90.壊れる日常
ーー早朝、スラム街まで走ってくるリズを迎えるのは、ラリィとリディアの2人に増えた。
相変わらず取り留めのない話をするだけだが、肌寒さが増してきた頃には、リズの筆記試験に備えての勉強に付き合う事もあった。
「グリーンヒル専属剣士隊の初代元帥の名前は?」
「レオンハルト=フォン=ヴァルグリム」
「じゃあ、今の元帥の名前は?」
「アーヴァイン=……クロイツ?」
「ぶっぶー。それは初代守護剣シュイ=メイ所持者の名前」
「そうだった。今の元帥は……アーヴァイン=フェルナー!」
「ピンポーン」
「こっちの人の名前って、覚えにくいのよね……」
ラリィが問題を出して、リズが答える。そんな日もあった。
「2人ともスゴイねぇ! かしこい、かしこい!」
パチパチと小さな手を鳴らすリディア。その傍らには、彼女そっくりのぬいぐるみがある。
「私よりもラリィがスゴイわ。私が昨日言ったこと、ちゃんと覚えているんだもの」
「明日になったら忘れるけどな」
「ラリィも剣士になったらいいのに」
「えー……オレ、魔物怖いもん」
膝の上のリディアを抱き締めるラリィ。
リディアと一緒にいる限り、ラリィがここを離れることはないだろう。
「ヴィンスがさぁ、最近よくない仕事に手ぇ付け出したんだよな。クスリの売人。クスリだけには手ぇ出すなってレオに言われてんのに、自分が使うわけじゃねーから大丈夫だって。あいつの方こそ剣士に誘ってやってよ」
リズは苦笑するに留めた。ヴィンスのことだから大事になる前に警察に捕まって、また数日したら出てくるだろう。
「ーーあ。そう言えば昨日練習生の噂話で、エリアス広場にすごく歌の上手な兄妹が現れるらしいって聞いたんだけど」
「……兄妹じゃねーし」
頬を膨らませて不貞腐れるラリィ。
「やっぱり、あなたたちなの?」
ラリィとリディアは顔を見合わせて、ニコリと笑う。
そして同時に、透き通るような音階を奏で始めた。
リディアの可愛らしい高音に、ラリィの胸の奥をそっと撫でるような優しい声が重なる。
一瞬で鳥肌が立つような美しい歌声に、リズは暫し放心状態で聞き入った。
「ーーどうだった?」
「……あなたたち……歌手になるべきよ……」
まだリズの体の奥は震えている。
そんな彼女の反応を見て、リディアはぴょこぴょこと飛び跳ねた。
「上手に歌えたね!」
「結構実入りが良くてさ。暫くこれで食っていけそうなんだ」
「お歌で貰ったお金で、ラリィがこれ買ってくれたのよ」
と、リディアは少女のぬいぐるみをリズに見せる。
「リディアにそっくりね」
「だろ? 見つけた瞬間に、これは買わなきゃって思ってたんだ」
相変わらずこの2人はべったりだったが、周りが危惧するような事は何も起きず、ただ微笑ましく、平和に日々は過ぎていた。
「今度の創世祭の日も来てもいい?」
「もちろんいいけど、ケーキもご馳走様もねぇぞ?」
「そんなの、別にいらない」
友達と過ごす、初めての創世祭だ。それだけでリズにとっては、何よりも価値がある。
「みんな一緒が楽しいね」
そう言って笑ったリディアが、リズの見た最後の彼女の笑顔だったーー
その日の夜、珍しくリディアは夜中に目が覚めた。
リディアを抱き締めるようにして寝ているラリィの腕の間をすり抜けて、リディアは寝床を抜け出した。
ぬいぐるみを小脇に抱えて、廊下を歩く。
トイレを済ませてからベッドに戻ろうとして、やけに外が明るいことに気がついた。
「……お月様……」
まん丸な月が、静寂を落とした街を静かに照らしている。
壊れた屋根の隙間からそれを眺めていたリディアは、やがて吸い寄せられるようにして教会から外に出た。
「……ママ」
誕生日の夜も、こんな月だった。
リディアと並んで月を見上げた母は、静かに泣いていた。
ごめんね、ごめんね、と何度も呟いて、そして母はいなくなった。
「ママぁ……」
昼間は寂しく無い。ラリィがいるから。
けれどあの日と同じ月を見て、堪え切れない寂しさに押し潰されそうになる。
リディアはこぼれ落ちる涙を服の袖で拭い、ぬいぐるみをしっかりと抱きしめた。
ラリィのところに帰らなきゃーー
そうして引き返し始めた彼女の背に、声がかかる。
「リディア」
リディアは立ち止まり、声の主を探した。
「リディア、こっちへおいで」
優しくて、甘ったるい声。
リディアは物怖じしない。人見知りをしない。
だからその声の方へ、手招きするその暗闇の方へと、進んだーー
「ラリィ! ラリィ!」
リズの早朝のランニングよりも少し早い時間、ラリィは悲鳴のようなヴィンスの声に叩き起こされた。
「んー? 何……」
起き上がりながら、無意識に隣にいるはずのリディアを手で探る。しかし手には何も触れるものが無くて、ラリィの頭は一気に微睡から呼び覚まされた。
「ラリィ! あ、あの……あ……」
「待って……聞きたくねぇ……」
言葉にならない、青ざめたヴィンス。それだけで、良く無い事が起きていることが分かった。
「ど、どうしよう……なんで……えっと……リ、リディアが……」
「ラリィ! 早く来い!」
外からレオの怒鳴る声が飛び込んで来た。
ラリィの心臓が痛いくらい大きく、速く鳴り始める。頭から血の気が引いて、ヴィンスの顔が一瞬白く霞んだ。
「リディア……ぶ、無事……だよな?」
「……っ」
「なぁ!? リディアの事じゃないよな!?」
「早く行けよ!」
そしてようやくラリィは駆け出した。
転がるように教会を飛び出し、レオとジーナに先導されて細い路地を進んで行く。
既に集まった野次馬を掻き分けて、その先頭へと躍り出た。
「……は……?」
ラリィの目に映ったのは、腹を裂かれ、臓物を引き摺り出されて絶命している、リディアだった。
「リ……リディ……」
崩れ落ちそうな足で、リディアの側に寄るラリィ。
「ラ、ラリィ……今、警察呼んだから触らねぇ方が……」
「なんだこれ……」
ラリィは、リディアの腹から出たものを手で戻そうとしながら、リディアの体を揺する。
「リディア、帰ろ……もうすぐ、リズが来る時間だ」
あの鈴のような声は聞こえない。
「リディア……?」
ふわふわの金の髪はべったりと血に塗れ、キラキラと輝いていた青い目は、今は何も映してはいない。
「リディア!」
何度も、何度も何度も名前を呼ぶ。
「あああぁぁあ!!」
冷たくなったリディアを抱き締め、冷えたスラム街にラリィの雄叫びが響いた。
ーーその後、警官の到着と共にラリィはリディアから引き離されることになったが、そこで暴れたラリィは警官に取り押さえられ、一時警察署へと連行された。
ラリィが解放されたのは、警察が現場検証を終え、レオやジーナたち多数の証言から、ラリィがひとまず事件とは無関係であると証明されてからだった。
「ラリィ……」
夕刻、宿舎の門限までの間にリズがやって来た。リディアの件は、今朝ジョギングに来た時にジーナから聞いて知った。
ラリィは教会の寝床で、リディアのぬいぐるみを抱いている。
「リズ……」
どれだけ泣いたのだろうか。それでもまだ溢れてくる涙を拭うこともせず、ラリィはただぬいぐるみを抱きしめた。
「オレ……オレのせいだ……オレが、目を離したから……」
「違う……!」
リズも、ここまで堪えてきた涙が落ちた。
ここに来るまで、まだ信じられなかった。あの愛らしい少女が死んでしまったなんて、とても受け入れられることではない。
けれど今、目の前で咽び泣くラリィの姿を見て、真実なのだと胸を抉られた。
「リディアぁ……あぁぁぁ……!」
「……っ……!」
リズはラリィを抱き締め、その背中を撫でながら、2人で泣いた。
「……明日、リディアの遺体が帰ってくるってよ。身元がはっきりとわかんねぇから、警察もこっちで勝手にしてくれって」
そう言ってレオは、教会の裏へ目線を向けた。
「いつもみたいに、ここで焼いてやるか」
「……焼く……? リ、リディアを……?」
「置いとくわけにゃいかねぇだろ」
「ダメだ……! 嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ!」
レオに縋り付くラリィ。
レオは顔を顰め、そんなラリィから顔を背ける。
「嫌ならてめぇはそこで一生泣いてろ」
吐き捨てるように言ってから、レオはリズを見た。
「お嬢はどうする? 見届けるなら、あんたが来れる時間にするけど」
リズは涙を拭いながら頷く。
「……わかった。なら、明日のこの時間だ」
ーー翌日の同じ時間。
教会の裏口を抜けると、開けた空き地がある。そこには手作りの焼却炉があり、リディアの遺体の横たわった小さな棺が置かれていた。
ラリィの姿は無い。
「ラリィは?」
「見たくないって、閉じこもってる」
ヴィンスの答えに、リズは教会の中へと踵を返した。
寝床では、昨日と同じようにぬいぐるみを抱きしめたラリィが、虚な顔で一点を見つめていた。
「ラリィ。始まるよ」
「……行かない……」
「どうして」
「見たくない……」
消え入りそうな声で呟いて、顔を背けた。
リズは両手でラリィの頬に触れて、目を覗き込む。
「気持ちに整理をつける為にも、行った方がいいよ」
「……い、嫌だ……」
ラリィの顔が歪み、声が震えた。
まだ受け入れられない。受け入れたく無い。
けれどリズは、諦めない。
「相手の顔を見て、言いたい事が言える最後のチャンスなんだよ?」
それが大切な人であればあるほど、必要なのだとリズは思う。
これが最後なのだと突き付けられなければ、気持ちに整理がつかない。期待してしまう。これからもずっと、引き摺ってしまう。
「だからーー」
「嫌だ!」
「っ!」
リズはラリィの腕を力の限り引っ張った。
「行きなさい! リディアを独りにしないで!」
弾かれるようにラリィは顔を上げる。
「リディアはあんたを待ってる! 早く行って、ちゃんと手を握ってあげなさい!」
また涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ラリィは立ち上がった。
そうしてラリィは、リディアを見送った。
大好きだと抱き締めて、ごめんと叫びながらーー




