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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第9話 怪奇の呼び声

 放課後の御堂高校は、外から見ればごく普通の学校だった。


 正門の脇には下校する生徒の流れができている。部活へ向かう者、友人と並んで帰る者、校門の前で立ち止まって話し込む者。グラウンドの方からは運動部の声が飛び、校舎の窓にはまだ昼の名残の光が薄く残っていた。


 昨日の夜、あの進路指導室で起きていたことを知らなければ、ここが何かの中心だとはまず思わない。


 レンはその平穏な風景から、少し外れた位置に立っていた。


 制服ではない大人の男が、放課後の校門前に立っているだけで、それなりに目を引く。

 長い茶髪を後ろで束ね、暗い色のジャケットを羽織った細身の青年。胸元に小さな十字架。


 だからレンは、正面きって門の真ん前には立たず、少し脇へ寄っていた。


 待ち合わせ相手が高校生である以上、余計な目を集めるのは避けた方がいい。そう考えての位置取りだったが、本人も半分は、学校という場所それ自体に一歩引いていたのかもしれない。


 やがて、校門の内側から紗希が出てきた。


 昨日〈灯〉で見た時と同じ顔。


 けれど、制服だけの姿になると印象は少し変わる。エプロンがないだけで、喫茶店の店員ではなく高校生に見える。


 もっとも、首元の白い包帯だけは相変わらず目立っていて、そのせいで「普通の女子高生」に見えきらないところも同じだった。


 紗希はレンを見つけると、軽く手を上げる。


「こんにちは、レンさん」


 声の調子は昨日と変わらない。


 柔らかい。だが、ただの愛想ではない。最初から、こちらが来ることを前提にしていた声だ。


 レンも片手を上げて応じる。


「どうも。約束通り来てみた」


「ありがとうございます」


 紗希はそう言って、校門を出たところで一度立ち止まった。


 校舎の方を振り返る。ほんの一瞬だけ、何かを確かめるみたいな目だった。誰かを探しているわけではない。もっと癖に近い確認だった。


 レンはその横顔を見ながら、昨日から引っかかっていたことを口にする。


「昨日の感じからして、来ないんだろうなとは思ってたけど」


 紗希はすぐに意味を汲んだらしい。小さく苦笑する。


「先輩のことですね」


「うん」


 レンは肩をすくめる。


「食い物の話でも怪異そのものの話でもないと、あの人あんまり乗ってこなさそうだし。……それにしても」


 そこで少しだけ声の温度を落とす。


「ただ興味がないってよりは、やたらシャットダウンしたがってるようにも見えたけど?」


 紗希は「ああ」と小さく頷いた。

 驚きはしない。


 その見立ては、たぶん彼女の中でも最初から正解だったのだろう。


「あの人、この高校の生徒だった人ですから」


 レンの眉が上がる。


「……“だった”?」


 紗希は頷いた。


「私が先輩って呼んでるのも、その名残ですよ。私より学年が二つ上の先輩です。正確に言うと、“元”先輩ですかね」


「へえ」


 それでようやく、昨日から引っかかっていた細部がいくつか繋がる。


 紗希が恭介を“先輩”と呼ぶ距離感。


 恭介が学校の話題になると露骨に温度を落とす感じ。


 あれは単に不良っぽい男が学校嫌いなだけじゃない。もっと直接的に、その場所と関わっていた人間の拒否感だ。


「“元”生徒だからでしょうね。私が学校の話題を出すと、露骨に嫌がるんですよ。……嫌がる、というより」


 紗希はそこで少しだけ言葉を選んだ。


「たまに、聞こえてないみたいな顔をするんです」


「聞こえてない?」


「はい。学校の話をしているのに、別の場所を見てるみたいな。進路指導室の話をした時なんか、露骨でした」


 紗希は軽く首を傾げる。


「本人は、腹が減っただけだって言いますけど」


「なるほどね」


 レンは視線を校舎へ向けた。


 夕方の光を受けた窓が、何枚も並んでいる。


 普通の学校だ。


 そう見える。


 だが、あの恭介が露骨に話を切りたがる程度には、彼にとってここは面倒な場所なのだろう。


「だから昨日、あそこで細かい話をしても、たぶん途中で席立ってたと思います」


 紗希は少しだけ肩をすくめた。


「先輩、分かりやすいので」


 レンはその言い方に、少しだけ笑う。


「たしかに、分かりやすかった」


「でしょう?」


 そう返してから、紗希はようやく校門の内側へ向き直った。

 ここから先は、喫茶店〈灯〉ではなく、御堂高校の話になる。


「じゃあ、行きましょうか」


 紗希が歩き出す。


 レンもその隣へ並んだ。


 門をくぐる瞬間、放課後の学校の空気が近づいてくる。

 チャイムの残響、人の話し声、床を擦る上履きの音。全部ちゃんと日常のものだ。


 だからこそ、その中に混ざる異常は、昨日の〈灯〉よりも見つけにくいのだろうとレンは思った。


 校舎の中に入ると、学校の音はさらに細かく分かれた。

 昇降口の方では、部活へ向かう生徒たちが上履きに履き替えている。廊下の奥からは、机を引く音と、まだ帰り支度の途中らしい話し声が聞こえた。


 どれも、学校としては当たり前のものだ。


 紗希はレンより半歩だけ前を歩いていた。

 その少し後ろを、レンがついていく。


「昨日の続き、聞かせてもらえる?」


 歩きながら、レンが静かに言う。


 声量は抑えていた。教師や他の生徒の耳に入らないようにという配慮もあるし、場所が場所だけに、こちらから緊張を煽りたくないのだろう。


 紗希は振り返らずに頷いた。


「はい」


 すぐには続けなかった。


 曲がり角で一度足を緩め、正面から来る生徒二人組を先に通す。そのうち一人が、鏡のある掲示板の横を通る時、ほんの少しだけ顔を背けた。


 紗希の目は、それを見逃さない。


「最近、ちょっと変なんです」


 再び歩き出しながら、紗希が言った。


「変っていうのは?」


「最初は、体調不良かなって思ったんですよ」


 紗希は廊下の窓の方へ目をやる。


「口数が急に減った子がいて。声が、なんていうか……出しにくそうな感じになってる子もいて」


 角を曲がる。


 廊下の先には、窓ガラスに夕方の色が映っている。そこを歩いていた女子生徒が、反射的にガラスの方を見かけて、すぐ目を逸らした。


 レンはそこまで気づかなかったが、紗希の言葉には迷いがなかった。


「鏡とかガラスを、妙に避ける子もいます」


 レンの視線が自然と壁際へ流れる。


 消火器の上、掲示物の横、小さなガラス面がいくつかある。確かに、普段なら誰も気にしないような場所だった。


「ぼんやりしてる、って言い方でも近いんですけど。寝不足とか、風邪とか、そういうのでも説明はできるんです。でも……」


 そこで初めて、紗希は少しだけ振り向いた。

 校内を案内する顔ではなく、昨日の〈灯〉でメモを取っていた時の顔に近い。


「それだけじゃ済まない感じがするんですよね」


 レンは否定も肯定も急がずに。

 小さく吐息を挟んだ。


「昨日の被害者と、近いかもしれないな」


 ぽつりと、少し自信なさそうに呟くレン。


 紗希は前へ向き直る。


「たぶん」


 今度は、迷わず答えた。


「少なくとも、私にはそう聞こえました。レンさんのお話」


 昇降口へ向かう階段の前を通り過ぎる。


 その途中、下の段に座ってスマホを見ていた女子生徒が、二人の気配に気づいて顔を上げた。何でもない一瞥だったが、その子は口元へ手をやってから、少しだけ慌てて立ち上がる。


 その仕草を、今度はレンも見た。


「その中でも、美和は特におかしいです」


 紗希が、やや声を落として言う。


「美和?」


「同じクラスの子です」


 その名前を出した時だけ、紗希の声音には先ほどまでとは別の温度が混じった。


 心配、と言い切るほど感情的ではない。

 だが、放っておけない対象としてすでに線を引いている響きがある。


「ここ数日で、一番変わりました」


 紗希は続ける。


「急に喋らなくなったし、喋っても、声がうまく出てない感じで。あと……」


 一度、言葉を切る。


 その沈黙の間に、隣の教室から笑い声が漏れた。遅れて、椅子の脚が床を擦る音。

 日常の音だ。なのに、紗希の話を聞いたあとの耳には、それが妙に遠く感じられる。


「私の気のせいじゃなければ、口元をずっと気にしてます」


 レンの目が少しだけ細くなる。


 昨日の夜道で見た被害者。

 助けを呼べないまま、口元だけがこの世から半歩ずれていた学生。


「だから、昨日レンさんが言ってたこと、たぶん合ってると思います」


 その言葉のあと、二人は少しだけ黙ったまま歩いた。

 廊下の先、窓に映る校舎の影。教室の出入口に立つ生徒。笑い声。


 どれも普通だ。


 どれも日常だ。


 だがその中に、口元を気にする仕草や、反射を避ける動きや、妙な静けさが混じっているのだと分かると、同じ景色が少しずつ別の意味を持ち始める。

 保健室は、職員室ほどには騒がしくなく、空き教室ほどには閉じていない場所だった。


 廊下の角を曲がると、空気が一段だけ静かになる。


 保健室前には長椅子が二脚置かれていて、壁には季節の健康だよりや、よく分からない標語めいたポスターが何枚か貼られていた。


 ひとが休んでいても不自然じゃない。


 けれど、ひとが閉じこもっていても気づかれにくい。


 そんな半端な場所だった。


 紗希は、保健室の手前で少しだけ歩く速度を落とした。


 レンもそれに合わせる。彼女の視線の先を追うと、長椅子の端に一人、女子生徒が座っていた。


 栗色のロングヘアで、顔つきは隠されている。


 ……というより、自分から隠すような空気があった。


「あれです」


 紗希の声も自然と小さくなる。


 美和は壁に背を預けるでもなく、長椅子の縁へ浅く腰かけていた。

 制服のスカートの裾を無意識に握りしめ、もう片方の手はずっと口元にある。

 まるで、そこに手がないと落ち着かないみたいな押さえ方だった。


 具合が悪い生徒に見えないこともない。


 だが、それだけでは済まない違和感がある。


 肩肘を張ってしまっているような、周囲の様子を慎重に伺っているような。


 そのわりに、保健室の扉の小さな窓を、美和は一度も見なかった。

 廊下の窓も、ガラスの掲示板も、視界に入った瞬間だけ反射的に目を逸らしているように見える。


「最近、ここにいることが増えたんです」


 紗希は、美和から目を離さないまま言った。


 レンはその半歩後ろで立ち止まり、保健室前の様子を崩さない位置を選ぶ。いきなり大人の男が近づけば、それだけで警戒させると分かっている立ち方だった。


「具合が悪い、って言って来てるんでしょうけど……体調不良っていうより、閉じこもってる感じなんですよね」


「閉じこもる?」


「人に見られるのを嫌がってるような感じで。特に口元をマスクで覆ったうえで、さらに隠すような」


 レンは目を細める。


 昨日の被害者も、最初は自分の口で何が起きているのか理解していなかったはずだ。


 ただ、声が出ない。


 空気が抜ける。

 口元がずれる。

 その“おかしさ”だけを、本人の方が先に察していく。


 美和はいま、その手前と途中のあいだにいるのかもしれない。


 紗希が一歩前へ出る。

 足音はできるだけ小さく。

 同級生へ話しかける時の、普段の声色で。


「美和?」


 呼ばれて、美和の肩がびくりと震えた。


 すぐには振り向かない。


 口元を押さえている指先に、ぐっと力が入る。指の節が白くなる。ようやく顔が上がった時、その動きは一拍遅れていた。


 驚いたというより、“自分が呼ばれた”と認識するまでに少し時間がかかっている感じだった。


 紗希は真正面に立たない。


 少しだけ距離を残す。


「大丈夫ですか」


 美和の目が紗希を捉える。


 それから、紗希の後ろにいるレンの方へ視線が流れかけて、すぐに戻った。知らない大人がいる。それだけで不安が増したのか、口元に当てた手がさらに上がる。


「ちょっと顔色、悪いですよ」


 紗希が続ける。


 美和の唇が動いた。

 だが、最初の音は出なかった。喉の奥でひゅっと細い音が鳴るだけだ。


「……さ、き」


 ようやく出た声は、掠れていた。


 紗希は表情を変えない。

 変えないまま、少しだけ柔らかく返す。


「はい」


「……だい、じょ……」


 大丈夫、と言いたいのだろう。


 だが、言葉が繋がらない。母音の手前で喉が詰まり、呼吸が浅く途切れる。


 美和は一度、目を強く閉じてから、口元の手を外しかける。けれど、すぐまた元に戻した。


「ちが……」


 掠れた音が、喉の奥でほどける。


「ちょっと、だけ……」


 その「だけ」が、まるで長い階段を降りるみたいに不自然に時間をかけて出てきた。


 レンはその一部始終を見ていた。


 声が出ないのではない。

 声の出口が、うまく繋がっていない。


 口元を押さえる癖。

 誰かの視線を怖がる様子。

 呼吸の浅さ。


 昨日の被害者ほどではない。けれど、症状は近い。

 かなり近い。


「……昨日の子と近いな」


 レンはあくまで小さく言った。

 美和に聞かせるためではなく、紗希へ確認を返すための声だった。


 紗希は頷く。


「やっぱり、そう見えますか」


 その返答にも、驚きはない。


 むしろ、確信がひとつ裏づけられた時の落ち着きがあった。


 美和は二人のやり取りを聞いているのか、いないのか分からない。

 けれど「昨日」という言葉にだけ、目がわずかに揺れた。


 紗希は美和の正面へ立たない。

 少し斜めの位置へずれて、逃げ道を塞がないようにしてから、改めて声をかける。


「少し、座りやすいところ行きませんか」


 美和は答えない。

 代わりに、保健室の扉の小窓へ一瞬だけ目をやって、すぐ逸らした。


 鏡じゃない。ただのガラスだ。

 なのに、そこに自分の顔が映る可能性があるだけで、怯えが走るらしい。


 紗希はその視線を見ていた。


「廊下の長椅子だと、人通りありますし」


 押しつけない言い方で続ける。


「別のところで、少し休みましょう」


 美和は長椅子の縁を握りしめていた手を、ゆっくり離した。


 すぐには立たない。


 けれど、立てないわけでもなさそうだった。紗希の声だけは、まだ“怖いもの”として認識していないらしい。


「……さき」


 また、掠れた声。


「……わた、し……」


 そこで言葉が止まる。

 口元へ手が戻る。息が浅くなる。


 紗希は急かさない。


「大丈夫です」


 昨日〈灯〉でレンへ向けていたのとは違う、もっと低い落ち着いた声で言う。


「ゆっくりで」


 廊下の奥では、部活へ向かう生徒たちの笑い声がまだ続いていた。


 その日常の音のすぐそばで、美和の声だけが、うまく日常の形になれずに引っかかっている。


 昨日の一件は外で起きた。

 だが、その源はたしかに学校の中へ根を張っている。


 美和が立ち上がるまでには、少し時間がかかった。


 紗希は急かさなかった。


 立ち上がる瞬間、美和の体が少しだけ傾く。紗希は反射的に手を伸ばしかけたが、最後のところで掴まなかった。支えると決めつけるより、自分で立てる余地を残したのだろう。


 美和は壁へ手をつきかけ、そこでどうにか踏みとどまる。


「……だい、じょ……」


 また、言いかけて止まる。


 大丈夫だと言いたいのだろう。けれど言葉が、喉の手前でほどけてしまう。


 レンは廊下の端に寄ったまま、その一部始終を見ていた。


 前へは出ない。知らない大人が近づくことそのものが、美和の呼吸をさらに浅くすると分かっていたからだ。


「空いてる教室、ありますから」


 紗希が一歩だけ先に立つ。


 美和は返事の代わりに、小さく頷いた。


 三人はゆっくり動き出す。

 前を歩くのが紗希。

 その少し後ろに美和。

 そしてさらに後ろから、一定の距離を空けてレンがついていく。


 途中、窓際を通った時だった。

 夕方の光が廊下のガラスへ斜めに映って、ぼんやりと人影を返す。


 美和の足が、ぴたりと止まった。


 紗希がすぐに振り返る。


「美和?」


 美和は窓を見ていない。見ていないつもりなのに、視界の端へ入ってしまった反射から逃げ切れずにいる顔だった。口元の手が、また強く押しつけられる。


 レンは後ろから、それを黙って見ていた。


 症状は声だけじゃない。

 見られること、映ること、そのものがもう恐怖になり始めている。


 紗希は窓と美和のあいだへ半歩だけ入る。


「大丈夫です」


 声は低く、柔らかい。


「こっち、見なくていいですよ」


 美和の呼吸が少しだけ戻る。


 それを見て、紗希はすぐ歩き出さず、ほんの一拍だけ待った。

 それから、何事もなかったみたいに前へ向き直る。


 レンもまた、何も言わず後ろにつく。


 廊下の突き当たりに近い空き教室の前で、紗希が立ち止まる。


「ここなら、落ちつけそうですよ」


 小さな窓はついているが、廊下のガラスほど視線を引かない。紗希はそっと扉を開けた。


 誰もいない。


 机と椅子が、昼間のまま整って残されている。黒板には前の授業の名残が薄く残り、窓際のカーテンは半分だけ引かれていた。夕方の光は入るが、真正面から顔を映すような明るさではない。


「どうぞ」


 紗希が先に中へ入り、美和へ道を空ける。


 美和はためらったあと、小さく身をすぼめるようにして教室へ入った。

 レンは最後に入り、扉を静かに閉める。


 紗希は一番手前の椅子を引いた。


「座って」


 美和はその椅子を見る。


 すぐには座らない。座るより先に、教室の窓をちらりと見て、また逸らす。紗希はその視線を追って、さりげなくカーテンをもう少し引いた。


「これで大丈夫です」


 それでようやく、美和は椅子へ腰を下ろした。

 背筋は伸びない。浅く座って、今にも立ち上がれそうな姿勢だ。

 逃げる準備をしたまま座っているようにも見える。


 紗希はその斜め前の席に座る前、肩に掛けていた鞄を椅子の脚元へ下ろした。


 近すぎず、遠すぎず。

 視線を受け止められる距離だ。


「大丈夫、すぐには聞きませんから」


 美和はその言葉に、ようやくほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 レンは少し離れた机の角へ腰を預けた。

 正面には立たない。取調べにならない位置を選んでいる。

 それでも、美和はときどき視線だけでレンの存在を確かめる。


 知らない大人。


 けれど、紗希が連れてきた大人でもある。


 その判断のあいだで揺れている顔だった。


 レンはその視線を受けてから、ゆっくりポケットへ手を入れた。


 美和の肩が強張る。


「怖がらなくていいよ」


 声は、廊下で紗希と話していた時より少しやわらかかった。


 軽くしすぎず、押しつけすぎず。人を刺激しない程度に力を抜いた話し方だ。


 レンは小さなカードを取り出す。

 偽造した身分証だった。表面にはそれらしい肩書きと名前。ぱっと見では、学校に出入りする外部の専門職に見えなくもない。


「俺は心理カウンセラーの相馬レン」


 そう言って、カードを美和に見える位置へ差し出す。


「こういう時に話を聞く役で呼ばれてる」


 美和は、カードとレンの顔を見比べる。


 完全に信じた顔ではない。けれど、何者か分からない大人よりはましだ、という程度には受け取ったらしい。


 その横で、紗希の視線が一瞬だけレンへ向いた。


 細くなる。


 見抜いた目だった。


 ――嘘だ。


 たぶんそう思っている。


 けれど紗希は何も言わなかった。美和の方へ視線を戻し、その場ではレンの芝居を壊さない。


 レンは続ける。


「君だけが大変な目に遭ってるわけじゃない」


 美和の指先が、口元から少しだけ離れる。


「この学校で、似たような症状が出てる子が何人かいる」


 嘘ではない。


 少なくともレンは、そうである可能性を高く見ていた。


「少し話してみて。無理にとは言わない」


 教室の中は静かだった。


 外のざわめきは、閉めた扉の向こうでぼやけている。


「でも、言葉にした方が楽になることもある」


 美和は、ゆっくりと息を吸った。


 喉の奥で、ひゅ、と細い音が鳴る。


 それでも、さっきよりは呼吸が整っている。紗希の声と、レンの差し出した肩書きが、かろうじて“話してもいい場”を作ったのかもしれない。


 美和の手が、ほんの少しだけ口元から離れた。


「……せん、せ……」


 音が途切れる。

 もう一度、息を吸う。


 紗希は何も急かさない。


 レンも動かない。


 美和の唇が、震える。


「……先生に、呼ばれて」


 その一言だけで、教室の空気がわずかに変わった。

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