第十話 勇者と父④
「誰からの電話だったの?」
「先生。学校に忘れ物があったから、帰ったら取りに来いって」
「ふーん」
和也と舞は、両親よりも一足早く宿に戻っていた。
家がないので、近場の宿を取ることにしていたのだ。
両親と知り合いの老人が経営している二階建ての民宿で、格安で泊めさせてもらっている。
部屋は綺麗に掃除こそされているが、人の暖かみを感じる部屋だ。
自分の手で改造したり、近所の貰い物で部屋を造ったらしく、無性に懐かしくなる。
心が安らいで、昔の家を彷彿とさせた。
「地元なのに宿に泊まるって変な話だよね」
「ほんとにな」
舞は部屋の窓を全開にして、景色を見渡した。
雲の隙間から光が落ちて、地上を照らし、僅かに残った雪を白く輝かせていた。
しばらく眺めていたかったが、やはり寒くなったのか舞が窓を閉めてしまった。
「う~寒い寒いっ」
「温かいお茶でも貰って来ようか?」
「お願いしまーす」
荷物を下ろして、部屋を出ようと襖に手をかけ――
(――何か来てるな)
和也は首筋に冷たいものを感じた。
先程まではなかった気配が、民宿に急速に接近してきている。
少なくとも人間ではない予感があった。
楠の話もあり、無視することはできない。
もしかしたら例の騒動の関係者ということもある。
耳を澄ます。
謎の存在がどのあたりから侵入するか見当がついた。
「お兄ちゃんどうかした?」
「いや何でも。すぐに戻ってくるよ」
舞は特に追及せず、兄を見送る。
和也は部屋を出て、民宿の裏手に向かった。
白く染められた木々が重なりあって、視認こそできないが、奥から何かが近づいている気配がある。
住民に危害を及ぼすようなら、ここで排除するつもりだ。
妖怪の知識は足りていないが、相手をするくらいは一人でもできる自信があった。
徐々に距離を縮めてくる存在に、警戒心を強め、自然と拳に力が宿る。
全神経を集中させ身構えていたが、いざ謎の侵入者の姿を視認すると、戦うどころか体から力が抜けてしまった。
「ムササビ?」
和也は気の抜けた声で言った。
見た目は胴体に薄く広がった膜があって、リスのような顔をした生き物だ。
形状が近い動物はイタチかムササビだろう。
しかしどちらにもない謎の羽が生えているから、妖怪とみていいだろう。
ムササビっぽい妖怪は木々を抜けた直後、和也の周りを高速で旋回した。
動きは動物そのもので、敵意は感じられない。
敵意がないなら排除する理由もなく、どう対処しようか考えていると、あることに気付いた。
(擦り傷が多いな。森の中突っ切ってたからかな)
ムササビ妖怪の体は木々で切ったような傷が各部にあった。
どうやらかなりの速度で飛んできたらしい。
「妖怪なんだろう? 喋ったりできる?」
和也は問いかけたが、妖怪は黙ってくるくると飛んでいる。
これまで意思疎通の出来る妖怪ばかりだったので、喋って当然だと思っていたのだが、そうでもないようだ。
「お兄ちゃーん! 外で何してんのー?」
二階の部屋にいた舞が窓からひょっこり顔を出した。
そしてムササビ妖怪に、釘付けとなる。
妖怪の動きに視線がつられていた。
次に中へ戻ったかと思えば、和也もびっくりの早さで下まで降りてきて、ムササビ妖怪を抱きしめた。
「可愛い!」
愛おしそうに背中をさすり、食い入るように眺めた。
可愛い物に目がない舞には、最高の姿形をしているのだろう。
妖怪は突如現れた人間にも抵抗せず、受け入れていた。
少なくとも危険性はないようなので、和也も一応安心できる。
野生の生き物であれば、それはそれで迂闊に触れすぎとは思うが、凶悪な妖怪でないだけマシなのだ。
妖怪は舞に体を預け、静かに顔を胸にうずめている。
和也とは反応が大違いだ。
男と女の差があるにしろ、こうも露骨に態度が変わるとショックだ。
初めから戦闘態勢だったのがいけないのかもしれない。
「ねえお兄ちゃん、この子トゲとかいっぱい刺さってるけどどうしたの? 傷もあるし」
「そこの森から飛び出てきたからじゃないかな。俺もびっくりしたよ」
「かわいそー。私が取ってあげるからね」
舞はムササビ妖怪を地面に横たわらせて、丁寧に一本ずつトゲを抜いた。
和也も手伝うが、ムササビ妖怪の一挙手一投足から目を離さない。
いつ何が起きても対応できるように、構えているのだ。
妖怪も和也の警戒を解かずに睨んでいる。
まるで人間のような眼光に、ただの野生動物でないことを確信した。
「こんな動物いたんだね。何年も住んでるのに気付かなかったよ」
「こういう動物は人里に下りてくるのも珍しいからな。見たことなくても当たり前だよ」
何故妖怪は今日ここに現れたのか。
舞と他愛のない話をしながら、理由を考えてみたが、あまりに棘が痛そうで、早く抜いてあげたくなってしまった。
棘が抜け終わる頃には、両親が帰ってきていて、子ども達を探していた。
「お前ら寒いのに何やっているんだ。風邪ひくぞ」
父の智也が民宿の裏手まで回ってきた。真美も一緒だ。
「あ、お父さんとお母さん。ほらこの子見てよ」
状況を簡単に説明するが、真美は話を聞いているのか聞いていないのか、妖怪ばかり見ている。
可愛いらしく、母性をくすぐるような生き物に、母の目の色が変わる。
母娘揃って、好きなモノは一緒だ。
「私も触ってみても……」
真美は手を震わせながら近づくが、うっかり尻尾を踏んでしまった。
不味いと思ったときにはもう遅い。
ムササビ妖怪は悲鳴を上げて空に跳ねた。
それどころか、
「足元には気を付けなさいよ! 私の超絶美しい尻尾が台無しになるじゃないの!」
空中に停滞したまま、甲高い声で息をするかのように捲くし立てた。
ムササビ妖怪は言語を理解し、喋ることができたのだ。
常識から外れた現実を前に、三人とも彫像みたく固まってしまい、言葉を発することさえできない。
正常な思考を保てていたのは和也だけだった。
「喋るな馬鹿!」
珍しく言葉に怒りを乗せていた。
和也は尻尾を掴んで空から引きずりおろし、両腕で抱きしめて逃げないようにした。
しかしそれでもムササビ妖怪の口は止まらなかった。
「同類だからって気安く触れるんじゃないわよ! 噛むわよ!」
慌てて口を抑えるが、何もかも手遅れだった。
三人とも和也を見つめ、舞が言った。
「同類って、なんのこと?」