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I'll  作者: ままはる
第八章
92/114

92.猫背の男







 翌朝リズが教会にやって来た時、その入り口の前で彼女は一度足を止めた。


 歌声が聞こえる。


 昨日までの、消えてしまいそうな悲しい声ではない。はっきりとした声。しかしあの、体の芯を震わせるような透き通った歌声でもない。


「ラリィ……?」


 リズは得体の知れない不安を抱きながら、教会の中へと足を踏み入れた。


 昨日の場所に、ラリィは居た。

 周囲に空になったグラスや食器があるので、食事をしたのだと知ってほっとする。


「あぁ、リズ」


 顔を上げたラリィは、まどろむような笑顔を向けた。

 その笑顔に、リズは違和感を覚える。


「ラリィ、大丈夫……? ご飯、食べれた?」

「んー? うん」


 ラリィは妙にニヤニヤと笑いながら、口の中で何か独り言を喋っている。


「酔ってるの?」

「んーん?」

「でも……」


 リズの目が、地面に落ちたぬいぐるみを見つけた。

 まるで投げ捨てたみたいに転がるそれを、リズは拾い上げる。


「どうしたの? 何か変よ……?」

「変? 変かぁ?」


 何がおかしいのか、ラリィはクスクスと笑っている。


「ふわふわしてて、気持ちいーけどなぁ」

「ね、ねぇーー」


 顔を覗き込もうとしたリズの腕を、突然ラリィが引いた。

 バランスを崩して床に倒れたリズに、ラリィは馬乗りになる。


「ラリィ……?」

「リズ。もっと気持ちいー事しよっか」


 ラリィの唇がリズの口を塞いだ。

 リズは目を見開く。


「ーーやめて!」


 抵抗するが、思いの外ラリィの力は強くて、すぐに抜け出すことが出来ない。


「嫌だ……!」


 リズの手が震える。

 ラリィの顔が、かつてリズのいた孤児院の院長と重なって見えた。


(最悪だ……)


 リズの目から涙が溢れても、彼女の服の下を弄るラリィの手は止まらない。


「友達だって、言ったじゃない……!」

「友達なら慰めてよ」

「ふざけるなっ!」


 リズは大きく息を吸って目を閉じーーそして開くと同時に、体を捻って体勢を逆転させた。次いでラリィの頬に思い切り平手打ちを食らわせる。


「あんたなんか……もう、友達じゃない!!」


 リズはぬいぐるみをラリィに投げ付け、教会を飛び出した。


 通りを駆け抜けていると、ヴィンスの姿が見えた。リズはそのまま彼の胸ぐらを両手で掴み上げる。


「あんた! ラリィに何したの!?」


 ヴィンスは目を逸らす。無言のまま、何も言わない。


「なんで……」


 答えなくても、表情でわかった。

 ヴィンスはクスリの売人を始めたと、ラリィが言っていた。


「なんでそんな事したのよ!?」

「だって……! もう限界だろ!? あのままだとラリィまで死ぬかもーー」

「ラリィはそんなに弱い奴じゃない!」


 ヴィンスを突き飛ばし、リズは叫ぶ。


「弱い奴じゃ、なかったのに……!」


 もう無茶苦茶だ。

 何もかも。

 2度とここへは来ないーーそう誓い、リズはスラム街から出て行った。






 ーー創世祭の当日を迎えた。

 リズは早朝、宿舎近くのランニングコースを走っていた。


 周囲はまだ暗く、ぼんやりとした街灯の明かりにちらほらと舞う雪が映し出されている。

 こんな日のこんな時間、リズの他に走っている人の姿はほとんど見られない。

 日が昇る頃には街は華やかに彩られ、賑やかな祭りに浮き足だった人々が布団から出て来ることだろう。


 しかしリズは、とても創世祭を楽しむ気分などではなかった。

 習慣となったこのランニングを終えたら、今日はもう部屋から一歩も出るつもりはない。


「……っ」


 唇を引き結び、何も考えないようにして走る。

 そうしてランニングコースを半分過ぎた頃、街灯の当たらないぽっかりとした暗闇がにわかに蠢いた。


「リズ」


 その暗闇から、リズの名前を呼ぶ声がした。

 優しくて甘ったるい声。その声に、リズは一度だけ聞き覚えがあった。


(まだいた……)


 リズがランニングコースをスラム街へと変更する前、この声の主に出会ったことがある。


「リーズー」


 暗闇から男が現れた。

 痩せ型でひどい猫背の若い男だ。黒目がちの目がやけに印象に残る。


 この男とは、それ以前にも面識は無い。それなのにリズの名前を知っていて、その吐き気がするほどの甘い声で名前を呼ぶのだ。それが気持ち悪くて、ランニングコースを変更したのである。


「あーそーぼー」

「……警察呼ぶわよ」


 レオたちのようなゴロツキとは違う気持ちの悪さ。

 全身が泡立つような嫌悪感で、前回はそのまま無視して走り去ったのだった。

 しかし今回は違った。


「リディアと一緒にあーそーぼー」

「っ!?」


 足を止め、咄嗟に男を振り返った。

 男はその大きな黒目にリズを捉え、口元だけでニヤニヤと笑っている。

 そして手には、赤黒い錆のついた大振りの包丁を握っていた。


「あんた……」


 木剣の柄を握り、腰から抜く。


「おいで、おいで」


 男はリズに背中を向けると走り出した。とても脚力があるようには見えないのに、速い。

 リズは木剣を握ったまま、半ば反射的に男を追った。


(こいつがリディアを……!?)


 頭に血が昇る。

 絶対に逃してはいけないと、必死に追いかけた。


「リーズー」


 煽るように、誘うように男は時折振り返る。

 しかしーー


「はぁ……っ……はぁっ……!」


 見失った。

 リズは上がる息を整えながら、周囲を探る。

 いつの間にかスラム街の近くまで来ていた。


(どこ行った……!?)


 周りは廃墟ばかりで、人の気配は無い。

 いくつも枝分かれしている細い路地の向こうは、どれも闇が広がっているだけである。


「可愛いねぇ、リズ」

「っ!?」


 その声がリズの背後から聞こえたのと同時に、リズは右の脇腹に熱い塊を感じた。

 ーー男のナイフが、リズの脇腹を突き刺したのだ。


 男はリズの腹にナイフを突き立てて、そのまま真一文字に開くはずだった。しかし僅かに体を避けられて、上手くナイフが刺さらなかった。


「綺麗な子は、血の色も綺麗だなぁ」


 男はじわりと滲み出てくる血液を、美味しそうなものを見るような目で見て舌舐めずりする。


「この……っ!」

「君の中身が見たいんだ。ふふ……腸とか子宮とか、心臓とか」


 ナイフを抜き、男は再度走り出した。


「っ!」


 リズは血が溢れる脇腹を押さえ、男の後を追った。

 一歩足を踏み出す度に激痛が走る。


「許さない……!」


 ーーあいつが全てを壊した犯人だ。

 血を滴らせ、足を引き摺りながらリズは男を探した。


 男がスラム街にリズを誘い込んだのは、この治安の悪い場所でなら何が起きても不思議では無いから。

 例えばスラム街に出入りしていた少女が殺されたとしても、頭のイカれた連中の仕業にできる。


「どこ……行った……?」


 リズは細い路地の前を通り過ぎる。

 その直後、路地から手が伸びてきて、リズの腕を掴んだ。


「リズ?」

「っ! ……ヴィンス……」


 リズを掴んだのは、早朝にクスリの売買を行っていたヴィンスだった。


「おま……っ!? それ、どうした!?」


 ヴィンスは脇腹を真っ赤に染めたリズに気付き、動転する。


「……リディアを……殺した犯人が……」

「リディアをって……え、ちょっと待って!? 今、この辺りにいるのか!?」


 頷くリズ。

 ヴィンスは後ろを振り返り、一緒にいた男ーー恐らく客だーーに声を掛ける。


「お、おい! この子、ちょっと見てて! オレは他に人を呼んでくる! ラリィのダチだから変なことするなよ!」

「もう友達じゃ……ない……!」


 走って行くヴィンスを睨んだ後、リズは壁に背を預け、その場に崩れるように座り込んだ。


「おい……大丈夫か?」


 青白い顔のリズを見下ろすヴィンスの連れ。

 リズは苦痛を堪えながら、視線であの男を探す。


「リディアを殺した奴って、どんな奴だったんだ? みんなでぶっ殺しにーー」

「こんな奴だよ」


 その声と同時に、連れの男の首から勢いよく血が噴き出した。


「邪魔が入っちゃったねぇ、リズ。ほら、こっちで遊びの続きをしようよ」

「あ……」


 頸動脈を切断された男は、地面に倒れて痙攣している。リズは咄嗟に男の傷口を押さえたが、傷が深すぎてどうにもならない。


「お前……!」


 リズが木剣を杖代わりにして立ち上がると、猫背の男は嬉しそうに笑った。


「おいで、おいで」


 リズを路地裏へと誘い込む。

 誘われるまま進んだのは、リズはこの男に負ける気がしなかったから。訓練用の木剣とは言え、対峙すれば勝てる自信があった。


 恐怖心が無いわけではない。しかし、これまでに抱いたことのないほどの激しい怒りが、彼女の足を動かす。


(絶対に、捕まえる)


 ーーやがて行き止まりに辿り着いた。

 口元だけを歪ませて笑う男が、リズを待っている。


「お顔は傷付けないからね」

「この……悪魔……!」


 リズは震える膝で木剣を構えた。

 そしてーー


「……は?」


 その声を漏らしたのが、リズなのか男の方なのかわからぬうちに、男の体は地面に倒れていた。

 男の眼前に、ラリィが立っている。


「ラ……ラリィ……?」

「また邪魔がーー」


 男は包丁を握り締めた。その手をラリィは靴の裏で踏みつける。


「ぐ……っ!」


 包丁が男の手を離れた。しかしラリィは更に体重を乗せ、踵で男の指を踏み潰す。


「あ……っ! あぁぁあ!」


 痛みに男が悲鳴を上げると、今度は腹を思い切り蹴り上げた。


「っ!?」


 息を詰まらせ、身体を捩る男。その男に馬乗りになると、男の顔を拳で殴った。


「ご……ごめ……っ! ごめんなさい……っ!」


 何度も何度も殴られ、口からも鼻からも血を流した男は謝罪の言葉を口にする。


「あぁ……ごめ、なさ……っ」


 しかしラリィはやめない。

 眉ひとつ動かさず、虚な目をしたまま男を殴り続ける。


「ラリィ……? ねぇ、ラリィ! もうやめて!」


 さすがに様子がおかしいと思ったリズが止めに入るが、ラリィの耳には届いていない。


「ラリィ! やめて!」


 両腕でラリィの腕を押さえる。しかし突き飛ばされ、振り払われた。その拍子に倒れたリズは脇腹を強く打ち付け、苦悶の表情を浮かべる。

 ラリィの目は、リズを映してはいない。


「やめて……!」


 リズは再度立ち上がる。失った血が多過ぎて、足に力が入らなくなってきた。

 ラリィは既に意識を失った男に向き直ると、また執拗に殴り始める。


「ラリィ!」


 男の鼻の骨が、頬骨が、折れる。


「やめて……! やめなさい! 死んじゃう!!」


 ラリィの手が真っ赤に染まり、地面に血溜まりを描いていく。


「お願い……」


 リズは感覚の無くなってきた指先を伸ばし、ラリィの足にしがみ付いた。


「あんたが人殺しになるのは、見たく無い……っ!」


 涙が頬を伝い、縋るリズ。


「やめてよ……ラリィ……!」


 リズの懇願は届かなかった。

 ラリィは後から来たレオとヴィンスに取り押さえられるまでーー男の頭が砕けるまで、殴り続けた。

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