一夜の
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シャワーを浴びて魔物の血と臭いを洗い流した後、リズはウィルたちの部屋に向かった。
既に宿の食堂で夕食を終えた彼らは、ビールを片手にカードゲームで時間を潰している最中。
リズの方を振り返ったウィルだったが、さっきの涙が頭を過って、すぐに目を逸らした。
「海斗は?」
「あー、同じ宿。三〇五号室だって。部屋、行くの?」
ラリィの答えを聞きながら、リズはテーブルの上にあった、誰かの飲み掛けのビールを一気に飲み干す。
「馬鹿! お前、酒飲めないだろ!」
「……うるさいなぁ」
慌ててラリィがグラスを取り上げ、リズは低い声でぼやいた。
それから左手を前に出すと、守護剣の精霊村雨を呼び出す。
「主様。お呼びでしょうか」
折目正しく頭を下げる村雨に、リズは彼女の目を見ないで告げた。
「村雨。暫くここにいてくれる?」
「はい。承知いたしました」
もう一度頭を下げる村雨を置いて、リズは部屋を出た。
しん、と束の間の静寂が訪れる。
「……俺はーー」
沈黙を破ったのは、ゼン。
「女性と会う時は、シュイを解放してから行くのだが……」
「あ。わかります。俺もデートの時は、キリーは置いて行きます」
同調するウィル。
一同、同時に村雨を見た。
「どういう意味か理解しかねます。私たちは主の意思で封印を解かねば外には出られませんし、中にいる時は外の様子を窺い知る事は出来ません。それにも関わらず、私が逢瀬を覗き見るとでも仰りたいのですか?」
「いや、分かってる。分かってるんだけど、気持ちの問題っつーかさ?」
ウィルのフォローを聞きながら、村雨ははっとする。
「それは……よもや、リズ様は殿方との逢瀬を重ねに参られたということですか?」
「どうだろ? プロポーズを断るだけなら、村雨を置いていく必要ねぇしなぁ」
「……受けに行ったのかも……」
「えー!? リズ、結婚すんの!? リズが結婚……うーん……? オレ、祝福できっかなぁ?」
「俺はリズ先輩の結婚は断固反対ですよ! しかも、あんなぽっと出の奴!」
「お前ら、結婚するかしないかの二択しかないのか」
呆れた顔で煙草の煙を吸い込むセイル。
「けど……リズ、初めて見る顔してたな」
ラリィは、リズから取り上げたグラスに視線を落とした。
喉の奥から胃の中まで、酒が流れていったところが熱い。
リズは体が火照るのを感じながら、海斗の部屋のドアを叩いた。
躊躇うようにゆっくりと、ドアが開く。
「あ……由利」
「部屋に入っても?」
「もちろん。どうぞ」
濡れたままの髪のリズがやけに色っぽくて、一瞬だけ海斗の心臓が飛び跳ねた。しかし、リズを泣かせてしまったことが申し訳なくて、さっきまでの勢いは無い。
「さっきはごめん。ちゃんと順を追って、ゆっくり話せば良かった」
「まだ何か話すこと、ある?」
「その……吉良のこととか」
「……」
「やっぱり、涙の理由って……吉良? あいつが、その……死んだこと、知らなかったんだよな」
「自殺? それとも殺された?」
彼が亡くなるとしたら自殺か、他殺か、そのどちらかだとは思っていた。
「ヤバい金に手を付けてたらしくて。それがバレて、多分ヤクザに……」
リズが吉良との約束の場所に行った時、船を出す船員と、その仲介人が居た。
正規のルートでは、国の外にはなかなか出られない。吉良が用意した密航に近い脱出だった。
仲介人は時間になっても吉良が来なかったら、由利を連れて出発して欲しいと吉良から言われていた。
そして吉良は来なかった。
その仲介人は多額のお金を吉良から受け取っていて、その一部をリズが譲り受けた。
「……自殺じゃなくて良かった」
「この際だから聞くけど、由利と吉良ってどういう関係? やっぱりその……付き合ってた……?」
リズは笑う。
「キスしたこともないよ」
「そう、なんだ……」
「でも、私は好きだった」
「……だよな」
リズはそっと両手を伸ばして、海斗の頬に触れる。
細くて長い指が輪郭をなぞり、海斗は体を強張らせた。
ぞっとするほど、リズは綺麗だ。
「やっぱり兄弟だね。似てる」
そう言って海斗の唇に、自分の唇を重ねた。
「っ!? え……?」
「青には戻りたくない。あそこは私には息苦しい」
「あの……っ」
狼狽える海斗の身体をベッドに押し倒し、その耳元で囁く。
「……する?」
「っ! ま、待って!」
「しないの? 私のことが好きなのに?」
「好きっ……だけど!」
海斗の心臓が、痛いくらいに音を鳴らす。
由利にずっと触れてみたかった。いつも寂しそうなその瞳に映りたかった。
長いまつ毛、優しい声ーー脳裏に焼きついた彼女の全てが愛おしくて、たまらなく愛おしくて、この何年も海斗を苦しめ続けた。
耐えきれず国を出る方法を模索し、見知らぬ土地へ探しに来るほどに。
「でも、こんなのは……」
消え入りそうな声で呟いた海斗から、リズはゆっくりと身体を離した。
「兄弟揃って、意気地なし」
「……俺は……吉良じゃないよ」
「……」
「『リズ』って、あいつが呼んでた名前だよな。あいつがなりたかった緑の剣士になって、あいつが迎えに来るのを待ってた? なんでそんなにも、あんな奴のことーー」
「私は、吉良さんが全てだった」
「吉良は由利が思ってるような人間じゃない」
「なんでそんな事言うの?」
「弟だからだよ! あいつの中身は空っぽで、いつもそれを何かで満たしたがってた。無茶苦茶な事ばっかりして、俺が巻き込まれる事なんて、これっぽっちも考えてない!」
兄が嫌いで仕方がなかった。
吉良が仕掛けた喧嘩の報復を、海斗が受けることもあった。吉良が原因で別の孤児院を追い出されたこともある。
挙げ句の果てに、由利までをも奪って行ったのだ。
「私も吉良さんと同じ、空っぽだよ」
いつの間にか、心に空いていた大きな空洞。満たされず、何も感じず、渇いているのに、水を望むことすらも忘れていた。
「吉良さんだけが、満たしてくれた。吉良さんになら全部あげてもいい。たとえ騙されていたのだとしても、それが吉良さんの為になるのなら全然良かった……っ」
また涙が溢れてきた。
胸が苦しくて、苦しくてたまらない。
大声を上げて叫びたいのに、息を吸うことすら痛い。
十八歳になったら結婚しようと言ったのは、吉良なのに。
「ごめん。ごめん……! 俺、ずっと由利が孤独だったことも、院長に何をされていたのかも知ってた……それなのにあの頃は本当にガキで、何も出来なくて……由利の事が好きだなんて言う資格、無いよな」
溺れているように涙を流すリズを、海斗は強く抱きしめる。
今も尚、こんなにも吉良を求めていたなんて、思ってもいなかった。
(こんなの……勝てるはずがない)
「由利……」
海斗はリズの涙を拭う。
時間を掛ければ、リズは自分を好きになってくれるだろうか。
それとも。
「俺が、吉良になれば好きになってくれる?」
「海斗は吉良さんにはなれないよ……」
リズは海斗の背中に腕を回した。
忘れる事は出来なくても、せめてその似ている顔で、慰めてくれたならーー
(あ……)
その一瞬、別の顔が脳裏に浮かんだ。
以前ひとりだけ、吉良に似ていると思った人物がいた。
それを唐突に思い出して、リズは吐き気を覚える。
「待って……ホントに吐きそう……」
「え? え!?」
酒が回ってきて、視界がぐらぐらと揺れている。
口元を押さえ、洗面所に走るリズ。
冷たい水を顔に浴びせた後、鏡に映った自分を見て、自嘲した。
(酷い顔……)
「大丈夫?」
「……ごめんね、やっぱり部屋に戻る」
嘔気を堪えながらドアを開けると、部屋の外のすぐ近くに、ラリィとウィルの姿があった。
「よっしゃ。オレとセイルの勝ち! 今度の焼肉はウィルとゼンの奢りな!」
「マジかぁ……不本意だけど、絶対ヤると思ったのに……」
「何やってるの」
低い声で尋ねるリズ。
「リズが海斗とセックスするか賭けてた」
「最っ低!」
馬鹿正直に答えるラリィの急所を蹴り上げて、リズは自室へと戻って行った。




