終話 残然志刻
漢王朝に広がっていた黄巾党という業火は鎮火。
活躍した曹嵩や孫堅、そして曹皓達に民は喜んだ。
しかし、その曹皓と曹操が犠牲となった事に対して皇帝は深く心を痛め、責任を感じた。
あまりの悲しみに寝込んでしまう程にだ。
犠牲、となってはいるが、死亡したとは言わない。
それは混乱を避ける為であり、後継ぎである曹丕を政略抗争から守る為。
余計な者を近付けない、という意味も有り、曹丕は孫策と許嫁となる事に。
これは飽く迄も、一時的な対処ではある。
しかし、当人達──曹丕が受け入れるなら本決まりという事にもなる。
その為、心中が穏やかではない娘達も。
だが、普段なら賑やかになる流れも今は憚られる。
両親を失った曹丕が誰よりも辛いのだから。
それが判るから、夏侯惇達は悩んでいた。
集まって話をしようとはしているが、誰も何も言う事が出来ずに俯いたまま。
気を抜けば涙が溢れ出しそうな程に。
胸を締め付け、握り潰す様に痛みと苦しみが有る。
どうしようも無く。
「何だよ、御通夜みたいで辛気臭ぇな」
「──っ、康栄っ、貴さ──わぷっ!?」
「桃花源の新作らしい
本当、何処までもマメだよな、あの二人は」
『────っ!!』
遅れて来た上、暴言の様な一言を言った韓浩に対し愛する夫だろうが赦せずに噛み付こうとした夏侯惇の顔に韓浩は紙袋を置くように押し付けた。
それが何かを知り、夏侯惇も、他の皆も顔を上げ、夏侯惇が持った紙袋を見詰めた。
中に入っていたのは桜の花を模した饅頭。
饅頭とは言っても形だけの物ではない。
桜という見た目に拘った逸品。
口に運べば、季節外れの桜の景色が思い浮かぶ。
それは正に食べる芸術だと言えた。
「正式な販売は来春だそうだ」
そう言いながら、最後の一口を放り込む韓浩。
その代わりに、皆で囲む卓上に別の紙袋を置いた。
「……コレは?」
「玲生が卞の親父さんに預けていた物だ」
『────っ!!』
再び韓浩の言葉に驚かされる。
──が、全員が躊躇する。
誰が開ける? 誰が確認する?
責任問題という意味ではない。
誰が相応しいのか、だ。
それを察したのか、韓浩が甘寧を指名する。
曹操なら夏侯淵だろうが、曹皓だから甘寧だと。
尚、自分は取って来た時点で役目は果たした。
そう言わんばかりに。
何より、小難しい事は向いてはいない。
その自覚が有るからだ。
皆の同意を得て、甘寧は深呼吸し、紙袋を開く。
中に入っていたのは三冊の書だった。
その表装からしても見た事が無い。
中を見る前に甘寧は、皆は韓浩を見る。
「どういった経緯でコレを?」と言外に問う。
「今朝、向こうからの使いの人が来て会いに行った
こんな時だし、会い難さは有ったけど……無視する事なんて出来無いからな
──で、行ったら、ソレを手渡された
何でも、「もしも、自分達に何かが有った場合には韓浩に手渡して欲しい」って事らしい
だから、親父さんも中身は知らない」
「……御前は見なかったのか?」
「その序に桃花源に行く様にも言われたからな
それで何と無くだけど判った
多分、ソレは予定表だ」
韓浩の言葉に全員が甘寧の手元を見る。
言われてみれば、納得だ。
いや、寧ろ、そうとしか考えられない。
あの二人なら、こういう事態さえも想定内。
その時の為の備えをしていない筈が無い。
しかも、曹家の中ではなく、卞家の方に。
慎重であり、何処までも見抜いている。
曹家の中に置けば、外圧が掛かった可能性が有る。
それを避ける為、確実に韓浩達に渡す為。
それには、その方法が最も確実だったと判る。
「──っとになぁ……敵わないっての……」
そう馬超は呟きながら涙を流す。
しかし、その表情は困った様な、嬉し気な笑顔。
馬超だけではない、皆の表情も笑顔になる。
この場には居なくても。
その声が、その意志が、確と伝わる。
「ほら、休んでる暇なんて無いよ?」と。
「感傷に浸るのは終わってからにしなさい」と。
背中を押され、尻を叩かれ、歩み出させる。
二人と共に思い描いた未来に向かって。
自分達には成すべき事が有るのだと。
そう思い出させてくれる。
甘寧は一冊を開き──少し読んで夏侯淵に渡した。
そして、そのまま頭を抱えて卓に突っ伏す。
顔を真っ赤にして。
その様子に受け取った夏侯淵が見る事を躊躇する。
だが、見ない訳にもいかない。
見なければ何も判らないのだから。
結果、馬超、夏侯惇と渡り、四人が身悶えする。
曹仁が手を伸ばそうとしたが、四人に睨まれた。
ある意味、韓浩の直感の凄さを四人は知った。
これを何と無くで回避したのだから。
「少し時間を……」という事で四人は離れる。
遠くには行かない。
ちょっと離れた所で固まってヒソヒソと話す。
残された韓浩達。
気にはなるが、聞くのは自殺行為だと判る。
だから、取り敢えず御茶を飲む事にした。
水っ腹になる前には戻ってきて欲しいと。
意外と切実に思いながら。
そんな祈りが通じたのか、予想よりも早い復帰。
だが、妻は夫と目を合わせない。
他の三人とは目を見て話すのにだ。
それで何と無く察してしまうのも、曹皓達の教育の賜物だと言えるのかもしれない。
自ら触れようとは思わなくなったのだから。
残る二冊を甘寧と夏侯淵が各々確認し、頷き合う。
「コレは大丈夫」と。
そう視線で語り合った様に見えたのは気のせいではないだろう。
「此方等は子供達への指南書です
まあ、子供達に限らず、私達を含めて、ですが」
「……またヤバそうな代物だな、大丈夫か?」
「氣が使えなければ解読不可能な細工がしてあり、普通に読むと、古今東西の面白話集です」
「それはそれで興味が有るけどな」
「此方等は康栄の言っていた予定表だ
一応、二十年先の事まで書かれている
同じく、普通に読めば珍味大全集だな」
「……あの二人らしいから疑われ難い内容だな」
「自分自身でさえも囮や目隠しに使うか……」
夏侯淵の言葉に韓浩は呆れ、曹仁は感心する。
反応は各々だが、何方等も当人達を知ればこそ。
何方等にも納得し、頷けるのだから。
「それで、先ずは何だって?」
「玲生様の後任を康栄が引き継ぐ事、だそうだ」
「玲生の後をね、了解…………ん? 玲生の後?
──はあっ!? ちょっ、今の無──」
「皆、確かに聞いたな?」
『聞いた聞いた』
「──俺のバカアァアァァァッッ!!!!」
夏侯淵の淡々とした話し方にも乗せられ、油断して引き受ける事を口にした韓浩が頭を抱えて叫ぶ。
その光景一つで、自分達の在り方を思い出す。
その様子を見ながら夏侯淵は思う。
偶然では有ったが、夏侯淵が読む様に指示が有り、結果的にそうなった。
夏侯淵は曹皓が韓浩が読まない事も想定した上だと思わずにはいられない。
見事に掌の上で転がされているのだから。
そして、韓浩を自身の後任とする理由。
それにも納得している。
単純な統治・政治能力で言えば曹仁や夏侯丹の方が適任ではあるが、二人の場合、曹家と強く紐付く。
悪い事ではないのだが、近過ぎると御互いの急所と為ってしまう可能性も高い。
だから、曹皓達は夏侯惇を妻に持ちながら、適度な距離感に有る韓浩を選んだ。
また、自分達が居る事も大きな理由だ。
統治・政治面は自分達が支え、補えばいい。
そして、韓浩を後任にする一番の理由は在り方。
曹皓達の様な絶対の先導者ではないが、韓浩もまた動ぎない信念の持ち主。
それは自分達も同じだが、韓浩は考え過ぎない。
浅慮なのではなく、自ら考えて判断に困れば素直に周りを頼り、意見を求められる。
勿論、自分達も同じではあるが、考え過ぎて捩れる可能性が有る。
意見や思考が曲がるのは構わない。
強情ではなく、柔軟な証拠なのだから。
しかし、考え過ぎて捩れてしまうと混乱する。
夏侯淵自身、そういう経験が有るのだ。
だが、韓浩はそれが無い。
曲がっても決して捩れはしない。
その気質が、曹皓達は必要だと考えたのだ。
自分達が居なくなった後、韓浩を中心に纏まる。
それが最も良い形だと判断して。
夏侯淵は視線を手元の書に落とす。
これは単純な予定表ではない。
二人が、自分達の事も含めて考え抜いた解だ。
勿論、此処には記されてはいない事も起きる。
しかし、それらは自分達が、子供達が、自ら考えて解決するべき事。
全てを二人に頼る事ではない。
そう出来るだけの力は有る。
そう成れるだけの可能性も有る。
だから、信じて前に進む。
それが自分達が唯一出来る、二人への応答だ。
──となれば、やはり気掛かりは曹丕の事だ。
如何に家族同然の関係だとは言っても、自分達とは立場が違うという意識が常に有る。
夏侯惇や甘寧などは特に顕著だ。
逆に砕けているのは韓浩と馬超。
まあ、この二人は性格的なものも大きい。
しかし、だからこそ曹丕の側には必要だろう。
それも曹皓達は踏まえている。
ただ、それでも今は出来る事が無い。
もどかしいが……待つしかないと思う。
父上と母上が亡くなった。
そう聞かされた時、どうしてか、納得した。
信じたくはない。
そう思う気持ちよりも、その死を受け入れていた。
悲しくない訳が無い。
寂しくない訳が無い。
ただそれでも、下を向いていてはいけない。
そう思う気持ちが強い。
以前と変わらず、澄んだ青い空を見上げる。
色んな感情が胸の中に溢れて混ざり合う。
けれど、同じ位、沢山の思い出も溢れている。
静かに目蓋を閉じれば、記憶の中へと意識は沈む。
「僕も父上や母上みたいに立派な人になる!」
自分を抱き締める母を見上げながら、そう言った。
いつの事だろうか。
常に、そう思っている。
常に、そう頑張っている。
だから、特別な事ではない。
……でも────ああ、そうだ。
父上や母上に、そう言った事は殆ど無い。
この時──父上の凄さを目の当たりにした時。
初めて母上に言った。
言って──少しだけ困った。
父上と母上が、どう思うのか判らないから。
見詰める先で母上は目を細め、優しく微笑む。
「そう……でもね、忘れてはいけないわよ?
私達から、沢山の人から学ぶ事は良い事よ
だけど、貴男は貴男、他の誰にも為れないわ
だから、貴男らしく在りなさい」
そう言いながら視線を上げる。
それに導かれる様に顔を向けた先には──父上。
庭の畑で土弄りをしている父上の背中。
ずっと見ている、その背中が、違って見える。
何も変わってはいない筈なのに。
とても大きく、逞しく、力強く見えている。
尊敬する気持ちも、大好きな気持ちも同じ。
それなのに違って見えるのだから不思議に思う。
「憧憬や理想を懐く事は良い事よ
そこから学ぶ事も多いわ
けれど、それに囚われてしまっては駄目
常に自分と向き合い、自分を知り、信じなさい
貴男だけが貴男を、貴男だけの在り方に導くわ」
「僕だけの在り方?」
「人は誰しもが自分の在り方を求めるものよ
だけど、その多くは似通ってしまい易いわ
どうしてだと思う?」
「………………仲が良いから?」
「ふふっ、そうね
仲が良いと一緒に居たり、同じ事をしたりするわね
だから、似てくるのも頷けるわ
それでも、違いは生まれるものよ
例えば、韓羽と曹忠は同い年で仲も良い女の子で、親同士も親しい関係よね?
でも、二人が似ていると思うかしら?」
そう言われてみると、似てはいない。
似ている部分は有るけれど、それは本の少し。
似ているから仲が良い訳ではない。
仲が良いから似ている訳ではない。
それはそれ、これはこれ。
違うという事が判る。
「似た様な生活、似た様な人生を送る人というのは広い目で見れば、多くなるわ
だけど……そうね、青と赤、二つの色の人が居るわ
その二人は似ている?」
「ううん、似ていない」
「では、其処に紫が入ると、青と赤は何方等が紫に似ているかしら?」
青と赤は別々の色で、紫も別の色。
だけど、青と赤を混ぜると紫になる。
つまり、青も赤も紫に近い、という事。
それでは、何方等がより紫に近いのか?
「……………………判らない」
「それじゃあ、赤紫なら?」
「赤!」
「青紫は?」
「青!」
「そうね、何方等かに傾くと判り易いわ
でも、青と他の色で紫になるかしら?
赤と他の色では?」
「…………紫っぽいだけ?」
「ええ、似ているだけね」
「──あっ!」
そう母上に言われて気付いた。
全く違うと思える青と赤も、紫が間に入っただけで二つの距離は近付く事に。
そして、それが似ているという事。
似ているというのは、同じという事ではない。
全く同じな訳ではない。
飽く迄も、近い様に思えるというだけ。
「どんな人も、自分以外には成れないわ
けれど、自分以外には自分にも成れないのよ
だから、自分らしさを大事にしなさい」
「自分らしさ……」
「今はまだ、判らないかもしれないわ
でも、自分らしさというのは必ずしも自分で気付く事だとは限らないわ」
そう言って母上は再び父上の背中を見詰める。
先程よりも優しく、だけど、とても嬉しそうに。
「他の誰かとの繋がりが、それを教えてくれる
気付かせてくれる
だから、その手を開き、繋ぐ事を忘れないで
繋いだ手は、きっと貴男に何かを教えてくれるわ」
そういった母上の声と共に記憶は閉じられる。
沈んでいた意識が身体の感覚と共に戻る。
微風が頬を撫で、毛先を揺らした。
目蓋を開き、見詰めるのは自分の右手。
この手は何を掴んでいるのだろう?
この手は誰と繋がっているのだろう?
自分では、よく判らない。
だけど、判る事も有る。
待っていれば、誰かが優しく握ってくれるだろう。
誰かが繋がってくれるだろう。
でも──それではいけない。
それでは、自分は前に進む事は出来無い。
自分から行動しなければならないのだと。
「────獅琅?」
ギャアギャアと騒いでいた韓浩が、急に止まったと思ったら、意外な名を口にした。
それと同時に韓浩以外の面々は反射的に緊張する。
「今のを見られた?」「失望された?」等々。
悪い方向の思考と不安が脳裏を過ったからだ。
その為、平然としている韓浩に「おいっ!」と声を掛けて止めたくなる。
「どうした?」
「……御願いが有ります」
「何だ?」
「僕に戦い方を教えて下さい!」
『────っ!!』
曹丕からの思い掛けない言葉に驚く。
──が、同時に不安にも思う。
もし、“仇討ち”を望んでいるのだとしたら。
それは決して叶わない。
寧ろ、燃え尽き消えぬ復讐心と憎悪が業火となって曹丕自身を蝕む事になる。
それ故に、此処での対応は非常に重要。
二人から託された身としては難解な状況だが。
間違ってはならない。
その重圧に思考の迷路を彷徨ってしまう。
「御前はまだ幼い、まだまだ子供だ
戦う必要なんて無い
それを判っていて、そう言ってるんだな?
なら、どうして戦い方を覚えたいんだ?」
「父上と母上が守ったものを守りたいからです!」
韓浩の問いに真っ直ぐに答える曹丕。
その言葉に、その姿に夏侯惇達は泣きそうになり、必死に我慢し、堪える。
……いや、夏侯惇は顔が歪み、涙も出ているが。
曹丕と向き合う韓浩は口角が上がりそうになる。
曹皓達が「自分よりも子供らしい」と言っていたが韓浩から見れば、十分に似た者親子だ。
誰が、この歳の子供が、両親を失ったばかりなのに悲しむよりも守り継ぎたいと言うと思うだろうか。
韓浩達でさえ、想像すらしていなかった。
誰かに言わされている訳でもない。
曹丕の意志の宿った瞳を見れば判る。
自分で考え、自分で決めた。
間違い無く、曹丕自身の言葉だ。
「……ったく、誰に似たのかねぇ……」と。
此処には居ない二人に見せて遣りたくなる。
「やっぱり、血は争えないみたいだぞ?」と。
揚げ足を取り、揶揄って遣りたくなる。
そんな思いを胸に、韓浩は曹丕に問う。
「言われなくても孰れは教えるつもりだった
けど、御前は今から始めたいんだな?」
「はい!」
「遣るからには中途半端な事はしない
他の子供達が遊んだりしている時も、遊べない
同じ様な経験をする事も出来無い
頭も身体も心も苦しいし辛いし嫌になる
それでも、御前は望むのか?」
「……羨ましくない、止めたい、そう思わないとは言えないですし、思いません……
でも! それよりも後悔したくないんです!
子供だから、子供だったから……
それを言い訳にして何も出来無かった事を、自分を正当化したくないから!
だから! 僕は強くなりたい!」
真っ直ぐに、その感情を言葉に乗せる曹丕。
韓浩だけではなく、夏侯惇達にも意志が伝わる。
その小さな姿に、二人の背中が重なって見える。
韓浩は右手を伸ばし、曹丕の頭を撫でる。
曹皓とは違う、少し乱雑で、だけど安心する掌。
曹丕にとっては触れ馴れている温もりの一つ。
「覚悟しとけよ?
俺達が教えられた全てを御前に伝える
言っとくがな、御前が思ってる以上に、あの二人は指導に関しては鬼だったからな?」
「はいっ!!」
「康栄、また勝手な事を……」
「思春、本当にそう思ったんなら止めたろ?」
「…………貴男も十分に染まっていますね」
「それは御互い様だと思うけどな」
曹丕が戻った後、最初に甘寧が声を掛けた。
責める様にも聴こえるが、それは愚痴だ。
そう判っているから韓浩も冷静に切り返す。
韓浩の言った通り、御互い様なのだから。
「──で、どうするんだ?
流石にまだ身体も出来ていないのに武の訓練なんて出来無いよな?」
「それなら心配は要りません」
「──って事は?」
「ええ、早期指導方法も記されています」
「ははっ、マジで用意周到だな」
「康栄、愛紗はどうするんだ?」
「そこは本人次第だな
ただまあ、それとなくは話してやるさ
流石に獅琅の様な考えはしないだろうけど、獅琅を支えたいと本気で思うなら、それで十分だろ?」
「……そうだな」
韓浩の言葉に夏侯惇は一瞬、目を丸くした。
だが、直ぐに理解して、笑みを浮かべる。
自分達が曹皓達を支えたいと思った様に。
自分が韓浩を支えたいと思った様に。
本気でさえ有れば、それで理由は十分。
本気なら、どんな事でも頑張れるのだから。
それを知っているから。
それ以上の言葉を夏侯惇は必要とはしなかった。
「……康栄、御前の初仕事が決まったな」
「ん? 何だよ、秋蘭、いきなりだな……」
「獅琅と許嫁になる雪蓮を一緒に迎えに行け」
「…………は?」
「内外に見せる事も必要だからな」
「あー……成る程なぁ~」
夏侯淵の意図を察し、馬超が頭の後ろで腕を組み、他人事の様に苦笑する。
まあ、事実、他人事ではあるのだが。
直ぐに察したのも経験者だからだ。
「二度と遣るかーっ!」と羞恥心から涙目になり、顔を真っ赤にしながら叫んだ記憶がチラついたが、直ぐに掻き消して忘却する。
「獅琅は判るけど……何で俺も一緒なんだ?」
「玲生様の後任である事を獅琅が雪蓮を迎える際に立ち会う事で示す為だ」
「あー……」
夏侯淵に言われて、直ぐに理解する韓浩。
だが、その表情は「逃げ道は無しか……」と諦念を露にしていた。
「しっかり遣るんだぞっ!」と背中を叩く夏侯惇を恨めしそうに見ているが、伝わらない。
託された使命や役目に燃えているから。
空を見上げ、韓浩は思う。
地上に立つ今の自分の様に。
曹皓達の下に在る事が、どんなに楽だったかと。
及ばないにしても。
その天に近付かなくてはならない。
「……本当、何処までも厳しいよなぁ……」
愚痴る様に、語り掛ける様に、親友を想う。
例え、その身が側には存在していなくても。
受け取ったものは自分達の中に存在している。
在り続けてゆく。
だから、常に共に在る。
だから、ちゃんと見せなくてはならない。
自分達が託された未来を。
そう、決意を新たにする。
曹皓達の影響力は大きかった。
それは誰もが理解している。
しかし、一人息子の曹丕が自ら立ち上がった様に。
二人から意思を受け取った者は俯きはしない。
家族愛の塊たる男は悲哀を飲み込み前を向く。
支えてきたつもりで、支えられてきたのだ。
それに報いらなくては死んでも死に切れない。
目覚める筈の無かった龍が静かに目蓋を開く。
命を賭して繋がれた生を歩む女は涙を見せない。
溢れんばかりの愛情を、残された種子に注ぐ。
既に芽吹き始めてはいるが、傷む事が無い様に。
愛し、守っていく。
その為になら、自らの手を穢す事さえ厭わない。
その心に冷たく鋭い刃を懐く。
小さな心は傷付いている。
大切な存在は、もっと辛く、苦しい筈。
それなのに、立ち上がった。
立ち上がり、前に向かって踏み出した。
その姿に、思わず見惚れた。
胸が跳ねそうな程に鼓動が喧しく高鳴る。
しかし、我に返り──動揺する。
どうしようもなく焦りが強まっていく。
少し先に居た筈が。
自分が手を引いていた筈が。
気付けば横を通り過ぎ、その背中を見ている。
このままでいいの?
──いい訳が無い!
負けてなるものか!
普段は見えない負けず嫌いな気性が奮い立たせる。
先に居かれたのなら追い掛けるだけ。
追い掛けて、追い付いて、追い抜いてやる!
そんな気概を持って踏み出してゆく。
こんな思いをしたくはないから。
「……よし、決めたわ」
空を見詰めていた青い瞳には決意が宿った。
そう呟く親友を、傍らに座っていた周瑜は見詰め、大きな溜め息を吐いた。
聞きたくはない。
しかし、聞かなくては更に面倒な事になる。
その事を知っているから、頭痛がしてくる。
経験というのは時に自らを苦しめるものだ。
「…………正直、聞きたくはないけど、何を?」
「私、獅琅と結婚するわ」
グッ……と、胸の前で右手を握り締める孫策。
その視線は曹丕が居る方角の空を見詰めている。
本気なのだと、それを見れば周瑜には判る。
判るが──頭には疑問符が浮かぶ。
「……? 既に婚約の話は纏まっているけど?」
「違うわよ、婚約じゃなくて結婚するの!
本当に獅琅の御嫁さんになるの、今直ぐに」
「…………………………はあっ!?」
孫策の言葉に周瑜は驚くしなかった。
──いや、冷静に考えれば何も可笑しくはない。
政治的な意味合いも含まれはするが、曹丕を守る事を第一に考えるのであれば、有りだと言える。
だが、周瑜の感情が認める事を拒んだ。
──と言うか、「貴女に正妻が務まると?」と。
割りと本気で周瑜は問いたくなる。
陸遜を、黄蓋を、曹操を見ているから。
孫策に、それが務まるとは思えなかった。
だから、それは自分が相応しいと思う。
だから、婚約は仕方無く受け入れた。
今は曹丕を守る為には必要な事だから。
そう、自分に言い聞かせて。
それを──孫策は何と言った?
周瑜の中で、今の一瞬で孫策が下位に転落した。
──と言うより、任せては置けないと判った。
「……雪蓮に任せる位なら私が獅琅と結婚する」
そう言った周瑜に、孫策は一瞬、目を丸くする。
しかし、直ぐに楽しそうに笑みを浮かべる。
──否、寧ろ、挑発する様に口角を上げている。
「へぇ……冥琳がねぇ~
でも、私は正式に決まった相手よ?」
「許嫁としてはね
まだ結婚出来るとは決まっていない
だから、私にも可能性は有る」
真っ直ぐに面と向かって、そう宣う周瑜。
孫策は嬉しくて楽しくて仕方が無い。
控え目で、いつも自分の後ろに控えていた親友が、今、本気で本当の恋敵になった。
譲るつもりは無い。
だが、勝ち取ってこそだと思う。
母や曹操の様に。
派手に、華麗に、心の侭に舞って。




