8時間目 好きすぎて…
「うえ……めっちゃべたべたする。」
自室に戻ったユキは自分の髪を掴み、気持ち悪そうに顔をしかめた。
「悪いけど、先にシャワー浴びてきていい?」
「う、うん…」
ナギはぎこちなく答える。
「んじゃ、お言葉に甘えて。」
ユキは着替えを持って脱衣所へと消えていき、ふと何かを思い出したかのように顔だけをそこから出した。
「……ちゃんと待ってろよ?」
「う、うん…」
ナギがこくりと頷くと、次こそユキは脱衣所に引っ込んでドアを閉めた。
そこからシャワーの音が聞こえてくるまで息を詰めていたナギは……
「ううう、どうしよう…」
ユキのベッドに腰を落とし、両手で顔を覆った。
顔が熱い。
もう半端じゃなく熱い。
「顔が見れないよぉぉ…」
弱った声が漏れた。
確かに髪を切ったユキが見てみたいなんてことは思った。保健室前でユキを待っている間も、他の皆より仕上がりを期待していた自覚がある。
でも保健室でこちらを振り返ってきたユキを見た瞬間、雷に打たれたかのような衝撃を受けて呼吸すらも忘れた。
写真の中の可愛いユキと、目の前にいるかっこいいユキ。
同じユキなのにギャップがすごすぎて、すぐにはついていけなくて。
あの時の感覚はどう表現すればいいのだろう。
世界が一気に変わったというか、引き込まれて動けなくなったというか。
心臓がばくばくと暴れて、顔どころか全身が熱くなって、もうユキのことしか見えなくなって。
そういえば、一目惚れってこんな感じって聞いたことがある。
ふとそんなことを思って、また心臓が激しく高鳴った。
待って。自分はユキが髪を切る前から彼のことが大好きじゃないか。この〝好き〟は友達としてのものじゃなくて、れっきとした恋愛感情だと思っている。
それなのに、髪を切ったユキにさらに一目惚れしたの⁉
そう思ったら無性に恥ずかしくなって、思わず保健室から逃げてしまったのだ。
「うああ…俺、どんだけユキのこと好きなのさー‼」
思い出したらまた恥ずかしくなってきて、ナギはユキのベッドに潜り込んでじたばたと暴れた。
「やだやだ! おしゃべりしたいよ! 触りたいよ! おーそーいーたーいーよーっ‼」
やりたいことはたくさんあるのだ。
ユキの声をずっと聞いていたい。
触って、キスを迫って、それで顔を赤くして焦るユキを見たい。
衝動を止められない自分を圧倒的な力で抑える、ちょっと意地悪になったユキに支配されてしまいたい。
もっと深く深くユキのことが知りたい。
ユキの全部が欲しい。
そう思うのに……
「俺、どうやってユキに触ってたっけ…?」
好きすぎて近づけない。
意識しすぎて顔も見れない。
苦しい。
切ない。
でも好き。
好きで、好きで、好きすぎてたまらない。
「どうしよう…」
こんなに好きなのに。
毛布にくるまり、好きな人の香りに包まれる。
たったこれだけで、ものすごく安心して幸せになれるのに。
「ユキ…」
安堵からくるちょっとした眠気。
ナギはふと瞼を伏せる。
「あー、すっきりした。ほんとに、今日はひどい目に遭ったわ。」
ユキが脱衣所から出てきたのはその時だった。
「―――っ‼」
突如羞恥心と緊張感が舞い戻ってきて、ナギはぎくりと体を強張らせた。
「何してんだ、お前?」
ベッドで丸くなるナギを見たユキが問いかける。
「なっ、なんでもない! なんでもないの‼」
ナギは慌ててベッドから抜け出して、ユキに向かって自分の行為をごまかすように両手を振る。
その拍子にごく自然な流れでユキを見てしまい、
(いや、誰⁉)
保健室で抱いたのと全く同じ感想を持つことになった。
ワックスを落としたからだろう。濡れた短い髪は跳ねることなくすとんと下に落ちている。それがどことなくあどけないというか、なんというか。風呂上がりでほんのり赤らんだ頬も相まって、とにかくものすごく可愛く見えてしまったのだ。
「あ…」
これは本当にユキがそれだけ魅力的だから?
それとも、自分が過剰に反応しすぎているだけ?
分からない。
でもこのままじゃ、自分の心臓がもたないことだけは分かる。
「………」
結果、思わず目を逸らしてしまった。
それを見たユキが、不愉快そうに顔をしかめたことには気づかずに。
「ナギ。」
「な、何…?」
「お前今、わざと目を逸らしただろ?」
どきりと心臓が跳ねる。
「いや、そんなことは…」
苦し紛れにそう言ったけど、さすがにこれはごまかせていないと自分でも分かった。
「ふーん?」
一段と低くなるユキの声。
次の瞬間、ユキが無言で一歩距離を詰めてきた。
「………っ」
気づいた時にはもう遅い。
無意識の内にユキから逃げて一歩退いてしまっていた。
「なんで逃げる?」
「その…」
ナギは顔を青くする。
ユキが怒っているのが分かる。
別にユキが嫌でこうしているわけじゃない。
自分だってこんなことしたくない。
嫌われたくない。
そのためには何か言わなきゃ。
そう思うのに、喉で緊張と恐怖が絡んで声が出ない。
どうしよう。
どうにかしないと。
ぐるぐると思考を巡らせていると、背中が硬いものに当たった。
カーテンが閉まった窓にぶつかったんだと気づくのと同時に、ユキの手が目の前を通り過ぎて窓を叩いた。
「~~~っ‼」
どうしよう。
怒られる?
……嫌われる?
逃げ場をなくしたナギは、ユキの気配を間近に感じながらきつく目を閉じる。
「……オレが、髪切ったせい?」
耳朶を叩く柔らかい声音。
(え……?)
ナギはハッとして目を開けた。
怒ってない。
この声は怒ってない。
そうじゃなくて……
「………」
一度深く呼吸。
それで覚悟を決めて、ゆっくりと声の方を向く。
ユキはどこか悲しそうな、そして傷ついた顔をしてそこにいた。
「あ……」
ふと脳裏に閃くあの夜の出来事。
心底自分のことを怖がるかのようなユキの顔。
あの時はユキを怖がらせた。
そして今度は、ユキのことを傷つけた。
ユキのことなら分かる。
これは明らかに自分のせいだって。
「違う……」
ナギは思わずユキのパーカーを強く握った。
「違うの……」
待って。
そんな顔しないで。
そんな顔させたくないよ。
そんな顔をさせるようなこと、したくないよ。
生まれて初めて心の底からそう思った。
「じゃあ…なんなの……?」
「それは…」
「言えよ。……怒んないから。」
覇気のない声が心に沁みる。
なんて言えばいいの?
何をどう説明したら、ユキはこれ以上傷つかない?
そんな器用な気持ちの伝え方、自分には分からない……
「直視できないの。―――ユキのことが、好きすぎて。」
こうやって思ったままのことを伝えることしか、俺にはできないよ。
「ユキのことは、前から大好きだよ。だけど、その…髪切ったユキを見てから……余計に好きになっちゃって…ユキのこと見るだけで、心臓が破裂しそうなんだもん……」
やっぱりユキの目を見ては言えなくて、顔を真っ赤にしたナギはうつむいて自分の気持ちを吐露する。
すると。
「―――は?」
ユキの口から間の抜けた声が漏れた。
「何言ってんの、お前?」
この答えは全然予想していなかったのか、ユキが呆気に取られているのが伝わってきた。
そんな変な理由で避けられてたの?
二の句を告げなくなっているユキの雰囲気が、そんなことを言ってくるような気がした。
「ううう……だって、しょうがないじゃん‼」
そんな空気で黙られると、自分の態度がおかしいみたいじゃないか。
こっちはただ、ユキのことが好きなだけなのに!
ナギは声を引っくり返して喚く。
「ユキがかっこよすぎるのがいけないんじゃん! 似合いすぎだもん、それ! 見るだけで恥ずかしくなるんだって!」
「普段何倍も恥ずかしいことしてて、今さらそれ言うかよ…」
「それ言わないでよ! 俺だってちょっと気にしてたーっ‼」
「いや、どう考えても順序おかしい…」
「だって、髪が長いユキは好きになる前から見てるんだもん! その点今のユキは見慣れないから、なんだか別の人みたいでどきどきしちゃうの!」
「へー…それでオレ、一方的に避けられてたわけ? こうなったの、お前のせいなんだけど?」
「だって、言えるわけないじゃん! 髪長い時のユキのこと好きになって、さらに髪短いユキに一目惚れしたなんて! そんなこと言ったら、ユキなんて言うの⁉」
「不毛…」
「ほらー! やっぱり呆れるー!」
呆れた顔で重たい息を吐き出すユキの腕の中で、ナギは両手をじたばたと暴れさせた。
言ったらすっきりしたけど、ユキの反応を見ていると自分の意識が過剰だと思い知らされるもんだから恥ずかしい。
「まったく。」
ユキが頭を掻き回してくる。
「ナギ。創立祭が終わるまで、オレの部屋泊まれ。」
「ええっ⁉ なんで⁉」
無意識の内にそう返してしまっていた。
恥ずかしいとかじゃなくて、純粋に驚いてしまったのだ。
こう言っちゃユキに「分かっているならやめろ。」と怒られるだろうが、わりと高頻度で彼を襲っている自覚はある。ユキもそんな自分から身を守るのに必死で、最近はトモと一緒の時にしか部屋に入れてくれない。
そんなユキの口から「泊まれ。」だなんて。
ただそんな純粋な驚きから出た言葉も、今のタイミングではユキを避けたいと言ったようにしか聞こえないわけで。
「早く慣れろってこと!」
途端に表情をきつくしたユキが、不快感も露にそう怒鳴った。
「……慣れろよ。どうしたって、しばらくはこのまんまなんだからさ。お前にまで変な態度されたら……さすがにへこむだろうが…。」
ぷいっとそっぽを向くユキ。
落ち込んだその表情の中に、ちょっと不満そうな色が揺れた。
(え…)
とあることに気づき、ナギは目を丸くしてユキに見入ってしまう。
(もしかして、ユキ……拗ねてる?)
どう見てもそうだと思う。
それは初めて見る新たなユキの一面。
(何これ、可愛いんだけど⁉)
胸がきゅんと締めつけられる感覚。
ユキの顔を直視できないという恥ずかしさが、ポーンとどこかへ飛んでいってしまった。
それは反則だよ、ユキ‼
普段はいつもかっこいい態度と口調のくせに、そんな可愛い顔もできるの⁉
ちょっと幼く見える今の髪型にその拗ねた顔はだめだと思う。あまりにも似合いすぎていて、あまりにも可愛すぎる。
ナギはごくりと唾を飲み込んだ。
「泊まっていいってことは……つまり、襲ってもいいってこと…?」
というか、今すでに襲いたくてたまりません。
ナギはギラギラとした目でユキに手を伸ばすが。
「アホか。なんでそうなる。」
途端に拗ねた表情を取り下げたユキに手を払いのけられてしまった。
「ああ…」
ナギはしゅんと眉を下げる。
今の顔、もっと見ていたかったのに。
写真にでも収めておくんだった。
名残惜しむナギの前で、ふとユキが何か考え込むように口元に手をやった。
「でもそっか……そこまでできるようになれば、十分慣れたってことだよな。よし。」
「わっ…」
ナギは慌てる。
ユキが顎先を捉えて自分の顔を近づけてきたのだ。
そして彼は、互いの唇が触れそうな際どい距離でぴたりと動きを止める。
「上等じゃねぇか。襲ってみろよ。襲えるもんなら、な?」
ユキが挑むように笑った。
「~~~っ‼」
さっき一瞬で飛んでいったはずの恥ずかしさが、また一瞬の内に舞い戻ってきてしまう。
「あ、あう……」
ナギはまた顔を赤くして口をぱくぱくとさせた。
かっこいいと思ったら可愛くなって、かと思ったらまたかっこよくなって。
一体この短時間に何度どきどきさせれば気が済むのだ。
心臓がうるさい。
全身が熱い。
もう、これ以上は―――
「むっ…無理ぃぃぃっ‼」
顔を覆って視界を閉ざし、ナギはめいいっぱいそう叫んだ。