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箱庭のぼくら  作者:
1/7

1 学校の裏庭

 あっ、と思ったときにはもう遅かった。

 僕のシャツの胸あたりに小さな褐色のシミがふたつ現れる。原因は弁当に入っていたソースだ。容器のフタを開けるときに手が滑り、ソースが飛び散ってしまったのだ。

 毎回漂白剤を入れて洗濯され、小さなシワも残さずアイロンをかけられた、僕の制服のシャツ。それはけっして汚してはいけないものだった。


 ざあっと血の気が引く音がした、ような気がした。次の瞬間、僕は立ち上がっていた。一緒に食べていた多田くんたちになにか言う余裕もなく、脇目も振らずに教室から一番近い手洗い場へと向かう。


 幸いなことに、汚れは少し水をつけて指でつまんだだけで落とせた。シミといってもほんの小さなものだったから。

 ただ、もし落ちなければ大問題だ。母さんの冷え切った目が脳裏に浮かぶ。「弓月、中学生にもなってこぼしてるようじゃ、みっともないよ」なんて嫌味まで聞こえてきそうだ。


 シャツの濡れた部分をティッシュでおさえて、教室に引き返す。夏だからすぐに乾くだろう。夏休み前、一学期最後の弁当でこんなハプニングが待っているとは。

 教室の入口前で、「倉島ってさ」と僕のことを話している声が聞こえてきた。どきりとして立ち止まる。


「さっきのあれ、あんなちっこい汚れに目の色変えて、駆けだしてったわけ?」

「大げさだよなあ。倉島って変な奴」

「サッカーとかバスケとか誘っても絶対やんないよなあ、あいつ。もしかして服、汚すのを気にしてんのかな」

「潔癖症とか、そういうの?」


 あはは、と軽い笑いが起きる。僕の心にはずしりと重たい言葉だったけど。話題が変わったところで席に戻り、弁当を慎重に食べ始めた。

 仲のいい友達なら、変だと言い合うのもコミュニケーションのひとつかもしれない。だけど、僕たちはそうじゃない。ただ僕が弁当の時間に混ぜてもらってるだけ、という仲だ。そういう関係で、こっそり噂される『変な奴』はこたえる。


 僕だって好きでシミひとつに必死になってるわけじゃない。家で両親と、特に母さんとうまくやっていこうと思ったら、自然とこうなるんだ。口には出せない言い訳を胸の内で並べ立てる。


 僕の母さんは七年前に変わった。

 食事づくり、部屋の掃除、洗濯。それまでは少し手抜きをしていた家事を完璧にこなすようになった。仕事が増えて忙しいときは家事サービスも頼んでいるくらいだ。


 母さんは誰からもツッコミの入りようがない暮らしをしたがっていて、それはおおむね成功している。

 部屋や服がいつもきれいな生活はいい。ゴミが部屋中に散らばっていたり、汚れてにおいのひどい服を着たままでいるよりは、当たり前にずっといい。


 ご飯だって、一日を菓子パンとカップラーメンの二食ですませるより、一日三食、栄養バランスに気を遣ったものを食べる方が快適に決まっている。

 そんな最高の暮らしに変化したかわりに、母さんからの要求レベルも高くなった。いつも身ぎれいに、勉強もしっかりやる。誰が見てもちゃんとした人間に見えるようになりなさい……という感じに。


 一番簡単なのは、素直に母さんの言いつけを聞くことだ。

 僕が反抗すれば、母さんは怒ったり悲しんだりして大騒ぎになるだろう。そうしたらまた父さんはおろおろしだして、母さんとケンカにもならないケンカをして、また家の空気が荒れるかもしれない。結果、家族の精神面でも経済面でも、大きな負荷がかかることになる。


 だったら、あらがうより素直にいい子にしていたほうがいい。黙っていても部屋がきれいになり、ご飯が出てくるのは楽だし、その分勉強だってできるんだから。勉強をするのもそれほど苦じゃない。僕にとっても楽な暮らしのはずだ。


 うん、良かった、はずなんだけど……。

『倉島って変な奴』

 ちょっとした言葉が、胸にちくりと針を刺す。


 母さんは僕をちゃんとした人間にしたがっている。それなのに母さんの言うことを聞いていると、どんどん「変な奴」になっていくんだ。どうしたらいいんだろうね。


 肉、野菜、玄米ご飯。さらには別容器に果物までついている完璧な昼ご飯を終え、弁当箱を片付けているとき、僕の後ろの机に褐色のシミを見つけた。僕がさっき飛ばしたソースがあそこまで飛んでしまったのか。

 後ろの机をティッシュで拭いていると、なんとなく多田くんたちが苦笑しているような気配を感じた。突然、人の机を拭きだすなんて、変人倉島ここに極まれり、なんて思われているんだろうか。


「弁当のソース、こんなとこまで飛ばしちゃったみたい」

「ああ、なるほど」


 僕の言い訳にみんなはうなずいたものの、『またやってる』と言いたげに視線を見交わしている。変な奴というレッテルは僕に貼りついたままだ。


「その席の人、結局二学期も来なかったな」

「ああ、不登校なんだっけ」


 話題が変わった。僕は安心してみんなの話を聞く。


「なんて名前だったっけ、聞いたはずなのに覚えてないな」

 みんなは首をひねっている。僕もそのひとりで、後ろの席の人のことはなにも知らない。不登校の理由も、男子か女子かということさえ、まったくわからなかった。


    *

 

「今週はずっと勉強会なの?」

 夏休みに入って四日目の火曜日。鏡のように磨き上げられたシンクをさらに磨きながら、母さんが尋ねてきた。


「うん、今日も学校の図書室に行ってくる」

 僕がうなずいて答えると、母さんはふうん、と鼻を鳴らす。


「ちょうどお母さんが家にいるときに出かけるのねえ」


 母さんは普段、朝から夕方まで会社に出勤しているが、週に一日だけ在宅勤務になっている。だけど僕が夏休みに入ったばかりだからということで、今週中は自宅勤務にしたらしい。中学生にもなった息子のために、わざわざ。

 それはつらい。一週間ずっと、母さんと同じ空間にいるのはあまりにも気詰まりだ。なので僕が代わりに出かけることにした。


「うん。思ったよりみんな熱心でさ。昨日はすごいはかどっちゃったよ。夏休み前半で宿題ほとんど終わりそう」


 図書室で友だちと集まって勉強会をする。というのが、僕が出かけるための理由だった。もちろんまったくの作り話で、勉強どころか、昨日は図書室に足を踏み入れてすらいない。

 母さんは僕のウソ話を聞いて満足そうな表情になった。


「そう、それはよかった。今日も頑張ってね」

 母さんは玄関先で、僕の姿を上から下までじっくりと観察して、そして僕の肩についていたらしいホコリを払ってから、やっと送り出してくれた。


 家が見えなくなるころ、僕はやっと深い呼吸をした。特大のため息をつく。

 まだ朝の八時台だというのに空気が熱い。あまりの暑さに、カラカラのアスファルトや、近所の家の庭で水が足りずにしなびている朝顔が、ものも言わずに耐え忍んでいる。彼らが「そのくらいでため息ついてるんじゃないよ」と責め立ててくるようだ。


 結局、弁当を作らせてしまったな。肩にかけたトートバッグが、弁当の重量よりも重く感じる。

 弁当なんて作るだけでも手間がかかりそうなのに、真夏でも腐りにくいようにと昨日は酢を使ったちらし寿司、今日は保冷剤入りのサンドイッチを持たせてくれた。しかも勉強仲間と休憩中に食べてね、とクッキーまでつけてくれるという念の入れようだ。


「弁当なくても平気だよ。コンビニでパン買うから」と言ってみたいけど、できない。僕がコンビニでご飯をすませるというのは、母さんにとってはトラウマにも等しいことなのだ。


「もう七年も前のことなのになあ」


 母さんはまだ、七年前に自分が家出して、そのとき起こった騒動のことを引きずっている。現在の「子どもを型にはめこんで安心する」人間になったのはそのせいだ。


 ただ、引きずっていようがなんだろうが、母さんがしてくれることは正しいことではあるんだよな。だから反論もできない。清潔で満ち足りた生活をさせてもらってる。


 ただそれは、僕のためにやってるんじゃない。全部母さん自身のためで、僕の意志なんか確かめてもくれない。そもそも母さんは僕に意志があるってこと自体、知らないんじゃないだろうか。


 なんだか、もやもやする。

 だけどそれを表に出すことはできない。僕は恵まれた環境で暮らしてるんだから、文句も不満も出せるわけがない。閉じ込められたもやもやは、深呼吸をしても新鮮な空気に触れることがなく、僕の胸の中で淀んでいる。


 軽く頭を振った。とにかく学校に行って気分を変えよう。今日もあの場所に行くんだ。体操服に着替えて、土で汚れることを怖がらなくていい時間を過ごすんだ。


 洗い立ての真っ白なトートバッグが少しだけ軽くなった。僕はこれから行く場所のことを考えながら歩いた。草のにおいのする、裏庭のことだけを。


    *


 時間は少し戻って終業式の日。僕は担任の横重先生に、ある頼みごとをした。


「本当に変わってるねえ、倉島くんは」

 先生は眼鏡の奥の小さな目を何度もぱちくりさせている。はい、先生からも「変な奴」認定いただきました、と僕は内心で自嘲する。


「草取りがしたいなんて。たしかに裏庭はかなり雑草が伸び放題だけど、今の時期にやるのはキツいよ。熱中症が心配だし」

「いえ、さすがに敷地全部をきれいにするのは無理だと思うんで……。できる範囲だけやらせてもらえたら」


 家にいたくない僕は、最初は図書室にこもろうと思っていた。母さんについた勉強会というウソは、半分本当になる予定だった。友だちと一緒じゃなくて、ひとり勉強会だ。

 だけど図書室は夏休み中、数日しか開放されないのだ。校内だよりを見て絶望した。僕は仕方なく、ほかの行き先を考えてみた。


 たとえば、ショッピングモールや公共施設で時間をつぶす案。

 想像してみて、なぜだか怖い、という感情が湧いた。自分は人のいる場所に行きたくないんだろうか、と解釈して、この案は不採用になった。

 母さんだけじゃなくて、他人とも顔を合わせたくない。できるだけ人から見えない場所にいたい。


 お金を払えば、ひとりきりになれるスペースを借りられるのだろうが、急に出費が増えたことがバレたら、悪い遊びでもしてるんじゃないかと母さんに怪しまれそうだ。いや、気づかれないとしても、小遣いにはなるべく手をつけたくない。

 今は何不自由ない生活ができているけど、将来はどうなるかわからないのだから、お金は貯めておくに越したことはない。


 そこで浮上したのが、学校だ。

 母さんには言い訳もできるし、お金もかからない。場所も候補を絞り込んでおいた。


 特別校舎の裏側にある庭だ。みんなは裏庭と呼んでいる。ただ、庭というのは数年前までの話らしく、今は誰も手入れをしていないせいで、花壇と道の区別もわからないくらい草ぼうぼうになっている。

 荒れ果てた、というのがぴったりくる場所。なのにあの場所に足を踏み入れたとき、なぜか心ひかれた。


 校内外を仕切るフェンス沿いに植えられている木はどれも立派で、外敵から学校を守るように枝を広げている。その濃い緑の葉は、夏の刺すような日差しをやわらげてくれていた。

 木陰には木でつくられたテーブルとベンチまである。どちらも雨風にさらされて変色していたが、まだ足がぐらつくこともなく、役目をきちんと果たしてくれそうだった。


 夏休み中、部活もないのに学校でふらふらしていては、もし先生に見つかったときどう説明をすればいいかわからない。そう思って僕は、裏庭の草取りという仕事を思いついたのだった。


 先生は僕の提案を聞いて、うーんと考えこんでいる。僕はダメ押しに、

「自由研究で、裏庭の植物を観察できたらなと思ってるんです」

 と、今思いついたことを言ってみた。


「それならまあ、いいか。倉島くんは真面目できっちりしてるからね。作業するときは休憩しながらやってね。水も飲んでね」


 よし、先生から許可を得たぞ。次は……。


「はい、気をつけます。それから、使ってない体操服があったら借りたいんです」

「体操服? 倉島くん、自分の持ってるでしょう?」

「持ってるんですけど、汚れると家で洗うの大変なので……」

「そうねえ、体育館に去年の三年生が置いてったのがあったかもしれない」


 先生はバスケ部の顧問に声をかけ、洗い替え含めて二セットの体操服を借りることができた。


「ありがとうございます! きちんと洗って返します」

「いや、持ち主もわからない、置きっぱなしのものだし、別にいいんだけど……」


 バスケ部の顧問からも、「変な奴」と言いたげな空気を感じたが気にしない。汚れにおびえることなく安全安心に過ごせるならそれでいい。

 靴も忘れずに履き替える。近所の店で一番安い靴を調達しておいた。これでいくら汚しても平気だ。


「しかし、なんでそこまでして、ひとりで草取りを……」


 横重先生の困ったような笑顔から目をそらしながら、僕は心の中で返事をした。

 服が汚れることを気にしないでいられること、母さんの目から逃れてひとりになれること。それが今の僕にとってはすごく大切なことなんですよ、先生。


    *  


 そして現在。裏庭生活二日目。


 体操服に着替えた僕は軍手をはめ、さっそく草取りをはじめた。昨日はそこそこ真面目にやったので、昨日むしった草がこんもりと山になっている。


 昨日の夏休み初日は気分が盛り上がり「よし、草むらに寝転がってやるぞ」なんて意気込んでいたものの、実際にやるのは少しためらわれた。ダニがいるかもしれないし。

 だけどせっかく服まで借りてるんだから、という気持ちもあり、僕はトゲのなさそうな草の上に座ってみた。


「いてっ」

 思わず声が出た。草の根元には石ころがあるらしく、尻に固い感触が伝わってきた。トゲはなくても尖った石が転がっているらしい。腰を上げて石をどけると、そこにはダンゴムシが丸まっていた。


 久しぶりに見た。小さいころは公園でダンゴムシやアリをよく観察していた気がする。なつかしい。

 ダンゴムシは、やれやれ、せっかく休んでたのにな。べつの石陰に行くか……といった様子でちょこまかと移動している。


「邪魔して悪かったな。でも、僕もここでくつろぎたいんだ」


 たとえば、こんな環境から離れたい。『子どもはちゃんとしたご飯を食べて、ちゃんとお風呂に入って、清潔な服を着なくちゃ』張り詰めた母さんの声、それから僕を監視するためのカメラになった視線。僕が寝ている時間を見計らって一階に行く父さんの、遠慮がちな足音。


 ここにいるあいだだけでも、離れていたい。 

 気分を切り替え、草取りをはじめる。手で引き抜けないくらい根を張っている草を見ると、やっぱり道具が必要かな、なんて思いながらひたすら働く。


 作業がはかどったのでそろそろ休憩しようか、と木陰に移動したとき、突然木の枝が突然、ガサリと大きな音を立てた。

 視線をめぐらせると、フェンス沿いに立っている木のうしろから突然、人が現れた。


「えっ……」

 驚きすぎてそれ以上なにも言えないまま、僕はその人物をみつめていた。


 女の子だ。背は中一の平均身長である僕よりもだいぶ低い。オーバーサイズのTシャツから出ている腕は、折れそうに細くて頼りなかった。

 髪をふたつに分けて結んでいるゴムにはソーダ飴のような飾りがついていて、あどけない雰囲気。ただ今は、僕がいることに彼女も驚いているらしく、黒目がちな瞳を見開いていた。


 僕より年下だよな。近所の小学生の子だろうか。

 というかこの子、今どこから出てきた? 木のうしろは校内外を隔てているフェンスしかない。いつから潜んでいたんだ?

 僕は混乱していた。女の子は不安げにこちらを見て、引き返しそうな素振りを見せていたけど、結局とどまり、僕をにらんでこう言った。


「ここ、わたしの場所なんだけど」

「……は?」


 僕の反応に、女の子は不満げに唇を尖らせた。その仕草がますます子どもっぽい。ここはわたしの遊び場だ、ってことなんだろうけど、意味不明な理屈だ。僕も少しムッとして言い返した。


「いや、僕はこの学校の生徒だよ。今は夏休みだけど用があって登校してるんだ。きみは別の小学校に通ってるんだろ? つまりきみよりも僕の方が、ここにいる権利があるってことだよ」

「違うよ! わたし、中学一年生!」


 結んだ髪をぴょんと揺らして、女の子は僕に反論した。

 えっ、僕と同い年? とてもそうは見えないけど……。


「じゃあ、きみもここの生徒?」

「え、えっと……」

「なんかあやしいなあ。同学年なのに、僕、一度もきみの顔見たことないよ?」


 つい詰問口調になってしまうのは、きっと女の子が出会い頭に好戦的だったからだ。


「うるさいなあ。部外者は来ちゃいけないの?」

「あ、認めた」


 僕がぽそっとツッコミを入れると、彼女は喉の奥からぐうう、と声にならない音を出した。


「やっぱり小学生だったんだ」

「小学生じゃないってば! 違う学校なの」

「違う学校……私立に通ってるとか?」

「まあ、うん……」


 うなずく女の子。なるほど、うちの県の子はほとんどが公立中学に通うけど、私立中学だって数が少ないながらも存在してるんだから、当然通う子もいるよな。やっと納得した。

 だけど疑問はまだある。どうして自分の学校に行かずわざわざ他校に入り込むんだ? あと、急に現れたのはどうしてだ?


「きみさ、どこから入ってきたの? 急に現れたからびっくりしたんだけど」

 とりあえず疑問のひとつをぶつけてみると、女の子はさっき出てきた木のあたりを指さした。


「あそこ。フェンスの破れ目から」


 確かめてみる。フェンスは縦に長く避けていて、たしかに女の子の体型なら楽に入ってこられそうだった。学校は外から守られた空間だと思っていたのに、実際はセキュリティガバガバじゃないか。


「ふうん、フェンスの隙間から不審者みたいに入り込んできて、ここがわたしの場所って言い張るとはねえ」

 自分だけの空間が台無しになってしまって悔しい僕は、ついそんなことを口走ってしまう。女の子は鳥のように唇をとがらせた。


「あれは、人がいることにびっくりして……怖かったから。こっちから強気でいかないとダメだって思っちゃって、だから……そんな意地悪言わなくてもいいじゃない」


 反論されてはじめて、僕が普段の自分とは違っていることに気づいた。いつもなら誰かに皮肉っぽく言い返したりなんてしない。口げんかみたいなことをすることだってない。

 それなのになぜか、今は彼女と言い合っている。しかも嫌な気分じゃない。久しぶりに人と会話したような新鮮な気持ちになった。


 ただ、彼女はどう思っているかわからない。僕の嫌味な物言いに傷ついてしまっているのかも……。僕は急に不安になって、彼女に頭を下げた。


「ごめんなさい。僕こそ、誰もいないところで休憩できるって思ってたのに、急にきみが出てきたから、本当にびっくりしたんだ。本当は学校に入ったくらいで責めるつもりなんてなかったのに、つい……」


 僕があやまると、女の子はまるで、不思議なものでも見たかのように目を見開いた。


「ごめんなさい、なんて、謝ってくれる男の人、本当にいるんだ……」


 女の子の言葉に今度はこっちが驚いた。


「いや、だって普通、悪いと思ったら謝るでしょ?」

「そっか、そうだよね」


 女の子は「よかった」と胸に手を置き、さらに言った。


「わたし、ここでやることがあるんだ。だから見逃してくれると助かる」

「やること?」

「虹をつくりに来たんだよ」

「虹をつくりに……?」


 僕は気の抜けた声で女の子の言葉を繰り返す。


「うん。ホースで水をまいて、虹を出すの」


 なんでわざわざ学校でそんなことをしたがるんだ? と僕の頭にはそんな返答が浮かんだ。浮かんだのに、実際口から出たのは、

「僕も手伝うよ」

 という言葉だった。


「えっ、なんで?」

 女の子の肩が跳ねた。ついでに結んでいる髪もぴょんと元気よく踊る。


「なんでだろう。わからない……ただ」

 今の僕はなんだか変だ。頭がふわふわしている。考えたことじゃなくて、感じたままをしゃべっている気がする。

「夏休みに夏っぽいこと、やっておきたいなって」


 自分の声を耳で聞いて、そうだったのかと納得した。

 この裏庭に来たのは母さんから逃げるためで、もし母さんが家にいなければ、僕はずっと自分の部屋で勉強をする予定だった。朝から晩まで。服も汚れないし母さんも喜ぶし、一番楽だから。他にやりたいことなんてなかったからちょうどいいとさえ思っていた。


 だけど実際にこの裏庭に来てみると、結構楽しい。草のにおいが好きなことや、虫は苦手だと思ってたけどダンゴムシはかわいいと思えることにも気づいた。

 とどめは女の子が現れたことだ。なにもない空間からいきなり現れて……まあ実際はフェンスの隙間から入ってきたんだけど……虹をつくりたいなんて言い出したら、まるでファンタジーの世界みたいだ。


 この裏庭は、ちょっと不思議な世界なんじゃないかって、ありえないとわかってるのに、ちょっとだけ思ってしまった。

 だったらこの場所にいる僕も、普段と違うことをやってみてもいいかもしれない。

「あはは、夏っぽいことかあ。じゃあ、いっしょにやろっか」

 女の子の笑い声が青空に広がる。たった今、僕は夏休みがはじまったことを実感した。

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