両方をみたすことが次元を高めるこつ
可能なら
矛盾していることの二つを
統合できるようなものを模索する
この簡単なことがある意味
先人たちの行きついた先
孔子も釈迦もイエスさえも似たようなことを言っている
両方を満たすということが実は次元を高めるこつ
きっと世界の概念が二面性をどうしても
持たざる負えないからそうなっているのだ
つまり右があれば左がある
上があれば下がある
そもそもある存在があるというのは
何か違った存在があるから存在として
認められるということもある
片方だけの立場を考えると
逆に立場はすべて否定するか
弱めないといけない
これをしていたらどちらかが
強くなって弱くなってという
何か争いばかりの状態が
続けないといけなくなる
それが人間の姿なんだと
いうことは可能ではある
しかしそれについては違う見方もあって
人間は完全な状態ではなく
罪だとか不完全な存在だとか
その状態を表現する哲学や宗教もある
何もないところから煙は立たないなら
それも人間の真実なのだろう
だとすると何か不完全で何かをしないと
いけないということを考える方が
正しい見方であろう
片方だけを主張するのはどうかというのは
そこから結論としてでてくる
ただどちらの極も極でその存在があるのだから
それはある意味ある程度極めないと
この最終目標の中道というか真ん中の道も
方向だけはわかるが
深みがないというのも事実
極に行きがちな人間の性向は実は
この深めたいという思いからくるもの
ならばどちらも極も極めようとすることを
目指すのがいいのだろう
それはどうやってなされるのか
極に染まらないで極が何を求めているのかを
みていくこと
そして最終的に統合されるべき状態において
極における疎外要因などをみていく
そういう見方だとすると
何か違ったものが見えるのだろう
だから釈迦や孔子やイエスはそういう
ことをいったのだろう