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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第20話 NOT FOUND

 図書室を出ると、空気の温度が少しだけ違った。


 同じ校舎の中なのに、廊下の静けさは図書室の中より薄い。どこか遠くで椅子を引く音がして、階下から部活の掛け声みたいなものがかすかに滲んでくる。普通の学校の音だ。だが、レンにはその“普通”がかえって鬱陶しかった。


 端末を握る手に、まだ微かな熱が残っている。


 通信相手を待たせている。分かっている。分かっているが、図書室を出た直後もしばらくは足が早くならなかった。紗希を一人置いてきた、という事実が、思ったより重く足首に引っかかっていたせいだ。


「……クソ」


 小さく吐き捨てる。


 階段手前の防火扉を押し開ける。


 非常階段の空気は、校内よりさらに乾いていた。コンクリートと埃の匂い。壁に反響する足音。人の気配はほとんどない。話をするなら、ここが一番ましだった。


 レンは踊り場まで下りて、ようやく立ち止まる。


 そこで一度だけ、息を吐いた。


 端末を開く。


 表示された短い通知文面を見て、目つきが変わる。軽い呼び出しではない。向こうも、急ぎで返してきている。


 レンは迷わず通信を繋いだ。


「相馬だ」


 声は低い。

 図書室で紗希と話していた時より、明らかに低い声。


 彼が仕事で使っている時の声だった。


「確認できたか」


 返答を待つ間、踊り場の手すりへ背を預ける。視線は階段の上下を一度ずつ見る。誰もいない。だが、それでも完全には気を抜かない。


「早く頼む」


 短く言い足す。


「時間がない」


 その最後の一言だけ、少しだけ本音が混じった。

 冷静さを崩すほどじゃない。けれど、急いでいることだけは隠しきれていなかった。


 踊り場の窓から、夕方の光が細く差していた。

 埃っぽい光だった。


 鉄の手すりの縁だけが白く浮いて、その下はすぐ鈍い灰色へ沈む。校内の喧騒も、ここまで来るとずいぶん薄い。遠くで誰かが笑った気配がしても、コンクリートの壁に当たる頃には、もう別の場所の音みたいに平たくなる。


 端末の向こうで、短いノイズが走った。


『確認した』


 事務的な声だった。男か女かも分かりづらい、温度の薄い声だ。


『御堂高の公開記録はかなり削られてる。だが、“雛”に繋がる可能性のある記録はある』


 レンは踊り場の壁に背を預けたまま、目を細める。


「人名、でいいんだな」


『断定はできない。だが、怪異の即席ネームと見るよりは自然だ』


 返答は早い。


『古い事故記録、それと教職員家族に関する欠損データが噛んでる』


「欠損、ね」


 レンは小さく舌打ちした。

 思ったよりも学校側の処理が雑なのか、逆に丁寧すぎて穴が見えるのか、まだ分からない。だが、痕跡は残っている。完全には消しきれていない。


『それと、今の現象だが』


 通信相手の声が、一段だけ低くなる。


『単独霊としては不自然だ』


「霊、だと? 死人が化けて出たって言いたいのか?」


 レンの眉がわずかに動いた。


『あくまで怪異の種別の話だ。死に際の恐怖の感情が、黒く沈殿してブラックベインの脈を通して具現化された怪異』


 一般的な怪異の成り立ち方ではある。

 だが、レンの引っかかっていたのはそこではない。


『……しかし、それにしてもだ。分身性。再生性。命令反応。加えて、声の再生が強すぎる。普通の残留思念の挙動じゃない』


「……誰かが手を入れてるってことか」


『その可能性が高い』


 踊り場に、少しだけ沈黙が落ちた。

 レンは端末を握り直す。


 それで、教室で見たものの輪郭が少しだけ変わる。少女めいた怪異。ばらばらの口。増える断片。外から飛んできた命令。あれは“ただそこにいるもの”じゃない。誰かが何らかの形で、維持している。


 胸の奥が、嫌な感じに冷えた。


「……それで終わりか?」


 声は平坦に保ったつもりだったが、少しだけ急いていた。


『志藤と、外部人物の接触履歴らしきものも出た』


 レンの指先が止まる。


「外部人物?」


『記録上は断片的だ。学校側の報告書には名前が出ていない』


『だが、こちらの監視対象リストと、照合反応がある』


 レンの喉が、かすかに鳴った。


「……どの案件だ」


『まだ断定できない』


「そういう言い方をするってことは、ろくな名前じゃねぇな」


『少なくとも、現場判断で無視していい相手ではない』


 レンは視線を落とした。

 踊り場の床は汚れている。靴跡と、古い雨染みと、誰かが蹴ったらしい小石。


 その全部が、今は妙に遠かった。

 名前は出ていない。

 だが、照合の方向だけで十分だった。


 忘れようとしても、忘れきれない種類の案件がある。“彼女の件”と無関係だと、心の底から思えたこともない。

 それでも、ここでその影が出るのは最悪に近かった。


「確度は」


『高いとは言えない。だが、無視できる低さでもない。……少なくとも、“志藤が単独でここまでやってる”線は薄くなった』


 レンは舌打ちを飲み込んだ。


 分かっていた。

 志藤の執着だけで説明するには、あの怪異は動きが整いすぎている。


 誰かが型を与えた。

 そう考えた方が、嫌なくらい辻褄が合う。


「……以上か?」


『それともう一つ。接触時期の前後で、志藤側に変化がある』


「変化?」


『片目の不調。短期の記憶欠落。それから、怪異反応の制御精度の上昇』


 レンは眉を寄せた。


「……医療記録か?」


『断片だけだ。だが、並べると妙に形が揃う』


「最悪だな」


『同感だ』


 レンは目を閉じた。

 紗希に今すぐ戻って伝えるべき情報が、一気に増えた。いや、戻る前に、自分の中で整理しないと危ない種類の情報だった。


 雛という人物は実在した可能性が高い。


 今の“ひな”は単独霊じゃない。


 志藤の背後に、ミカゲの線があるかもしれない。


 どれも重い。


 その上で、一番まずいのは、その情報を持った自分が、いま図書室から離れていることだった。


「……分かった」


 レンは低く言う。


「十分だ。戻る」


 通信相手は、そこで少しだけ間を置いた。


『それと、追加で一点』


 レンの眉が寄る。


『“雛”に該当する人物記録、苗字が出た』


 踊り場の空気が、そこでひどく薄くなった気がした。


 レンは何も言わない。

 端末の向こうの声が続ける。


『雛という人物の苗字は――』


 その先を聞いた瞬間、レンは壁へ後頭部を軽く預けた。


「……まあ、やっぱりそうだよな」


 乾いた笑いにもならない声だった。


「そうなるよな」


 納得と、苛立ちと、嫌な予感だけが、短い二言に混ざっていた。

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