後日譚 帰る場所
この物語は、本編終了後の園芸部の仲間たちを描いた後日譚です。
それぞれの道を歩みながらも、変わらない絆を描きます。
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> 扉を開けると
> 変わらない匂いがした
>
> 土と 緑と 紅茶の
>
> テーブルには
> 知らないカップが増えていた
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## 一・スイートピー
八月の日差しが、温室のガラスを照らしていた。
小春は、久しぶりに母校の校門をくぐった。夏休みの学校は静かで、蝉の声だけが賑やかに響いている。校庭の脇の花壇に、ひまわりが咲いていた。大輪の花が、眩しいくらいの黄色で、夏の空を見上げている。
「懐かしいね」
隣を歩いていた詩が、静かに言った。
「……うん」
大学一年生の夏休み。詩と一緒に、温室に帰ってきた。
詩と同じ大学、同じ学科。同じ電車に乗って、同じ駅で降りて、ここまで一緒に歩いてきた。隣に詩がいることが、もう当たり前になっている。指先が触れ合って、自然に手を繋いだ。詩の手は、いつも少しだけ冷たい。
温室の前に立つと、あの頃の記憶が蘇る。
入部した日。先輩たちとの出会い。花を育てた日々。お茶の時間。凛先輩のクッキー。柚葉先輩の笑顔。真白と一緒に水やりをした午後。
ガラスの向こうに、緑色の影が見えた。
「いらっしゃい」
扉が開いて、遥が出てきた。スミレみたいに華奢で、でもまっすぐな背筋。
「小春先輩、詩先輩。お久しぶりです」
「遥ちゃん、久しぶり」
「元気だった?」
「はい。おかげさまで」
遥は、部長の腕章をつけていた。以前より少し日に焼けて、少し逞しくなったみたいな気がする。部長になって、きっと忙しいんだろう。
「部長、似合ってるね」
「ありがとうございます」
遥は、少し照れくさそうに笑った。あの頃とは違う。先輩を迎える側になった遥は、少しだけ大人びて見えた。
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温室に入ると、むわっとした熱気が頬を撫でた。ガラス越しの日差しで温まった空気。土の匂い、緑の匂い、それに重なるかすかな花の甘い香り。
何も変わっていなかった。
でも、少しだけ違う。
「新しい花、増えたね」
棚の上に、見覚えのない鉢植えがいくつも並んでいる。色とりどりの花が、陽射しを浴びて輝いていた。
「はい。美月と陽菜が植えてくれました」
「後輩たち、頑張ってるんだ」
「はい。頼りになります」
遥の目が、優しかった。後輩のことを語る時の声が、温かい。
——遥ちゃん、先輩になったんだな。
小春は、そう思った。花を育てるみたいに、後輩たちを見守っている。柚葉先輩が、そうしてくれたみたいに。
作業台の上には、新しいじょうろが置いてあった。以前のものより少し大きい。
「真白は?」
遥の表情が、一瞬だけ曇った。
「真白先輩は……今日は来れないって」
「そっか。学校、忙しいもんね」
「はい。でも、時々連絡くれます」
声が、ほんの少しだけ寂しそうだった。小春は気づいてしまったが、何も言わなかった。遥の横顔が、夏の日差しに照らされて、少しだけ影を宿している。
「よかった」
小春は、微笑んだ。
真白も、自分の道を歩いている。栄養士になるという夢に向かって。それが、嬉しかった。でも、遥の気持ちも、少しだけわかる。
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## 二・マーガレット
お茶の時間。
テーブルを囲んで、お菓子を食べた。
詩が淹れてくれた紅茶は、変わらずあの頃の味だった。温かくて、ミルクの甘さと紅茶の渋みが混ざり合って、口の中にふわっと広がる。湯気に顔を近づけると、ふわりと香りが立ち上ってきた。
「凛先輩のクッキー、懐かしいですね」
遥が言った。
「今日は持ってきてないんだけど……」
「残念」
「今度、作ってくるね」
「本当ですか? 嬉しい」
遥の顔が、パッと明るくなった。スミレの花みたいに、控えめだけどまっすぐな笑顔。
詩が、小春の隣に座った。肩が触れ合う。指先が自然に絡まる。人差し指と人差し指が、小さく絡んだ。
「温室、変わらないね」
「うん。落ち着く」
「私たちがいた頃と、同じ空気」
ガラスの壁を透かして、午後の陽が差し込んでいる。葉っぱが作る影が、テーブルの上で揺れていた。
「……そうだね」
小春は、詩の手を握った。手のひらが、少しだけ温まっていく。
変わらない場所があること。帰ってこられる場所があること。それが、どれだけ心強いか。
外の世界は広くて、毎日が新しいことだらけだ。大学の講義も、キャンパスも、すべてが真新しい。でも、ここはいつも変わらない。温室の空気も、紅茶の香りも、花の匂いも。
だから、帰ってこられる。
「小春先輩、大学はどうですか?」
「楽しいよ。新しいこと、いっぱい学んでる」
「詩先輩と同じ大学ですよね」
「うん。一緒に通ってる」
毎朝同じ駅で待ち合わせて、同じ電車に乗る。お昼は一緒に学食で食べて、夕方、また同じ電車で帰る。一人暮らしを始めた詩のアパートは、小春の家から自転車で10分。夜、二人でご飯を作ることもある。
「素敵ですね」
遥が、微笑んだ。その目に、ほんの少しだけ羨望が混じっているのが見えた。
「遥ちゃんは、進路決めた?」
「……まだです。でも、花に関わる仕事がしたいなって」
「遥ちゃんらしいね」
「柚葉先輩みたいに、農学部もいいかなって」
「いいと思う」
小春は、頷いた。テーブルに置かれた紅茶のカップが、光を受けてきらりと光った。
「遥ちゃんなら、きっといい道が見つかるよ」
「……ありがとうございます」
遥の声は、小さかった。でも、その中に温かいものがあった。
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## 三・ひまわり
九月。
柚葉から連絡が来た。
『みんなで集まらない?』
大学三年生になった柚葉が、同窓会を企画してくれた。場所は、いつもの温室。
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久しぶりに、みんなが集まった。
柚葉、凛、詩、小春、真白。そして、遥、美月、陽菜。
「久しぶり」
「みんな、元気そう」
「会えて嬉しい」
温室の中が、賑やかになった。声が反響して、壁のガラスが笑い声を跳ね返している。狭い空間に8人が集まると、空気が温まって、むせ返るような熱気になる。でも、それが心地よかった。
凛先輩は相変わらず、きりっとした顔で、でも口元は少し笑っている。柚葉先輩は、みんなを見渡しながら、優しい笑顔で頷いている。スイートピーとひまわり。対照的な二人は、今でも隣に並んでいた。
真白は、少しだけ痩せたような気がした。栄養学部の勉強が、忙しいのだろう。でも、その目はまっすぐで、静かな意志を宿していた。
「柚葉先輩、研究はどうですか?」
遥が尋ねた。
「大変だけど、楽しいよ。今、花の品種改良の研究してるの」
柚葉先輩の声は、以前より少し大人びていた。専門的な話をする時の口調が、研究者のそれだった。
「すごいですね」
「凛先輩は?」
「調理師免許、取れたよ。今、レストランで修行中」
凛先輩は、少しだけ誇らしそうだった。焼けた手に、包丁の跡がうっすらと残っている。手つきが、以前よりずっと職人らしくなっていた。
「おめでとうございます」
「真白ちゃんは?」
「……来年から、実習が始まる」
真白は、静かに頷いた。カスミソウみたいに、控えめで、でも芯が強い。
「栄養士、大変だよね」
「……でも、やりがいある」
その声に、迷いはなかった。
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みんな、それぞれの道を歩いている。
柚葉は研究者を目指し、凛は料理の道を進み、詩は文学を学び、小春は教育学を学んでいる。真白は、栄養士を目指している。遥は、大学一年生の毎日を全力で生きている。
違う道。違う場所。違う時間。
でも、こうして集まると、あの頃に戻れる。温室の時間だけは、何も変わらない。
テーブルの上には、凛先輩が持ってきてくれたクッキーが並んでいた。バターの香りが、紅茶の香りと混じり合っている。詩先輩が淹れた紅茶を飲むと、口の中に温かさが広がった。
同じ味だ。
あの頃と、何も変わらない。
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## 四・紫陽花
「ねえ、毎年集まろうよ」
凛先輩が言った。
「夏休みに、温室で」
「いいね」
「約束しよう」
みんなが、頷いた。
「園芸部の同窓会だね」
「うん。ずっと続けよう」
「卒業しても、おばあちゃんになっても」
「それは気が早いよ」
笑い声が、温室に響いた。ガラスの壁が振動して、音を反響させている。
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「でも、いいね」
詩先輩が、静かに言った。紫陽花みたいに、落ち着いた声。
「こうして、帰る場所があるって」
「……うん」
小春は、詩先輩の手を握った。指が絡まる。爪の感触が、手のひらに伝わってくる。
「温室は、変わらない」
「私たちがいなくなっても、花は咲き続ける」
「そして、新しい人たちが、ここで思い出を作る」
柚葉先輩が、温室を見回した。棚の上の花々、作業台の上の道具、パイプ椅子とテーブル、花柄のティーポット。すべてが、あの頃のまま。
「素敵な場所だね」
「……うん」
みんなが、頷いた。
窓の外を、風が吹き抜けていく。花壇のひまわりが、少しだけ揺れた。
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## 五・カスミソウ
夕方になって、みんなで写真を撮った。
「はい、チーズ」
パシャ。
八人の笑顔が、一枚の写真に収まった。スマホの画面に映る笑顔を見ると、胸が温かくなる。
「また来年ね」
「うん。約束」
「元気でね」
「みんなも」
一人ずつ、温室を出ていく。陽が傾いて、影が長く伸びている。
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帰り際、遥が小春に話しかけてきた。
「小春先輩」
「なに?」
「……真白先輩と、連絡取ってますか?」
「うん。時々ね」
「そうですか」
遥は、少しだけ目を伏せた。まつ毛が長い。頬に、夕日の色が映っている。
「真白先輩、忙しそうで。なかなか会えなくて」
「……そっか」
声に、寂しさが滲んでいた。小春は、遥の肩に手を置いた。触れた肩が、少しだけ震えている。
「真白は、遥ちゃんのこと、ちゃんと考えてると思うよ」
「……え?」
「真白、不器用だから。言葉にするの、苦手だけど」
小春は、そっと微笑んだ。
「でも、大切に思ってる。それは、わたしにもわかる」
遥の顔が、少し赤くなった。夕焼けの色と、頬の赤みが混ざり合って、カスミソウとスミレみたいに、静かで、純粋な色になった。
「……ありがとうございます」
「頑張ってね」
「……はい」
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## 六・スミレ
帰り道。
真白が、遥に声をかけた。
「遥」
「……はい」
「少し、話せる?」
遥は、頷いた。
二人は、校門の近くで立ち止まった。夕焼けの中、二人だけの時間。
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「最近、連絡できなくて……ごめん」
真白の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「いえ、大丈夫です。真白先輩、忙しいですから」
「……でも」
真白は、言葉を探していた。遥の方を見たまま、何かを伝えようとしている。真白の瞳の色が、夕日を映して少しだけ温かくなっている。
「……遥のこと、忘れてるわけじゃない」
「……」
遥の胸が、どくんと高鳴った。
「学校、大変で。余裕なくて。でも……」
真白は、遥を見た。まっすぐな視線。カスミソウの目。
「……会いたいと思ってた」
遥の目が、潤んだ。
「わたしも……会いたかったです」
声が震えている。目頭が熱い。
「真白先輩に、会いたかった」
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二人は、しばらく黙っていた。
夕日が、二人を照らしている。影が一つに重なって、地面に伸びていた。
「……また、連絡する」
「はい」
「今度は、ちゃんと」
「……はい」
真白は、少しだけ手を伸ばした。遥の手に、触れた。指先が重なる。真白の指は、少しだけ冷たくて、でも温かくなっていく。
「……待っててくれる?」
「……はい。いつまでも」
遥が、微笑んだ。
真白も、小さく微笑んだ。カスミソウの花が開くみたいに、静かで、でも確かな笑顔。
二人の手が、夕日の中で、そっと繋がった。
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## 七・マーガレットと紫陽花
電車の中。
小春と詩は、並んで座っていた。窓の外を、夕焼け色の景色が流れていく。
「楽しかったね」
「うん」
「みんな、元気そうでよかった」
「……そうだね」
詩が、小春の手を握った。指が絡まる。手のひらが、少しずつ温まっていく。
「小春ちゃん」
「なに?」
「……こうして、一緒にいられて嬉しい」
「わたしも」
小春は、詩に寄り添った。肩が触れ合う。詩の髪が頬に触れて、少しだけくすぐったい。シャンプーの匂いがした。
「詩先輩と同じ大学で、よかった」
「私も。小春ちゃんがいるから、毎日楽しい」
「……えへへ」
小春は、照れくさそうに笑った。詩の肩に頭を預けると、詩の鼓動が耳に伝わってくる。静かで、規則的な音。
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「ねえ、詩先輩」
「なに?」
「これからも、ずっと一緒にいてくれる?」
「……もちろん」
詩は、小春の頭を撫でた。髪に触れる指が、優しい。
「ずっと、一緒にいるよ」
「約束」
「約束」
二人は、手を繋いだまま、電車に揺られていた。窓の外を、夕焼けが流れていく。赤とオレンジと紫が混じり合って、空が燃えているみたいだった。
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## 八・スイートピーとひまわり
柚葉と凛は、二人で歩いていた。
「今日、楽しかったね」
「うん」
「みんな、大人になったね」
「そうだね」
凛は、空を見上げた。夕焼けの空が、だんだん紫色に変わっている。
「あたしたちも、もう三年生か」
「来年は、就活だね」
「うん」
足音が、静かにアスファルトを叩いている。二人の影が、夕日に伸びていた。
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「柚葉は、研究続けるの?」
「大学院に行こうと思ってる」
「そっか。柚葉らしいね」
「凛は?」
「あたしは、もう少し修行して。いつか、自分の店を持ちたい」
「素敵」
凛の声には、確信があった。夢が、もう手の届くところにある。
「柚葉の研究した花を、店に飾るよ」
「ふふ、楽しみ」
柚葉が、笑った。風が吹いて、髪が少しだけ揺れた。
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「ねえ、柚葉」
「なに?」
「……ありがとう」
「え?」
「ずっと、一緒にいてくれて」
凛は、少し照れくさそうに言った。頬が、夕焼けの色と同じになっている。
「高校の時から、ずっと。あたしのこと、支えてくれて」
「……凛」
「好きだよ。柚葉のこと」
柚葉は、凛の手を握った。手のひらが重なる。凛の手は、いつも少しだけ温かい。包丁を握る手。料理をする手。人を支える手。
「私も。凛のこと、大好き」
「……うん」
二人は、並んで歩いた。夕日が、二人の影を長く伸ばしていた。スイートピーとひまわりの影が、一つに溶け合っている。
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## 九・継承
温室では、遥が一人で片付けをしていた。使ったカップを洗い、テーブルを拭き、椅子を元の位置に戻す。水の音が、静かに響いている。
「お疲れさま」
美月と陽菜が、手伝いに来た。
「ありがとう」
「今日、賑やかでしたね」
「うん。先輩たち、みんな来てくれた」
「素敵でした」
美月が、棚の上の花を見つめた。
「先輩たちが植えた花、まだ咲いてるんですよね」
「うん。柚葉先輩のスイートピー。凛先輩のひまわり」
遥は、花を見つめた。スイートピーの甘い香りが、温室に漂っている。ひまわりの種が、少しずつ実り始めていた。
「みんなの思い出が、ここにある」
指先で、スイートピーの花びらにそっと触れる。柔らかくて、少しだけひんやりしている。
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「遥先輩」
「なに?」
「私たちも、いつか卒業しますよね」
「……うん」
「そしたら、後輩に引き継ぐんですよね」
「うん」
「……ちゃんと、できるかな」
美月が、少し不安そうに言った。陽菜も、隣で頷いている。
遥は、微笑んだ。二人の後輩を見つめて、そっと言った。
「大丈夫。私も、最初は不安だった」
「本当ですか?」
「うん。でも、先輩たちが教えてくれたことを、そのまま伝えればいいって」
「……」
「花を大切にすること。仲間を大切にすること。それだけ」
美月と陽菜は、頷いた。真剣な目で、遥を見つめている。
「私たちも、頑張ります」
「うん。一緒に頑張ろう」
遥は、二人の頭にそっと手を置いた。温かかった。
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## 最終話・帰る場所
夜。
遥は、温室の前に立っていた。月明かりが、ガラスの壁を青白く照らしている。夏の夜の空気は、少しだけ冷たくて、肌に心地よい。蝉の声が止んで、代わりに虫の音が聞こえてくる。
「ありがとうございました」
温室に、小さく頭を下げた。
「今日も、みんなを繋いでくれて」
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スマホが震えた。
真白からのメッセージだった。
『今日、会えてよかった。また連絡する』
遥は、微笑んだ。画面の光が、顔を照らしている。指先で、そっと返信を打った。
『はい。楽しみにしてます』
送信ボタンを押すと、メッセージが飛んでいく。真白のところに届く。また会える。そう思うだけで、胸が温かくなった。
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温室を振り返る。
月明かりに照らされて、白い温室が浮かび上がっていた。ガラスの壁が、月の光を反射している。中の花たちは、静かに眠っている。
——ここは、帰る場所。
卒業しても、大人になっても、どんなに遠くに行っても。いつでも帰ってこられる、温かい場所。
先輩たちがいて、後輩たちがいて。みんなが、ここで繋がっている。
花を育てるように、絆を育ててきた。これからも、きっと続いていく。
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遥は、夜空を見上げた。
星が、瞬いていた。夏の星座が、頭上に広がっている。
「また来年、みんなで集まろうね」
小さく呟いて、遥は歩き出した。
心の中に、温かいものを抱えて。今日一日の記憶を、大切にしまい込んで。校門を出ると、夜風が髪を揺らした。涼しくて、少しだけ草の匂いがする。
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温室の花たちは、静かに夜を過ごしていた。
明日また、朝日を浴びて咲くために。
スイートピーは甘い香りを蓄え、ひまわりは種を実らせ、マーガレットは花びらを閉じ、カスミソウは静かに息をしている。紫陽花が、そっと風に揺れた。スミレの球根は、土の中で次の春を待っている。
人を繋ぎ、思い出を紡ぐ、陽だまりの庭。
その物語は、これからも続いていく。
温室のガラス越しに、月が静かに輝いていた。




