かったが。
それは結果的には、という事でしかない。
夏侯淵が怒っているのも納得である。
だから、韓浩にも判る。
そして、目の前の義妹は妻よりも怖い。
こういう時の夏侯淵は曹操に近いのだから。
「…………はぁ……次は無いからな?」
「はいっ、肝に命じて置きますっ!」
取り敢えず、威圧はした。
そう判断した夏侯淵は説教を終わらせた。
夏侯惇の事を思えば、韓浩は可愛いものだ。
きちんと言えば理解するのだから。
それに、韓浩が失念した理由が夏侯惇だ。
結婚して各々の家と関係が有るとは言え、姉妹は姉妹。
申し訳無く思う気持ちは有るのだから。
ただ、それはそれ、これはこれ。
韓浩の立場を考えると、甘やかす訳にはいかない。
曹晧と同じ働きを要求はしないが、きちんとして貰うべき部分は、きちんとして貰わなくては困る。
その為の厳しさだ。
韓浩が自分の椅子に座る様子を見ながら、全く足が痺れた様な素振りを見せない事に密かに呆れる。
「やれやれ……平気になる程、慣れているのか……」と。
別に浮気をして夏侯惇に、という事ではない。
主に曹操の説教でだ。
ただ、韓浩は滅多に同じ理由では失敗はしない。
馬洪や夏侯惇・馬超との掛け合い・戯れ合いは除いて。
こればっかりは自分達の関係性や雰囲気によるものなので仕方が無い事だとしか言えない。
夏侯淵自身は巻き込まれた事は無いが。
韓浩が切り替えたのを見計らい、話し掛ける。
「さて、例の調査報告になるが……結論から言おう
やはり、御二人が懸念されていた通りの様だ」
「共犯者が居る、か……」
あの戦い以前から夏侯淵が受けていた密命。
それは黄巾党の出現に繋がった“太平要術の書”の盗難。
それに関与しながらも、黄巾党には関わらなかった存在が居るのではないか、という可能性。
その調査である。
──とは言え、特定出来る様な証拠や痕跡は無い。
しかし、何者かが関与しなければ、成立しない。
そんな矛盾が有る事も間違い無かった。
だから、曹晧達も居るという確信だけは有った。
有ったが──全く見えなかった。
その為、この調査自体、夏侯淵と専任の調査員だけにしか知らされてはいなかった。
韓浩が知ったのも、曹晧の後任になってから。
「まあ、それはそうか……」と納得。
多人数が知る事は漏洩する可能性を高める事に繋がるし、調査している事自体が極秘。
民に知られては口止めは出来無いのだから。
夏侯淵としても何かを掴みたかったが……
結果は確信のみ、という事に留まった。
「……秋蘭は狙いは何だと思う?」
「…………言い切る事は難しいな
御二人でさえ、特定には至らなかった事だ
あまりにも情報が少な過ぎる
せめて、個人を特定出来れば違うのだが……」
「それが出来れば、か……」
夏侯淵の言いたい事を韓浩は察する。
意図や目的は、その人物像が判らなければ見えて来ない。
仮定して推測するにしても、動きから何かが見えるから。
その一切が無いとなると……不可能だ。
曹晧達でさえも頭を悩ませる筈だ。
だが、韓浩は自分には出来無い事だと判っている。
判っているから、深く悩みはしない。
「──よしっ、何か動きが有るまで無視だな」
「……御前らしいな」
あっさりとした韓浩の決断に夏侯淵は苦笑する。
しかし、このまま継続しても難しい事は判っている。
そういう意味では、韓浩の決断は正しい。
曹晧達ならば調整しながら継続させられるのだろうが。
韓浩にも、夏侯淵にも、それは困難。
──となれば、割り切ってしまう方が建設的だろう。
「──けど、必ず動く」
「ああ、そうだな」
何かは判らないが、必ず何かが有る。
そうでなければ、関わる意味が無いのだから。
そして、その時こそが、自分達の反撃の機会。
韓浩も夏侯淵も強い憤怒を双眸に宿す。
だが、それは深く暗い感情からではない。
全く無いとは言えないのだが。
相手に対してよりも、自分自身に対しての後悔が強い。
勿論、それまでの努力や研鑽に手抜きは無いのだが。
あの瞬間に、動けなかった。
それが何よりも腹立たしかった。
如何に曹晧の方が実力が上だろうと。
心の、頭の何処かで、抗う事を諦めていた。
「自分達では抗えない……」と。
その諦念と思い込みこそが最大の後悔。
だから、それを乗り越える為にも。
残された自分達は、あの戦いを決着させる。
そう、決意する。
「今日の夜は集まれるんだったっけ?」
「ああ、夕方には徐州に行っていた翔馬達も戻る予定だ」
「それなら獅琅達と一緒に食事する前が良いか」
「酒が飲めないからな」
そう夏侯淵が揶揄う様に言えば、韓浩は肩を竦める。
同時に「それは秋蘭も同じだろ?」と。
「ふふっ、ああ、そうだな」と。
酒を楽しめるからこその遣り取り。
子供達には見せない──見せられない姿だ。
そして、今話した事も話せない事だ。
これは自分達の戦いなのだから。
別に意地になっているという訳ではない。
曹晧達なら、子供達に託す様な事はしない。
そう思うからだ。
勿論、自分達が引退する様な年齢に成れば話は別だが。
そうは為らないだろうという予感は有る。
言葉には出来無い感覚的なものだが。
二人共に、なのだから気のせいではないだろう。




