お金を稼ぐことは道具でしかないのか?
資本主義というやもすると
拝金主義になりかねない
私たちの所属し世界をおおっている文明はそういうもので
その現代文明の中で人は彷徨わないとならない
しっかりと本来の人間の在り方というものを
私たちの文明は探り切れていない
そういう不明なところからくるのだろう
また個体として考えるなら
若いころやはじめのころに考えた深さの思索レベルを
超えて行動はすることは困難なので
そこにおける時間のなさやあきらめなどいろいろな原因による
妥協によって基礎が不十分だったことでおこる彷徨なのだろう
果ては彷徨そのものを目的するようなある種の打開策に
流されたりもしてしまう
これは退廃と呼ばれている
根本は本当に大切なのだなって思う
金持ちになったけど幸せにならなかったという話は
ドラマでみる陳腐な話だろうけど現実にもある話
ただあそこまで誇張されていないのが現実
根本を問うことなければ
確かに理論的には改善される段階の深さが違ってくるのは明らか
しかしそこを突き詰めることが現実できないのも事実
理由はいくつもあるのだろうけど
そもそも問い詰めてもわからないというところもあったりする
このような悪循環があるのだけれど
問い詰めてもわからないということならまだいいが
どこかでそれをあきらめて既存の前提を採用して
すべてを作り上げていくことにもなったりするかもしれない
これが経験に依存した既成概念の檻
人はそこに閉じ込められているともいえなくはないのだろう
いつのまにかお金が必要で人としていきるための手段だったものが
目的と変化していってしまう
そういう流されはやはり根本を経験の檻で固めることでの
融通さがなくなってしまうことよるところが多いと思う
しかし哲学者の特に観念論者の中には
経験は偶然的なもので本質を知るのに向かないと
規定する輩もいるのだが
それからすると経験を前提とすると
今後の発展や本質への回帰に支障をきたす
まあよくいう出る釘は撃たれるということ
しかし普通何かの新しい経験によって
それに基づいた反省として新しい理解をすることを
認識の更新と思われてはいる。
しかしこれは結構実に軽率なことだとも言えたりする
もちろん経験によって人が違う認識を持つということ自体が悪い
ことではないがそもそも経験にだけ頼ってもいいものかという考えもある
経験は成功も失敗もあるわけで発明なら失敗を母としていいだろうけど
経験には失敗ややもすると成功すら母としては致命的なものもあったりする
例えば自殺、願望のままならいいが成功体験としてしまったら
簡単なことだが生命は終わってしまう
いや心の中に生き続けていきます、あなたの経験は無駄ではないと
いえなくはないかもしれないが何か心では納得できないと多くの人は思うだろう
そもそも自殺自体いいと思っている人の方が少なく、こういう経験は
いいとはいえないものといえる。
ほかにもいろいろな悪いとされる経験はあるのだがそれについては
善悪論という価値論の範疇になるのでここでは触れないこととする
それでは経験に頼るのが最終的な手段、またそもそも人間が依存すべきもので
ないとするなら何か非経験的な何かによって人は道を見出しもしくは将来の
ビジョンさえもいだいていかないとならないということになる
その非経験はつまり経験によっては得られない何かであるということだけは
確実に規定できるのだがそれがなんであるのかということは難しいようだけど
実は簡単に誰でもわかっていることになる
例えば人は生きて死んでいくとか人間には体だけでなくて何か目に見えない
心の部分があると考えたいという思いだとか種々あるのだが
結局のところ行き着く先は経験などにはよらないすでにある何かという
ことになる
それがなんであるのかということを探求するのが必要であるが
まず大前提として経験によらないものであってそして普遍的にもしくは
すでにあるものでないとならない
それで一番重要なのはそれは人間に認識されていないものであるということ
もし認識されていたなら既に経験されているわけだから認識にさきだった
何かであるということになる
それをカントはアプリオリなものといったのである
我々ことに日本人はそういうアプリオリなものに意識をもっとむけて
いかないと最終的に道具に使われる状態に落ちてしまいかねない危険性を
もっていたりすると思われる




