区別が苦手な文化日本
よく知られていることなんだけど
科学で扱うべきところと
そうでないところがあるんだが
それをこの国では区別されていない
区別が苦手な文化なのかも
確かに論理的というのが苦手な文化
私も人のことは言えなくかなり非論理的な部分が多いが
日本の場合は全体と個体とか、中心とそうでないとか
そういうものを概念でとらえないで
形でとらえやすい
だからよく行動をしないと何もしていないという
考えで非難されたりする
言動一致とかいう言葉が好まれているのも
その証であろう
もちろん言動一致したら悪いというわけではないが
そもそも言の部分が間違っていたら
逆に一致したらいかんということになる
その言の部分の分析が足りないというより
区別がされづらいので
集合体の意図のままいきということが
よくあることとなる
それが最悪の結果となるとある種全体主義的な
側面を持ってしまったりもする
ブラック企業とか内部告発がしづらい体質とか
癒着とかもこういう事例なのだろう
癒着に関しては個人的な欲心というものが
絡んでいるからちょっと違うだろうが
ただお互いの利益がなあなあで続くという
ことを目的とする部分が大きいので
同じ特徴が見れることになる
さてこの区別ということは
単に批判とか非難とかするということではない
そもそも何かしらの分類をしたり、原因結果を
分析して本来としては何があるのかとか
詳しく把握するということになる
もちろんそれだけだと単なる科学みたいな
統計分析になってしまうかもしれない
けれど単に空気で流れているからというより
まだ本来あるべき人間の特徴と特性にそった文化と
なる
現代の文明は科学の発展で安楽な生活環境があるため
何事も考えないでいればそれで生涯閉じることも
可能ではあるが
しかしながら結局のところ人間には何か目的とか
意義が必要であるためそれが実現されない場合は
無理くりでも似たようなものをつくってしまう
それでしょうもないことをするぐらいなら
しっかりと原因的なものを探究していくという
くせをつけて区別をしっかりするのは
重要なことだといえようか
そして区別は人間の個性というものの判別能力を
高めるためさらにいうと自分の個性の発見にもつながる
ヒントも得られるものだ
この全体主義とは相いれない個人主義的にもなりがちな
これらのものは民主主義という機能が生み出した
一種の重要なツールといえよう
それはもちろんうまく使わないと
権利だけを主張したトンでもないものにもなる
だから責任も必要なのだ
自由には責任が必要だというのは実は
相反するようで本来切っても切れないものである