第10話 進路指導室のひな
美和の唇が、もう一度だけ震えた。
「……先生に、呼ばれて」
そこで声が途切れる。
空き教室の中は静かだった。
扉の向こうにはまだ放課後のざわめきが残っているはずなのに、ここまで入ってくる頃には薄まっている。誰かの笑い声も、机を引く音も、遠くの校内放送も、一枚向こう側の出来事みたいにぼやけていた。
美和は椅子に浅く腰かけたまま、背もたれに体重を預けきれずにいる。
口元へ上がりかけた手が、途中で迷ったみたいに止まり、それから結局また唇のあたりへ戻った。
紗希はその斜め前の席に座ったまま、小さく頷く。
「うん」
返す声は低い。
「大丈夫です。ゆっくりで」
美和はすぐには続けない。
喉の奥で、ひゅ、と細い空気の音だけが鳴る。
教室の後ろ寄り、少し離れた机の角に腰を預けているレンは、そこから動かなかった。二人へ近づけば、そのぶん美和の呼吸が浅くなると分かっている。
しばらくして、美和が途切れ途切れに言葉を押し出した。
「……放課後、ちょっと……話があるって」
指先が、口元の布地をきゅっと押さえる。
レンが短く聞く。
「先生って、担任?」
美和は小さく首を振った。
「……違う」
紗希が、急かさずに続ける。
「じゃあ、誰ですか」
美和の目が一瞬だけ上がる。紗希の顔を見て、それからまた落ちた。
「……志藤先生」
その名前を言うだけで、肩が少し強張った。
紗希は表情を変えず、もう一歩だけ先を促す。
「どこで、ですか」
美和の視線が、床の一点へ落ちる。
そこには何もない。けれど、見たくないものを見ないために、そこを見ているような目だった。
「……進路指導室、です」
その一言のあと、美和はまた黙り込んだ。
黙ったまま、今度は教室の扉の小窓の方へ視線が行きかける。ほんの一瞬だ。けれど、ガラスがあると意識した途端に顔がこわばり、すぐに目を逸らした。
レンもまた、机の角に腰を預けたまま目を細める。
志藤。
進路指導室。
それだけなら、学校の中ではいくらでも成立する話だ。教師が生徒を呼ぶこと自体は、珍しくもなんともない。
けれど美和の声の掠れ方と、口元を押さえる癖と、いま小窓の反射を避けたあの動きが、それをただの呼び出しで終わらせていない。
紗希が、膝の上に置いた手を動かさないまま言う。
「そこで、何かあったんですね」
美和はすぐには答えなかった。
代わりに、息を吸う。浅く、細い呼吸だった。喉のどこかで引っかかって、そのまま空気だけが少し漏れる。
「……先生は、普通で」
ぽつりと、そう言う。
「最初は、進路の話してて……」
そこまでは、まだ普通の面談だったのだろう。
だからこそ、その先だけが強く残っている。
美和は膝の上で指先を握り込んだまま、次の言葉を探していた。思い出さないまま済ませられる場所を探しているみたいな顔だった。
紗希は席を立たない。
前のめりにもならない。
ただ、美和が言葉を落としてくるのを待てる位置に、静かに座っている。
「でも、途中で」
美和の声が、そこだけわずかに揺れる。
教室の窓際で、カーテンがかすかに動いた。
外から入る風は弱い。音と呼べるほどのものではない。なのに美和の肩は、その小さな気配にさえすぐ反応した。
紗希が、やわらかく相槌を打つ。
「うん」
「……なんか」
美和の目が、扉の方へ行きかけて止まる。次に窓へ流れそうになって、それも途中で切れる。
見たくない。
けれど、見てしまうかもしれない。
そういう躊躇が、視線の動きだけで分かる。
「いた、気がして」
その一言で、教室の中の空気がさらに薄くなった気がした。
レンが短く聞く。
「中に?」
美和は頷きかけて、うまくいかず、代わりに口元を押さえた。
「……ちゃんと、見えたわけじゃないんです」
それは言い訳にも似ていた。自分でも曖昧だと分かっているから、先にそう言ってしまいたいのだろう。
「でも」
美和はゆっくり息を吸う。
喉の奥で、ひゅ、と細い音が鳴る。
「鏡の前、だったかも」
紗希は少しだけ体をずらした。
美和の視線の先に、教室の窓が入らない角度へ、自分の肩を置くみたいに。
「鏡の前に、誰かいたんですか」
問いは短い。
けれど今度は、紗希が聞いた。
美和は首を横に振ろうとして、途中で止まる。
違う、とも言いきれない顔だった。
「誰か、っていうか……」
その言葉の途中で、視線がまた扉の小窓へ滑りかける。
ガラスがある。
ほんのわずかでも、自分や誰かの顔が映るかもしれない場所だ。
紗希はその流れを見て、さりげなく椅子を少しだけ引いた。自分の位置で、その反射線を断つ。
「見えた通りで大丈夫ですよ」
美和は息をこぼす。
少しだけ呼吸が戻る。
「……女の子、みたいなのが」
その言い方には確信がない。
だが、逆にそれが生々しかった。はっきり見たのではない。見えていないのに、そこにいた感触だけが残っている。
レンは机の角に体を預けたまま、目だけを細める。
昨日の夜道で見たものと、いま出てきた“女の子みたいなの”が頭の中で重なった。
まだ線は一本じゃない。
けれど、離れてもいない。
紗希はそれを顔に出さない。ただ、もう一度だけ頷いた。
「それで?」
急がせない声だった。
美和の肩が強張る。
言うかどうか、迷っている。ここまで出したのに、そこから先だけは喉が拒むようだった。
「……先生、言ったんです」
レンが短く返す。
「何て?」
その瞬間、美和の手が反射みたいに強く口元へ上がった。指先が唇のあたりを押さえ込む。声を出すことそのものがまずいことみたいに。
「……“ひな”って」
教室の中で、その音だけがひどく小さく、ひどくはっきり聞こえた。
美和は言った直後に息を詰める。自分の口からその名前が出たことに、本人がいちばん驚いたみたいだった。
紗希はすぐには何も言わない。
間を壊さないように、ほんのわずかに視線だけを和らげる。
美和が続ける。
「たぶん……そう、呼んでて」
喉がうまく開かない。声は途中で細く折れる。
「でも、すぐ」
「聞き間違いだって……言われて」
目を閉じる。
強く、ではない。見たものを消そうとしているみたいな閉じ方だった。
「疲れてるからだって」
「そんなの、いるわけないって……」
外の廊下で、誰かが走り抜ける音がした。
扉一枚向こうの、まったく別の世界の音だった。なのに、その何でもない足音でさえ、美和の肩はまたぴくりと震えた。
レンがここで初めて、もう一歩だけ要点へ寄せる。
「先生本人が、そう言った?」
美和は目を開けないまま、頷いた。
「……はい」
それから、今度は自分に言い聞かせるみたいに、細い声で繰り返す。
「でも、私……聞いたんです」
「絶対、聞いたのに……」
その“絶対”は強くない。
むしろ、消えかけた火を自分の手で庇うみたいな言い方だった。信じ切れているわけではない。それでも、あれを聞いたという感触だけは手放したくない。
紗希はそこで、すぐに整理へ入らなかった。
代わりに、ひとつ深く息をしてから言う。
「分かりました」
短い言葉だ。
だが、それだけで十分だった。
美和の証言を、証言として受け取ったという返答になる。
「ありがとうございます、美和」
美和の唇が少し動く。
目が、ようやく紗希へ向く。
「……私」
そこで言葉が止まる。
紗希は待つ。
美和は、自分の膝の上へ視線を落として、小さく聞いた。
「おかしく、なってない?」
教室の後ろから、レンが静かに答える。
「聞いたことを、聞いたって言ってるだけだよ」
変に優しくも、変に断定的でもない言い方だった。ただ、そこにあるものをそのまま返しただけの声。
紗希も続ける。
「少なくとも、私はそう思いません」
美和の肩が、ほんの少しだけ下がる。
それで終わったように見えた。
けれど、すぐにまた美和の目が教室の扉へ向いた。
扉の小窓。
その向こう側。
何があるわけでもないはずの場所へ、視線だけが吸い寄せられていく。
「……あと」
声がまた細くなる。
紗希が目線だけで促す。
「変なこと言ってるって、思うかもしれないけど」
「思いませんよ」
返事はすぐだった。
美和は一度、唇をきつく結ぶ。
結びきれずに、また指先がそこへ触れる。
「……あれから、ずっと」
教室の空気が、そこでわずかに張る。
「誰かに見張られてる気がして」
言ったあと、美和はもう扉の方を見なかった。見ないようにしているのが分かる顔だった。
紗希の視線が、その小窓へ流れる。
レンも、机の角に預けていた体をほんのわずかだけ起こした。
外のざわめきは、まだ遠いままだった。
なのに、その向こうに何か別の気配が混じったような気がして、教室の静けさだけが急に薄くなった。




