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妄想から解き放たれる詩 イン  作者: きるけ
未来
146/187

両方をみたすことが次元を高めるこつ

可能なら

矛盾していることの二つを

統合できるようなものを模索する


この簡単なことがある意味

先人たちの行きついた先


孔子も釈迦もイエスさえも似たようなことを言っている


両方を満たすということが実は次元を高めるこつ


きっと世界の概念が二面性をどうしても

持たざる負えないからそうなっているのだ


つまり右があれば左がある

上があれば下がある


そもそもある存在があるというのは

何か違った存在があるから存在として

認められるということもある


片方だけの立場を考えると

逆に立場はすべて否定するか

弱めないといけない


これをしていたらどちらかが

強くなって弱くなってという

何か争いばかりの状態が

続けないといけなくなる


それが人間の姿なんだと

いうことは可能ではある


しかしそれについては違う見方もあって

人間は完全な状態ではなく

罪だとか不完全な存在だとか

その状態を表現する哲学や宗教もある


何もないところから煙は立たないなら

それも人間の真実なのだろう


だとすると何か不完全で何かをしないと

いけないということを考える方が

正しい見方であろう


片方だけを主張するのはどうかというのは

そこから結論としてでてくる


ただどちらの極も極でその存在があるのだから

それはある意味ある程度極めないと

この最終目標の中道というか真ん中の道も

方向だけはわかるが

深みがないというのも事実


極に行きがちな人間の性向は実は

この深めたいという思いからくるもの


ならばどちらも極も極めようとすることを

目指すのがいいのだろう


それはどうやってなされるのか


極に染まらないで極が何を求めているのかを

みていくこと


そして最終的に統合されるべき状態において

極における疎外要因などをみていく

そういう見方だとすると


何か違ったものが見えるのだろう


だから釈迦や孔子やイエスはそういう

ことをいったのだろう



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