第四話 清掃運動する元勇者と忍者と妖怪
「なあ和也。俺どうしたらいいんだろう」
「まあ元気出せ。まだお前の恋は始まったばかりだ。どうにでもなるよ」
ホームルーム前。
教室にて、和也はテンションが異常に低くなっている武蔵を慰めていた。
落ち込んでいる理由は昨日の事だ。
「だってよぉ……お前完璧にフラグ立ってんじゃん。女神とフラグ立ってんじゃん。同じ役職とか? 名前で呼び合ってるとか? 家が隣とか? 金持ちと貧乏の対比とか? お前どんだけ進んでんだよ……」
知れば知るほど、和也と紗和はお似合いに見えてくる。
現実は無情だ。
和也に恋愛感情はないらしいが、紗和はどうだかわからない。
紗和が和也の事を好きでも何ら不思議ではなさそうだ。
それを思うと、生きる気力がなくなっていく。
「フラグの意味はわからないけど、言いたい事はわかった。だけど武蔵が心配するような事はないと思うぞ」
放っておくと、昇天してしまいそうな忍者の肩を優しく叩く。
そして、昨日、紗和から仕入れた武蔵にとって好ましい情報を告げた。
「委員会が始まる前に聞いておいたんだ。好きなタイプは何って。どんな人が好きなのかはわからなかったけど、少なくとも俺は好みとは全然違うってさ。という事はつまり――」
目が死んでいた武蔵の瞳に僅かな光が灯る。
和也は爽やか風な好青年。
よくモテるのは絶対に和也の方。
しかし、和也は好みとは全然違うと言う。
なら。
和也とは対極の位置にいる武蔵はどうだろう。
これは大いに可能性があるのではないか。
最大の難敵である和也は消えた。
武蔵が思い込んでいただけで、和也は敵でもライバルでも何でもないのだが、とにかく強大な壁は消えた。
紗和に恋愛感情を抱いている男はいるはずだ。
あの女神のような女性を好きにならない男は滅多にいない。
それがどうした。
希望は見えてきた。
体格は筋肉質。顔はワイルド風イケメン。頭脳明晰、運動神経抜群。機械いじりも得意。
他の男どもにこれほどのスペックがあるか。いやない。
いける。勝てる。勝てる気しかしない。
「ふっふっふ。いける! いけるぞ! 和也さえいなければ俺の勝ちは確定だ!」
「そうだ! その意気だ! 武蔵ならいけるさ!」
テンションが最高潮に達する武蔵の横で、さらに盛り上げる和也。
(よし。昨日、あえて紗和ちゃんと一緒に帰ったかいがあったな)
和也はあの時、武蔵が追ってきたのを途中で気づいていた。
そして、わざと追わせていた。
見た目はガツガツしている男なのに、純情で奥手な武蔵に発破を掛けるためだ。
紗和にも勿論武蔵は売り込んでいるが、彼自身にもっと危機感を持ってほしかったのだ。
悩んでいる内に、他の男に盗られては元も子もない。
だから和也が紗和をいるところを見せて、具体的に行動をしてもらいたかったのだ。
この手の話は、言葉より行動で感情に訴えたほうが、より響く。
多少計画にズレが生じたが、結果は似たような物だ。
あとは機会を作って、紗和と武蔵の時間を増やしていけばいい。
親睦会の他にも、ちょうどいいイベントが近い内にある。
「今度の土曜日の午前に市内の清掃運動があって、紗和ちゃんも出るみたいだ。学園じゃ喋るタイミングはあまりないから、まずはここで仲良くなってみよう」
「おう! 俺はやってやる! やってやるさ!」
声を張り上げ、武蔵は気合充分だ。
いい調子だ。これなら途中で諦めたりはしないだろう。
ただ、うるさくなってきた武蔵に苛つきを覚えていた少女がいた。
「ちっ。さっさと告白すればいい物を。心臓を引きちぎるぞ」
ルーキフェル=イブリス=クルミナレッテ。
銀髪を二つ結びにした小柄な少女だ。
可愛らしい見かけに反し、異世界の魔王である。
彼女は、ある目的のために地球にやって来ている。
最近はゲームにはまっているが、目的を忘れたことなど一度もない。
「まーまー。元気があるのはいいことだよクルミちゃん!」
フリーネ=ドラゴニック。
赤毛の巨乳少女だ。
いつも元気いっぱいのドラゴンだ。
彼女の正体はクラス内と教師陣しか知らず、表向きは妖怪、山蜥蜴で通っている。
ちなみに、先ほど走って教室に突入し、花瓶を割っていた。
「ルーキフェル=イブリス=クルミナレッテだ。クルミちゃんなどと呼ばれる筋合いはない。お前はお前でうるさいぞ」
「えークルミちゃんの方が可愛いじゃーん! ねークルミちゃん」
「おい私の言葉は通じているか?」
聞く耳を持たないとはこの事。
フリーネはずっとクルミちゃんクルミちゃんと連呼する。
学園長の能力により、クルミの喋る言葉は地球語、正確には日本語に翻訳されている。
どんな不可思議パワーを使ったのかは不明だが、こちらにすぐ適応できた大きな要因だ。
クルミの順応性が高かった事もあって、日常生活に支障をきたした事はない。
それにも関わらず、このドラゴン少女にはクルミの言葉がわかっていないようだった。
もしかしたら、ドラゴン特有の言語があるのかもしれない。
きっとそうだろう。そうに決まっている。
「ほらもうじきホームルームだから静かにしようねー!」
「……そうだな」
和也と武蔵。
クルミとフリーネ。
その二組が、恋愛話からコントみたいな話をしている間、妖怪少女とはいえば。
(そうかそうかぁ。先輩は違うのかぁ。でもまだ警戒しとくべきかなぁ……まあライバルじゃなさそうだし……チャンスあるかなぁ……えへへ。へへ。えへ。ぐへへ)
表は無表情。裏は妄想にふけていた。
***
市内清掃運動当日。
いつもの広場に老若男女問わず、多くの人々が集まっていた。
およそ一五〇人。それだけの数がいるのもあって、一帯は熱気に包まれていた。
天気は快晴。夏が近いのもあり、汗を拭う光景が見られる。
「女神はどこかなーっと。全然見当たんねえな」
その暑さの中、目まぐるしく動き回っているのは武蔵だ。
お目当ての紗和を求めて、辺りを行ったり来たりだ。
学園名義で出ているため、学園指定の赤い体操服を着用している。
私服が多数を占める集団において目印になりやすく、武蔵は同じ服装の人を見かけては、確認しに行っていた。
「その内来るから、大人しく待ってなよ。他の人に迷惑だしさ」
武蔵一人では心配なので、和也も参加している。
つい一ヶ月前なら、この時間はバイト中だ。
しかし今は父が働き出し、生活面にも多少余裕ができた。
バイトの量も減ってきていて、和也が自由な時間も増えてきているのだ。
「そうだよ服部君」
便乗して言うのは楓だ。声色は明るい。
人混みは苦手だが、和也が参加するという事でついてきた。
「しょうがねーな。ちびっ子が怖がってるみたいだし、そろそろやめ――」
内面はともかくとして、武蔵は体つきがよく、金髪のオールバックだ。
純粋な子ども達を怖がらせるには十分すぎるだろう。
「――よっしゃきたあああああああああああ!」
さらに周囲の目を忘れて叫んでいるせいで、尚更怖がらせる。
武蔵が叫び、指差す方向には紗和がいた。
混雑していてわかりにくいが、友人と思われる私服の女子を連れていた。
眼鏡をかけていて、明るそうな少女に見えた。
和也達に気づくと、手を振り足早にこちらに近寄ってくる。
「おはようございます。ふふ、武蔵君は今日もお元気ですね」
「お、おっはようございます! はい今日も元気でっす!」
本人を前にすると、緊張して固まる武蔵。
気持ちはわかるが、意識しすぎである。
「おはよう紗和ちゃん。そちらはクラスの方たちかな?」
「おはようございます。いえ、別の学校に通っている友人達です。学校が違うとなかなか会えなくて、こういう機会じゃないと。もちろん清掃運動で手を抜いたりしませんよ」
「なるほど」
紗和が清掃活動に熱心に参加する理由は友人に会うため。
確かに通う学校が違っていると、話す時間にしても遊ぶ時間にしても少なくなる。
和也は後ろの友人に軽く挨拶していると、紗和がこっそりと耳打ちしてきた。
「関係者ではなく、普通の子です。余計な事は喋らないでくださいね。他の方にも伝えておいてください。もし。もしも口が滑ってしまったのなら……どうなるかわかりますね?」
「……了解」
かなりドスの利いた声で、囁く紗和。
命のやり取りが日常茶飯事な戦いをくぐり抜けてきた和也でさえ、危機感を覚えるほどだ。
うっかり口を滑らしたら、遥か上空に転移させられてパラシュート無しのスカイダイビングをさせられそうだ。
冗談ではなく、本気で。
「ふふ、そろそろ時間のようですね。皆さん行きましょうか」
「そ、そうだね」
大変な女性に、武蔵は惚れてしまったのかもしれない。
冗談ではなく、本気で。
清掃の時間はおよそ一時間。
適当な人数に別れ、街中を清掃する。
空き缶やタバコを拾い、ゴミ袋に次々と放り込んでいく。
目立たない場所だけでなく、草むらの影のゴミも拾っていった。
和也は真面目に清掃活動に励んでいるかたわら、武蔵の邪魔をしないよう、彼から遠く離れていた。
彼は今、紗和と彼女の友人と混じって清掃中だ。
一定の距離を置いているのは、せっかくのチャンスに他の男がいると気が散ると思ったからだ。
武蔵がチャンスを物にするかはさておき、和也は楓と共に地道にゴミを拾う。
「桐生君」
「なんだい?」
それが意味するところは、楓にもチャンスが訪れたという事。
学園でしょっちゅう会っても、二人きりにはそうならない。
この機に乗じて仲良くなってしまおうと楓は考えていた。
「た、太陽が眩しいね」
「そうだね。最近暑くなってきたから熱中症にも気を付けないと。ちゃんと飲み物持ってきた?」
「……うん」
だが。
どんな話をしたらいいか、検討もつかない。
好きな本の話は散々したし、他分野にも詳しくない。
会話を継続させるにしても、楓の引き出しは少なすぎた。
楓が話題に困っていると、和也が小さな声で、こっそり尋ねてきた。
「実は立花さんにお願いがあるんだ。聞いてもらっていいかな」
とても真剣な表情だ。
声にも緊張感が漂っている。
もしや、再び妖怪がよからぬ事を企んでいるのか。
なら、絶対に止めなくてはならない。
牛鬼の事件は一般人に被害はなかったが、次もうまくいく保障はない。
少しでも被害が抑えられるなら、立ち上がるべきだ。
「……なに?」
「俺の今後に関わる、とても重要な事なんだ」
どうやら、妖怪とは関係ないらしかった。
しかし、いつにない真剣さからくる威圧感は力強い。
きっととんでもない事態に和也は巻き込まれてしまったのだろう。
楓は和也に助けられた。
次は楓が助ける番だ。
そう意気込んで、楓はこう応える。
「私に出来る事なら何でも言って。絶対に助けてみせるから」
つい数週間前までの弱い少女ではなく、頼もしくなった少女がここにいた。
和也が楓を友達だからというだけで、命をかけてくれた。
楓もそれ相応の覚悟はできているのだ。
そんな楓に感動したのか、和也は笑顔で、
「ありがとう! 実は勉強を教えてもらいたくてさ。教えてくれる人を探してたんだ」
「へ?」
間の抜けた声が楓の口から飛び出す。
普段の雰囲気イケメンぶりで忘れがちだが、和也は勉強ができない子だ。
異世界での生活で、それまで勉強してきた内容は忘れてしまっている
先日行われた中間テストはぶっちぎりの最下位。
全教科平均が三〇点ギリギリだったりする。
妹の舞に頼ろうかと考えたが、すぐにその案は放棄した。
週一で料理当番をさせているし、部活も忙しくなってきている。
妹に甘い和也は、舞に負担を極力かけさせたくない。
そういったわけで、友人達の誰かに頼もうと考えていたが、異世界人のクルミに勉強を教わるのは気が引けた。
武蔵は『こうなるからこう』といったように、凡人じゃ理解不能な教え方だったので、断念。
フリーネは論外。
そうなると残るのは楓だけだったのだ。
「う、うん。別に構わないけど、どの教科を教えたらいいの?」
「全部」
あまりに堂々と言い切る和也に、言葉も出ない。
予想以上に勉強ができないようだが、これはこれで大変好ましい状況だ。
勉強を教えるために、和也を部屋に呼ぶ。
二人きりになる。
愛が芽生える。
勝利の方程式がここに成立した。
過程が色々ぶっ飛んでいるが、楓は気にしない。
(えへへ。一緒にお勉強かぁ。へへ。うまくいけば……えへ……)
頼もしくはなったが、妄想癖が加速した楓。
ある意味では、以前の方が良かったのかもしれない。
***
一方武蔵は、なかなか切っ掛けを掴めずにいた。
一人で女子二人組に突貫したはいいものの、話しかけずらい事この上ない。
一応集団の中には入れた。
紗和の友人は良い人で、紗和の仲介もあって、挙動不審な武蔵を受け入れてくれた。
名前は佐藤藍子という。
紗和と違い、とても明るい性格。
仲良くなるのに、時間はかからなかった。
しかし、ガールズトークに入り込める度量は武蔵になかった。
時折、こちらにも話題を振ってくれるが、すぐに途切れてしまう。
こんな事なら、和也を連れてくればよかった。
あのイケメンなら難なくこの中に混じっていけただろう。
武蔵の場違い感ときたら、浮いているどころではなかった。
「紗和は彼氏できたの?」
「いえ。そんな人はいませんね。残念ですが」
「紗和ならいい男なんてすぐ捕まると思うだけどなー。ほらそこの紗和の友達なんてどう? 結構いい男じゃない」
「え!? いや俺っすか!?」
突然沸いたチャンスに動揺を隠せない武蔵。
友人さんナイスと言いたいところだが、せめて心の準備をさせてからにしてもらいたかった。
なるべく感情が表情に出ないようにしながら、紗和の様子を伺う。
「私には勿体無いですよ。服部君ならもっといい女性を見つけられるでしょう」
「はは、藤堂先輩より良い人なんていませんよ。はは……」
渇いた笑みを顔に張り付ける。
どうせこんな事だろうとは思っていた。
特に接点があったわけでもないし、一度や二度会ったぐらいで好きになってもらう要素なんてなかった。
心を落ち着かせ、冷静に思考する。
(オーケーオーケー。クールになれ俺。今はまだそういう対象として見られてないって事だ。後輩の友人ポジションから這い上がるにはどうすればいいか。それだけを考えろ。まだ俺のラブロードは始まったばかりだ。いける。俺にはできるはずだ!)
まずは話しかける事。
そこから紗和との接点を見つけ出す。
当たり前の事だが、これがなかなか難しい。
だがやるしかない。
「そ、そういえば、と、藤堂先輩は普段何をして過ごしていらっしゃるんでしょうか?」
「ふふ、そんな固くならなくていいですよ。リラックスです」
リラックスできたらどんなにいいか。
紗和を前にすると、動悸が止まらない。
思考は落ち着いても、心臓の鼓動ばかりはどうしようもなかった。
「そうですね……友人達と遊んだり、本を読んだり。これといって面白い事はしていませんね」
「いえいえ! 素晴らしい日常でありますよ! はい!」
動転して、会話が成立しないよりはマシな会話だ。
藍子が後ろで、ぶつぶつ呟いているが、彼女は大体勘づいたのだろう。
武蔵の態度は露骨といえば露骨だ。
当人はわからないでも、周囲にわかる程度には。
それはともかく、冷やかしは勘弁してもらいたい。
心の底でそう思っていると、
「服部君だっけ? もっと紗和の話してあげるからさ、私達ともお話しようよ」
「もう、恥ずかしいからそういうのは……」
「いいじゃない減るものじゃないし」
藍子が武蔵にウインクをする。
どうやら武蔵の心中を察して、手伝ってくれるようだ。
まさかの救いの手に感動し、涙を流しそうになったが我慢する。
代わりに、後でジュースでも奢ろうと決意し、少年は違和感なく溶け込んでいった。
武蔵と楓、それぞれに進展があった清掃運動ももうじき終わろうとしていた。
武蔵は時間が迫ってきたので、ゴミ拾いに見切りをつける。
紗和のみならず、友人達のアドレスをゲットしてしまったのは予想外だったが、概ねうまくいったと思われる。
今回の件を和也に報告したらどうなるのだろうか。
想像以上の出来に驚くだろうか。
(まあ、今日誘ってくれたのは感謝しねえとな。あいつにもジュース奢るか)
気分がいいので、もしかしたら二本奢ってしまうかもしれない。
和也はそれだけの事をしてくれた。三本奢ってやる事にしよう。
そうして武蔵と紗和達は元いた広場へ戻ろうとすると、
「ひったくりよ! 誰か捕まえてぇ!」
武蔵の背後から、女性の悲鳴が聞こえた。
咄嗟に振り返り、身構えて、ひったくり犯を確認する。
体格がゴリラのようで、黒のジャージ。大きめのマスク。そしてハゲ。
手には奪ったと思われるバッグ。
こんな白昼堂々ひったくるだけはあり、足は早い。
「どけガキ!」
「きゃっ!」
しかも近くにいた女の子を蹴飛ばしていく。クソッタレの下衆だ。
武蔵から離れた方向に走っていくが、逃がすわけにもいかない。
それに紗和に良いところを見せるチャンスだ。
「藤堂先輩! これ持っていてください!」
「え? 服部君!?」
初めて紗和の間の抜けた声を聞いて、ちょっと嬉しくなるが、今はひったくり犯だ。
忍者として鍛え抜かれた身体能力で、一気に距離を詰めていく。
常識外の存在が周りに多いだけで、武蔵自体の身体能力は人間として最上級だ。
特撮ごっこと称し、父親にガチな兵器を使われて逃げ回っていた武蔵の肉体は伊達ではない。
本業が妖怪を狩る事もあって、いくら体格のいい男でも武蔵から逃げ切る事はまず無理だ。
あっという間にハゲに追いつき、飛び蹴りをかます。
「おらっ!」
「ぐへえ!」
見事にハゲの後頭部に蹴りがクリーンヒットし、男を転倒させた。
続けざまに、両腕を抑え拘束。
下敷きにして、二度と逃げられないようにする。
最初は抵抗していたハゲだったが、次第に抵抗も収まってくる。
最後は逃げられない事を悟り、力なく地面に顔をつけた。
紗和にひったくり犯を捕まえたと伝えようとしたが、彼女は先程の場所にいなかった。
ひったくり犯に蹴飛ばされた少女の元にいたからだ。
少女は右足の膝から出血していた。
「大丈夫ですか? 痛みます?」
彼女の行動は早く、水で濡らしていたハンカチで傷口を洗っていた。
優しく。丁寧に。
周囲への気配りも忘れない。
その姿はまさしく女神で、犯人逮捕しか頭になかった自分が恥ずかしくなった。
格好いいところを見せたい一心で、走った武蔵。
怪我をした少女は目をくれもしなかった。
勝手すぎた自分を戒める。
「いでで! 逃げねえからそんな強く抑えないでくれ!」
腹いせにひったくり犯を拘束する力を強めてしまった。
ハゲに喚かれると、耳障りにも程がある。
「大丈夫か武蔵! 紗和ちゃんも!」
ようやく駆けつけた和也が、二人の心配をする。
後ろには遅れて、楓もいた。
武蔵と距離を取りすぎたのが仇となってしまった。
「俺も藤堂先輩も無事だ。女の子が一人怪我しちまったけどな。ひったくり犯も、ほら俺の下だ」
「…………」
「どうかしたか和也?」
和也はずっと遠くにある、ビル群を見つめていた。
街でも数少ない高層ビルが並ぶ地域で、街を一望できる高さを誇っている建物だ。
正確には、ビルよりももっと前かつ、遥か上を見据えている。
「いや、誰かが見てたような気がしてさ」
「気のせいだろ。この前みたいな事があって気が立ってるだけだ。あんなのは滅多にねえよ。つうか何で見えんだよ」
「だといいんだけどね」
武蔵は冗談だと流しているが、確かに誰かがこちらを見ていた。
球体のような物が間違いなく、和也達を盗み見ていた。
とても小さく、見づらい事この上なかったが、間違いなく何かがあった。
こちらの視線に気づいたのか否か、すぐに遠くに離れていったが。
和也の超人的身体能力は五感全てが人間の比ではない。
武蔵では感じられない物も、和也なら感じられるし。見ることもできる。
牛鬼はやけに堂々と見張っていて、平和ボケもしていたから気づかなかった。
だが二度と同じ手は喰わない。
何者かが、監視している。
様々な者が集う清条ヶ峰学園。
得体の知れない学園長。
楓関連の襲撃事件。
そして謎の視線。
和也が思っているよりも、この世界は、この街は、危ないのかもしれない。




