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ミヌシロ ―白糸の祈り―  作者: 地味紅葉
三章・祈織編
18/18

「前日譚」― 影のうつろい

 井戸を覗き込むと、午後の白が水面に張り付いたまま剥がれない。

 声を落としても、水底はそれを抱え込み、“かたち”を返してくれなかった。

 届かなかった音の気配だけが、縁に触れた指へ薄く残る。


 釣瓶(つるべ)を沈めると、水が遅れて応える。

 縄を伝う重みが腕へ食い込み、掌の内側に湿りを置いていく。

 その湿りはすぐには消えず、皮膚の裏でぬるく広がった。


 汲み上げた水は冷えきっていない。

 それでも指先だけがわずかに白み、温度の縁が曖昧になる。


 桶を戻すと、縄の擦れる音が短く鳴った。

 その音が途切れるより先に、足が土を踏む。


 止まった水から、流れるほうへ――



 川は浅く光り、風を抱いて細かくほどけている。

 同じ水のはずなのに、掬う前に流れていく。

 流れは止まらず、どこへともなく続いていた。


 膝を折り、白を広げる。

 布は風を含み、ひと呼吸おいてから重みを返す。

 糸に触れると、弱い張りが指へ沈み、そのまま留まる。


 指先を水へ浸す。

 冷たさではなく、奥へ入り込む感覚。

 骨の隙間に細いものが差し込まれ、すぐには抜けない。


 ――背後の砂利が小さく鳴った。


「だーれだ?」


 光が閉じ、川音がひときわ近くなる。

 触れた温度が、まぶたの裏へ静かに落ちる。

 浅くなっていた呼吸が、ゆっくり底へ届く。


(なぎ)


 声にした音が、掌の内側でやわらぐ。

 そのやわらぎが、胸の奥でほのかに残る。


「また、ここにいたんだ?」


「うん」


 掌が離れ、光が戻る。

 水面に遅れて波紋が立つ。


 布の端をつまむ。

 指に移った湿りが、ひとすじとなって落ちていく。

 落ちた滴が、足もとの光をわずかに崩した。


「何かあった?」


 答えようとした言葉が、喉の奥で形を持つ。

 けれど、重みだけを残して溶け込んだ。


「ううん……」


 小さく首を振ると、髪の先が風に触れる。

 流れに溶けるような音だけが、微かに響く。


「わたしには、何もなかったの」


 触れたはずのところより、

 触れなかったところばかりが広がっていく。


 凪は一度だけ瞬きをし、流れの先へ視線をやる。


「あんたがこの川に落ちちゃった時のこと、覚えてる?」


 その言葉で、指先に残っていた湿りが深く沈んだ。

 いま触れている水とは別の冷えが、ゆっくり底から浮かび上がる。


「……冷たかった」


 足を取られた瞬間、川音が耳の奥で広がった。

 水が袖へ入り込み、腕の内側を這い上がる。


 息を吸うたび、胸の裏へ冷えが張りついた。


「あの時……あたしのほうが泣いてた」


 流れの中で、腕を強く引かれる。

 濡れた指に別の温度が触れ、そのまま離れない。


「凪の手、痛いくらい掴んでたね」


 冷えた水の中で、その温度だけがはっきりしていた。

 離せばほどけてしまいそうで、指が勝手に絡みつく。


 骨が軋むほど握っていたのに、凪は何も言わなかった。


「帰り道はふたりとも黙ってさ。

 濡れたまま土間に立たされたっけ……」


 袖の重みが腕を引き、足裏へ冷えが戻ってくる。

 並んだ呼吸だけが、そこに残っていた。

 いま触れている水は、あの時ほど鋭くない。


 水面に落ちた空の“琥珀”が微かに歪み、

 その輪郭だけが、瞳の奥に重なっている。


 凪は流れの向こうへ視線を置いたまま、しばらく口を開かなかった。


 浅瀬を渡る水は砂を透かし、石に触れるところだけ白く裂け、すぐに隣で縫い合わされる。

 引ききらなかった水が、岸の土を暗く染め、鈍い色を沈めていた。


「なんか、今の澪……ちょっと遠いな」


 言葉は、水面をかすめて落ちていった。

 その震えが石の影をわずかに揺らし、呼吸の深さを揃える――


 膝に広げていた白の端をつまむ。

 指先の湿りがまだ抜けず、糸の目に触れるたび、繊維の奥へ迷い込む。


 足もとの水底で、小さな影がひとつ弾けた。

 小魚が石のあいだをすり抜け、銀の光だけを残して砂へ紛れる。


 水は浅いまま、底の色を映している。

 石に遮られた流れが細く散り、水草の葉を撫でながらまた集まる。

 ちぎれた葉が一枚、水面に張りつきながら下っていった。


「でも――」


 凪がわずかに体を寄せる。

 その気配で袖口の空気が押し出され、布の端が微かに揺れた。


「あたしは、ちゃんとあんたを見てる」


 音は水に触れ、水紋をひとつ生む。

 円い波紋が静かにひらき、水の層が重なる。


「凪……」


 名を呼ぶと、水面のざわめきがふっと静まる。

 波が失せたあとも、指先で押さえた白の感触だけが残った。


 流れていったはずの水の気配が、

 岸の土に残った暗がりみたいに、“触れたもの”を曇らせていた。



 川を離れると、流れが背中の奥へ退いていく。

 触れていた水の響きは、歩くたび空気の中へ散り、村へ続く道の匂いに紛れていった。


 抱えた白布が、腕のあいだでわずかに息づく。

 川辺の風を含んだ繊維は、村の空気に触れては形を変え、小さな重みを置いていく。


 道端の草が風に撫でられ、葉先の露が光を引き延ばした。

 落ちきらない雫は葉の縁へ戻り、そこだけが淡い影を帯びる。

 視線を外しても、その暗さがまぶたの裏に残った。


 軒先から落ちた水が、土の上に小さな円をつくっていた。


「今日もご苦労さまです、白羽(しらは)様」


 ――声が届く。


 やわらかな響きだった。

 けれど耳に触れた瞬間、呼吸がわずかに噛み合わなくなる。


 歩いていた流れが、そこでひとつ滞る。


 白布の端が風を受け、影の上で小さく膨らんだ。

 光を拾った白は一瞬だけ明るくなり、すぐに土の色へ沈む。


「ほら、行こっ」


 軽い声が道の先へ弾む。


 肩のあたりで空気がほどけ、

 その明るさだけが遅れて触れる。


 足を進めると、乾いた土が粒ごと崩れ、

 耳の奥に残っていた音が薄れていく。


 井戸端の桶に水が残っていた。

 揺れているわけでもないのに、光が水面を歪めている。

 動かない影がひとすじ沈み、水の底を曇らせた。


 澄んでいるはずの水ほど、底の“影”だけは消えない。


「今日は、ありがとう……」


 村の角で足が止まる。

 言葉は低く落ち、空気の底へ静かに潜る。


 すぐ近くで、くすりと息がほどけた。

 川で聞いたときと同じ調子なのに、響きだけが乾いている。


「まったく、他人行儀なんだからー」


「……ごめん」


 抱え直した白布の端で、糸が小さく擦れる。


「あのね、凪」

「なに?」


 返ってきた声が、思っていたより近い。

 その近さに触れた呼吸だけが、行き場を失う。


「ううん……明日、またあの場所で待ってる」


「うんっ、じゃあ――」


 明るい声が道の先へ転がり、

 土の匂いに混ざって消えていく。


「澪」


 呼ばれた音が、空気の上で散っていく。

 抱えていた白布の糸が、指のあいだで微かに軋む。


 “呼び名”だけが、水底に沈んで目を覚ます。


「また明日ね」


 風が通り、軒の影が道の上で形を変える。

 胸の奥にはまだ、さっきの音が淡く漂っていた。



 朝の光が、水面の上で薄くひらく。

 井戸で見た白と同じ明るさが、わたしの内側に沈みきらず、浅いところで層をつくる。


 抱えた白布は軽い。

 それでも繊維の奥に、乾かなかったものが微かに残り、指をなぞるたびに浮かび上がる。


 踏みしめた土の硬さが、少し遅れて足裏に触れる。

 足を離したあとで、地面があったことを思い出す。


 道の先に揺らぎが見えた。

 まだ届かない距離なのに、呼吸だけが先に整い、曇りかけた水面が澄んでいく。


 空気に混じった、水の匂い。

 張っていたところが自然に緩み、ひらいた奥へ入り込む。

 触れるより先に、わたしのほうが迎えている。


 ――けれど。


 すぐそばを通る気配が、沈む手前でわずかに逸れる。

 指をかすめた温度と一緒に、掬えないまま流れていった。

 行き場をなくした波だけが、同じ縁に触れては砕けていく。


「……凪?」


 呼んだ音が水面でうねる。

 輪の気配だけが崩れて、形にならない。


 わたしの声だけが、水面に浮かんだ泡のようにすぐ割れた。


「おはようございます、白羽様」


 音が届く。


「あっ……」


 表面だけをなぞり、続く言葉を手放した。


 同じ高さ。

 同じやわらぎ。


 ――それでも。


 沈まないまま、浅い縁に触れていた。

 満ちる手前で触れられず、受け入れるためにあけた深さに落ちてこない。


 気配が遠ざかる。

 空は明るいのに、足もとだけが曇り、

 水たまりの境目みたいに滲んでいた。

 

 追おうとした感覚だけが遅れて残り、

 どこにも結べないまま空を掴む。


 白布の繊維に、やわらかい湿りが移る。

 頬に触れた覚えのないものが、“色”を忘れて沁みていく。

 

 外側は乾いたまま、奥の一層だけが静かに濡れた。



 戸を閉めると、外の明るさがそこで途切れる。

 障子の桟に沿って影が落ち、光は紙を透かして滲んでいた。

 切り分けられたはずの内と外が、どちらにも寄らずに漂っている。

 

 畳に腰を下ろす。

 衣擦れが小さく鳴って、すぐに止む。

 

 絡んだ指の圧。

 並んでいた息遣い。

 呼ばれたときの、あの音の高さ。


 辿ろうとすると、触れた先からほつれてしまう。

 行き先は覚えているのに、結び目だけが見当たらない。


「あの人……」


 呼びかけた音が、唇のあいだで薄く濡れる。

 口の内側へひとすじ残り、舌の根に冷えを置いていった。

 掬えそうだったものが、指を閉じる前に抜けていく。

 

 ――誰、だっけ……


 落ちた音は波紋にならず、ただ冷たさだけが伝う。

 手のひらには濡れたあとの気配が残って、触れていたはずの形は返ってこない。


 まぶたを落とす。

 暗くなるより先に、境目のほうが失われていく。

 触れていた輪郭がゆるみ、内と外の区切りが消えていた。


 白が、満ちる――


 拒む間もなく、胸の底へ入り込む。

 その広がりのなかへ、気配がひとつ差す。

 水面へ落ちた光が、遅れて底へ届くように。


 手を伸ばす。


 けれど、最後のひと粒だけが落ちてこない。

 雨のあと、葉先に残った雫が留まるみたいに、距離が埋まらない。


 触れたとは言えないほどの近さ。

 離れているとも言えないほどの浅さ。


 押し当てても、重ねても、その一点だけが合わない。

 隙間の暗がりを覆うように、“白”が重なる。


 ひらいていた白が一段深くなる。

 足もとも、息の置き場もなくなって、ただ沈む前の静けさだけが続いていく。



 気づくと、畳の上へ横になっていた。

 障子の向こうの光は傾き、桟の影が細く伸びている。


 起き上がると、袖が畳をかすめる。

 その擦れる音で、身体の重さが遅れて戻る。


 文机の前へ寄る。

 白い紙は、何も知らない顔でひらかれていた。

 障子から透けた明るさを受け止め、冷えた水面のように動かない。


 筆を取る。

 穂先に含んだ黒が、かすかに重い。

 紙に触れる。


 黒は、滲まなかった。


 広がるでもなく、沈むでもなく、

 触れたところにそのまま留まる。


 埋まらなかった隙間が、黒になって現れる。

 穂先が進むたび、白は黙って受け入れる。

 拒まないかわりに、何も返さない。

 

 もう一度、穂先が落ちる。


 ――八月十一日。

  夢を見た。

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