空洞の獣③
「げっ……! 妖!?」
「それ以上近付くなよーーって、リズ!? どうした!?」
海斗の背中におぶさったリズを見て、ラリィは驚きの声を上げた。
海斗はその場にリズをゆっくりと下ろす。
青白い顔で脂汗に濡れたリズは、力無く地面にへたり込んだ。両耳を塞ぎ、息も荒い。
セイルがリズの顔を覗き込むが、目の焦点が合っていない。
「おい、何があった?」
「黒髪の男と話した後、こんな風になったんだ。時々意識がはっきりするんだけど、ずっと何かが聞こえているみたいで……」
「黒髪の男……弥月か」
「そいつだ! 樹海に魔物の赤ちゃんを置いて来たとか、魔物の母親は由利だとか、なんかそんな事を言ってたと思う」
「魔物……」
ウィルは獣に目を向ける。この獣、現れた時は赤子のような姿をしていた。
「も……ヤだ……! 痛い……っ!」
体を丸めて苦悶の表情を浮かべるリズ。
「リズ! リズ! しっかりしろ!」
「リズ先輩!」
ラリィとウィルが声を掛けるが、まるでリズには届いていない。
セイルはリズの胸ぐらを掴み、彼女の頬を強く叩いた。
「うわ……」
思わず引くゼン。
「セ……イル……?」
「何が起きているか説明しろ」
リズの意識が戻った。セイルは胸ぐらを離して、赤くなったリズの頬に手を当てる。
「ずっと、頭の中で声がしてる……気が、おかしくなりそう……」
「……?」
ウィルは横目で獣を見た。獣はリズの方に体を向け、ピタリと動きを止めている。
「昔の……嫌な、感触……気持ち、悪くて……っ」
また頭の中の声が大きくなる。
『ほら、足を広げなさい』
自分の中に、無理矢理入ってくる感覚。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い!!
「……すけて……! 嫌だっ! 嫌!」
また意識が飲まれた。
それと同時に、獣がまた一回り大きくなる。リズの悲鳴に呼応するように、獣は遠吠えを上げた。
「この魔物、リズ先輩と共鳴してる……?」
「由利と共鳴?」
ウィルは頷き、続けた。
「リズ先輩が正気を保っていれば、この魔物は大人しい。けど今みたいに感情が昂るほど、こいつは成長していく」
「その仮説が正しければ、面倒臭いことになるかもな」
セイルの言葉とほぼ同時に、獣が地面を蹴って大きく飛んだ。
「由利!」
「馬鹿野郎! お前はこっちに来い!」
リズに駆け寄ろうした海斗の手を引いて、ウィルは獣との距離を取る。
ラリィがリズを抱き上げようと手を伸ばしたが、黒い稲妻がそれを阻んだ。
「リズ……!」
獣がリズの前に立ち塞がる。
リズに立ち上がる力は無く、獣の姿も見えていない。
ゼンが助けに行こうとするが、獣は長い尻尾を振り回して接近を拒絶した。
「リズ先輩!」
無我夢中でウィルが走った。風を切って振り回す尻尾を、守護剣で斬り捨てる。
「ガアァ゛ァア!」
「あぁぁぁ!」
獣とリズが同時に悲鳴を上げた。
「リズ先輩!?」
頭を抱え、痛みに震えるリズ。
「やはり、そいつの痛みもリズに共鳴しているんだろう」
「それじゃあ、どうやって倒せばいいんだよ!?」
ラリィは獣の足元にいるリズに目を向ける。兎に角リズを安全な場所に移動させなければ。
「由利! 由利!」
「待て……! 魔物の母親がリズだと言うなら……無闇に攻撃はされないはずだ……!」
危険を顧みず走っていきそうな海斗を、ゼンが引き止めた。
既に五メートルはある巨大な獣は、まるでリズを守るように足元に囲っている。
「リズ! こっちに来い!」
ラリィが叫ぶ。
しかしリズは、ぐったりと首を垂れて動かない。
「誰か助けて……誰か……」
獣がリズに顔を近付けた。
彼女のすぐ横に、真っ暗なブラックホールがある。
「リズ先輩!」
あの穴に吸い込まれたら、どうなるのかはわからない。しかし絶対に無事では済まないだろうと思う。
リズはゆっくりと顔を上げた。
その目に、獣の金と黒の毛並みが映る。
「吉良……」
金と黒のまだら髪。
酒と煙草の臭い。
見た目は怖いのに、笑う時はちょっと首を傾げる癖があって可愛かった。
「吉良さん……!」
ただ毎日が虚しくて、苦しくて、辛くてーーあの時救ってくれたのは、唯一吉良だけだった。
あの日襖を開けて現れた彼は眩しくて、身体を拭いてくれた手は温かかった。
「会いたいよ……!」
だけど彼はもういない。
リズが髪を染めたって、もう探しに来てはくれない。助けてくれない。
(私……十八になったよ)
まだこんなにも、貴方が好きだ。
本当に結婚して欲しいわけじゃない。ただ側にいて欲しい。あの時みたいに、抱きしめて眠ってくれるだけでいい。
リズの手が、獣の首元に触れる。
ーー吉良のいない世界では、生きられない。
「リズ先輩!」
ウィルが走る。
初めて会った時、『頑張ったね』と言ったリズの声が、ウィルの耳の奥に蘇る。
失いたくない。
絶対に。
(もう真っ平ごめんなんだよ!)
「俺がリズ先輩を助ける! 先輩が困った時は、いつでも俺が助けるから!」
黒い稲妻がウィルの太腿を掠った。痺れるような痛みが走るが、ウィルはそのままリズに手を伸ばす。
獣が爪を立て、ウィルを引き裂こうと前脚を振り上げたが、その前脚にラリィが飛びついた。
「リズ! しっかりしろよ、バカ! オレらの班長だろ!」
獣はラリィを振り解こうと前脚を高く上げる。しかしラリィは両腕、両足をしっかりと絡めて離さない。
更にゼンも、反対側の前脚にしがみ付いた。
「リズ……!」
「救いようのない阿呆だな!」
セイルは獣の背に乗り、首に腕を回す。
暴れ回る獣を、三人が力づくで押さえ付けた。
「リズ先輩! 頼むから戻って来い!」
リズを強く抱き締めて、耳元で叫ぶウィル。
「遠征中の俺の楽しみは、リズ先輩と一緒にいられることなんだよ! 先輩は綺麗だし、可愛いし、頭もいいし、俺はそんな先輩が大好きなんだ!」
「ウィ……ル」
リズの涙で霞んだ視界に、後輩の顔を映った。その向こうに、必死で獣を押さえる三人の姿。
「ゼン……セイル、ラリィ……」
獣の動きが緩やかに止まる。
「由利……! 由利はもう独りじゃないよ! 助けてくれる人が、こんなにいるじゃないか!」
海斗の声。
「悔しいけど……! 本当に悔しいけど、吉良は由利を救い出したんだよ、あの国から! 吉良の想いを無駄にしないでくれよ!」
「っっ!」
また涙が溢れて零れ落ちる。
蒼風国を出たあの日、吉良は約束の場所には来なかった。行けないかもしれないと薄々感じていたのかもしれない。だから仲介人に、リズだけでも出発するように伝えたのだろう。
リズはあの国にいてはいけないとーー本当に彼女を救いたいと、思っていたから。
「ごめん……ごめんね、みんな。吉良さん……」
ウィルの体が温かい。
リズはウィルの頭をくしゃくしゃと撫でると、静かに立ち上がる。
「……もう、大丈夫」
頭の中の声はまだ鳴り響いているけれど。
リズは獣を見上げる。
顔の真ん中の空洞は、吉良とリズの心の中にあった暗闇のようだ。
吉良とリズは似ていた。あの国に馴染めず、苦しみ、足掻いていた。
だからこそ惹かれあったのかもしれない。
「助けてくれてありがとう、吉良さん」
獣の胸に、ゆっくりと守護剣村雨を突き刺す。
リズの胸にも、抉るような痛みが走った。
きっとこの胸は、吉良を思い出すたびに痛むのだろう。これからも、ずっと。
獣は悲鳴を上げることもなく、まるで霞のように静かに消え去った。それと同時に、リズの頭の中の声も消失した。




