国民的という中に潜む空気読め概念
国民的とか国民のほとんどとか
そういう表現やめてほしい
それって空気読めにつながる
それは個性とか人権無視の
全体主義的な考えではないか
民主主義とはかけ離れているし
ほとんど扇動的なことが多い
ただ逆にいうと
そういう枕詞のものはすべて
偽りと簡単にわかっていいかもしれない
国民的なアイドルとかいっても
私はそんな人知らないという人が
1割は別にいるだろう
多数の人が知っていたら国民的となるのか
国民だとそれを知らないといけないのか
もしそんな義務を生じさせる言葉なら
そんな言葉は余計なお世話ではないだろうか
知らないといけないことを
多数がそうだからって強要される
つまり全体の意図をもしそこに本質的に
意味があることなら別だが
ある種の人にしか価値がないようなことであるなら
その強要はかなり全体主義的だとさえいえる
いわば空気読めよって奴
もちろんさっきもいったが
その空気が価値があることならそれは
読む必要はあるわけだ
殺人するなって空気は読むべきものだろうし
勉強しろよとかもそう
そもそもが本質なのかそれとも単にはやりなのか
そういうもので判断するのに
多数がそうだから国民的というのは
短絡意外の何物でもない
しかし結構マスコミにはそういうものが
多く含まれているし
残念ながら私たちの文化はそれに
汚染されてしまってもいるが
ただそうと惑わされないようにしようと
本質をみつめていくことは別にできること
ちょっとした心遣いで簡単にできることではある
IQや知識が必要なことではない