35.子猫と
☆
その日の深夜。
ウィルは部屋でシャワーを浴びて、左肩を剣士隊の救護室で処置してもらった後、寮から少し離れた人気のない公園にいた。
「ほら、お土産」
ウィルの足元にやってきた子猫に、ソーセージを投げ渡す。猫はニャアと小さく鳴いて、ソーセージにかじりついた。
――ウィルが部屋に帰らない日は、この公園にいることが多かった。誰も来ないし、寝転ぶのにちょうどいいベンチもあるし、耳をすませば遠くの波の音が聞こえてきて気持ちがいい。
ウィルはいつものように、ベンチに寝転んで星空を見上げる。目を閉じて海の音を聴いていると、ソーセージを食べ終わった子猫が、ウィルの胸の上に乗ってきた。
その子猫のふわふわした背中を撫でていると、いつもは誰も来ないはずのここに、ゆっくりと近づいてくる足音が聞こえてきた。
「ホントに子猫とニャンニャンしてたのかよ」
ラリィの声。ウィルは目を開けて、体を起こそうとした。
その時――
「っっっっ!!?」
思い切りラリィに股間を蹴り上げられ、声も出ずにウィルは地面に転がり落ちた。
「っって……め……! いきなり何……」
ラリィはいつもとは違う冷たい目でウィルを見下ろしながら、煙草に火をつける。
「お前、誰の女口説いてんだよ」
煙をウィルの顔に吹きつける。
(え? は? これ、あのラリィと同一人物?)
ヘラヘラと笑っているラリィの姿は微塵もない。恐怖すら感じる、冷えた目と声。
「く、口説いてねぇよ! なんか勝手にあんな感じになっただけだろ!」
「……」
ラリィはもう一度煙草の煙を肺に吸い込み、ゆっくりと吐き出す。もう一撃くるかと、ウィルは体に力を入れて身構えた。
「あー……ホントに好きだったのになー……」
肩を落として力なくベンチに座ったラリィは、いつもの彼の顔をしている。
「チェリちゃん守ってくれて、ありがとな」
「……は?」
「頭ではわかってんだよ。でも一発殴らなきゃ気が治らなかったってゆーか」
「……キン◯マはダメだろ」
「でもこれぐらいしとかなきゃ、同じことがまたあったら嫌じゃん?」
「タマはダメだって」
小さく笑うウィルとラリィ。驚いて逃げ出していた子猫が、ウィルを見上げながら戻ってきた。
「なんでここがわかったんだよ」
「キリーに聞いた」
「……あいつ」
一度だけ、退屈しのぎに話し相手としてキリーを呼んだことがあったのを思い出し、後悔する。
「お前、マジでここで野宿してたの?」
「別に俺がどこで寝てても関係ないだろ」
子猫の喉を撫でながら、またどこか別の場所を探さないといけないなとぼんやり考える。
「オレと仲良くなるの、怖いの?」
「…………は?」
「その間は図星だろ! あ、そーなんだ? やっぱり、オレと仲良くなっちゃうのが怖いんだぁ?」
「ちが……っ!」
図星だ。ラリィは面白い奴だと思った。だからこそカストやアイザックみたいに、また死んでしまうのではないかと思うと怖かった。
「バカだなぁ。オレは簡単には死なねーよ」
「……弱いじゃん。剣の使い方へぼいし」
「へぼいって言うなよ!」
ラリィは乱暴にウィルの頭を撫でる。
「部屋に帰ってこいよ。寂しいだろ、オレが」
「……」
「とっておきのエロ本、お前にやるから」
ウィルは空を見上げる。ここで星を見ながら寝るのも、そんなに悪くはなかったのだが。
「……寮って、ペット禁止?」
「バレなきゃいいんじゃね?」
ウィルは子猫を抱いて立ち上がった。
「あ。ちょっと待って。チェリちゃんの件で、許す代わりに条件がある」
ラリィは満面の笑顔で、その条件をウィルに告げた。
☆
翌朝、いつものルーティンが始まった。
左肩を負傷しているウィルは、支障のない程度にトレーニングに参加することになった。そしてグラウンドの一角には、いつも通りキリーを含むギャラリーたちの姿がある。
「ウィル君、頑張ってー!」
フリフリリボンファッションをやめたチェリや、
「リズさーん! 今日も輝いていますー!」
昨夜リズに助けられたどこぞの貴族令息の姿もあった。
「リズ、貴族の嫁になれるんじゃねーの?」
「やめてよ」
グラウンドを走りながら、ラリィがリズに言う。
「あんたの元カノ、結構エグいことするのね。完全にウィルに乗り換えてるじゃない」
「まだ傷口は生々しいからやめて……」
ウィルの名前を呼ぶ元カノの声が聞こえるたびに、ラリィの胸はごっそりと抉られている。
「あんたが傷つく姿を見るのは快感なんだけど、ウィルとは和解してるの?」
「条件付きだけどな」
「条件?」
二人の後ろからウィルが走ってきた。追い抜きざまにラリィに舌を出す。
「ラリィ先輩、周回遅れですよ。だっせ!」
「ラリィ先輩……ねぇ」
リズは呆れた顔でラリィを見た。ラリィがウィルに出した条件とは、これである。自分も『先輩』と呼ぶこと。
「だって! リズもゼンもセイルも『先輩』なのに、オレだけ呼ばれないのは納得いかねーんだもん!」
叫びながらラリィは走るペースを上げた。
――一方、すでに走り終えたセイルは、グラウンドの端に第三部隊長の姿を見つけて、そちらに向かって歩き出した。周りに人がいないのを確認してから声をかける。
「親父」
「どうした、セイル。勤務時間中に珍しいな」
「『例の件』……ちゃんと断ったんだろうな?」
ライトは小さく息を吐いた。
「約束だったからな。あのお見合いはお断りしたが……爺様が次々と引き受けてくるから、またいつ話が舞い込んでくるかはわからんぞ」
「そもそもなんで俺に見合いの話を持ってくるんだ。まずはクリスに嫁を取らせろ」
クリストファー=ランクは、セイルの兄である。
「まぁ……うむ。その話はまた、家族揃って相談しよう」
ライトはセイルから逃げるようにグラウンドを出ていった。
第三部隊長ライト=ランク。その次男セイル=ランク。この二人が親子だということは、第三部隊では有名であるが、ウィルが知るのはもう少し先の話である。




