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ミヌシロ ―白糸の祈り―  作者: 地味紅葉
三章・祈織編
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「前日譚」― 空の手前

 朝は、戸の隙間をすべる風の音ではじまる。

 障子の紙をわずかに押し、畳の上を撫で、わたしの呼吸の在り処を探るように巡って、外へ抜けていく。

 起き上がる前に、風だけが先に朝をほどいている。


 胸の奥がひとつ鳴る。

 遅れて息が追いつく。


 敷布が擦れ、乾いた繊維が皮膚をかすめる。

 指で端を引くと、ずれた線が爪の裏に引っかかった。


 角を合わせ、布の重なりをなぞる。

 呼吸に合わせて押さえると、線は静かに揃っていく。

 整ったあとの沈黙だけが、わたしを落ち着かせる。


 冷えた土間の湿りが足裏に絡む。


 (かまど)の灰はまだぬるく、昨夜の熱を薄く抱えている。

 柄杓は水に半分沈み、柄の先だけが乾いた空気で白んでいた。

 

 舌の先まで上がった“呼び名”は、音になる前に消えていく。

 床板の冷えだけが、返事の代わりに残っていた。

 

 外へ出ると、夏の匂いが胸へ入り込む。

 家並みの上には白が滲み、視界の底を塗り替えていく。

 縁に生まれた影だけが、淡く地面へ落ちている。


「おはようございます、白羽(しらは)様」


 “呼び名”だけが、風より先に届く。


 振り向く前に、背中へ影が落ちる。

 白が陽を跳ね返し、その光の縁が肩に触れる。

 影は細く引き延ばされ、道の先まで続いていた。


 その長さが、呼吸の深さを揃える――


 それでも、白の集まるほうへと向かってしまう。

 わたしの足もとから、そっとはみ出した影と一緒に。



 土手へ向かう道は、村の白からわずかに外れている。

 布の気配が背中へ退き、草と土の匂いが混じりだす。

 張っていたものが、ひとすじだけ緩む。


 足を止めると、空が近い。

 視界を塞いでいたものが消えただけで、重さの行き場が変わった。


 腰を下ろし、膝に白を広げる。

 川面を渡ってきた空気でふくらみ、すぐに自分の重さを思い出したみたいに沈んでいく。

 生きものが胸を張り、何事もなかったふりをして戻る仕草に似ていた。


 針で布の目を探し、潜らせ、引く。

 張りすぎれば繊維が小さく拒み、緩めば光が途切れる。

 知っているのは瞳ではなく、皮膚の内側に沈む感覚。


 風が渡り、布の端が持ち上がる。

 糸だった頃の“記憶”が、ひと呼吸ぶんだけ蘇る。

 そのとき、草の影が跳ねた。


 ──蝶だった。


 陽を裂くように舞い、低く滑って逃げていく。

 追う足音が弾み、男の子の腕が空を掴む。


 最初から、空を奪われることを疑っていない羽ばたき。


 見送っているうちに、針先が白から逸れていた。

 糸は風に攫われ、布の外へ伸びようとする。

 慌てて引き戻すと、繊維の奥で震えが残る。


「捕まえちゃだめ──」


 息を整えるより先に声が出る。


 男の子が振り向く。

 蝶とわたしを交互に見る瞳。

 眉の端には不満の影。


「どうしてー?」


「えっ……」


 風が、ひと息ぶんだけ向きを変えた。

 内側に溜めていたものまで、そちらへ引かれるように。


「……自由に、飛ばせてあげてほしいの」


 言葉が出たあと、胸の奥で糸が細く引かれる。

 理由を探すより先に、指先が針を握り直す。

 皮膚の裏だけが、前から知っていたように静まる。


 男の子は膝の上の白を覗き込み、口を尖らせた。


「お姉ちゃん、またそれ」


 細い指が布を指す。


「いつも織ってるね。

 つまんなくないの?」


 白の重みが、腕の骨まで沈む。


 針を持ち直し、潜らせ、引く。

 布は何事もなかった顔で、糸を迎えていた。


「……ううん」


 張りは静かで、指先のほうが先に答えている。


「今は……こうしてないと、落ち着かないの」


 声は言葉の途中で細くなる。

 針だけが均衡を保つ。

 触れればほどけてしまいそうで。


「ふーん」


 男の子は首を傾げる。

 踵が小さく浮いて、影が揺れた。


「じゃあさ。

 ぼくも手伝ってあげようか」


「ありがとう」


 唇の端だけをほどいて、首をわずかに振る。


「でも……これはきっと。

 ひとりでやらなきゃ、だめなの」


 針先に目を落とす。

 白の奥には、まだ朝の気配が眠っていた。

 起こしてしまえば、糸の張りが変わる。

 そんな気がして、息まで浅くなっていく。


「大切な……お役目だから」


 その言葉は、布の上に置かれても沈まなかった。

 重さは音になる前にほどけて、繊維の内側へ吸い込まれる。

 本当の名は、もっと深いところで絡んだままだ。


 男の子は首を傾げたまま、蝶のほうへ視線を投げた。

 追いかける背中は軽く、風のほうへ傾いている。

 分からないままでいられる形……


 それが、少しまぶしい。


「ね」


 針を置いて立ち上がる。

 膝に残った布を風へ返すと、糸が短く息をした。


「別の虫。

 見せてあげる」


「ほんと?」


 草を踏み替える音が小さく鳴って、風がこちらへ傾いた。



 土手の草は、踏み替えるたびに音を変える。

 乾いたところは紙みたいに鳴って、湿ったところは足裏の奥へ小さく沈む。


 男の子の足音は軽く、わたしの歩幅より半拍だけ先にある。

 蝶を追うときと同じ速さ――けれど今は、わたしの影の端をなぞるように行ったり来たりしていた。


 木陰は、土の匂いを溜めていた。

 葉裏に残った夜の湿りがほどけきらず、枝の影が地面に薄い網目を作り出す。

 そこに入ると、世界の白が静かになる。


 根元に置いていた籠を引き寄せる。


 籠の内側から立ちのぼるのは、葉の匂い。

 刻まれた夏の青さが、折り畳まれて眠っている匂い。

 息が触れると、内側にかかっていた張りがひとつほどける。


 白の前ではうまくできない呼吸が、ここでは形を思い出す。


「ほら」


 蓋をずらすと、籠の中の“白”が、ゆっくり息をした。

 男の子が身を乗り出し、陽をそのまま写したみたいな丸い瞳が、籠の底まで落ちていく。


「これも、ちょうちょ?」


「……似てるけど、ちがう虫」


 言い終えたはずの音が口の内側に戻ってきて、舌の根に薄く貼りついた。

 言葉はいつも、布より先に乾いていく。


「この子は、飛べないの」


 籠の縁を指でなぞる。

 竹のざらつきが、皮膚の内側に小さな棘を残す。

 棘は痛みじゃなくて、“ここにいる”ことを確かめるための印。


「でも、はねがついてるよ?」


 男の子は、籠の中の白い背に指を寄せた。

 触れない距離で、指先だけが空を探るみたいに揺れる。


「……ここには、空がないから」


 それは頭の上にあるのに、視線は自然に下へと落ちていく。

 きっと――わたしの中にだけ、届かない場所があるからだ。

 生まれる前に切り取られた“明日”と一緒に、地面の下で眠っている。


 籠の底で、白いものがゆっくり体をくねらせた。


「動いてる」


「うん。ちゃんと、生きてる」


 指を近づける。

 籠の底の白が、葉の影を押し返すみたいに背を丸めた。

 糸の端を探すときみたいに、指先が勝手に熱を覚える。

 皮膚の裏を流れる温度さえ、手放してしまいそうだった。


 ふいに、光が揺れた。

 

 追いかけられていた影のつづき。

 (はね)は陽を拾い、宙でひとつ跳ねる。

 落ちた影が、籠の中の白へ重なった。


 丸めた背に影が貼りつき、瞬きのあいだにほどけてしまう。

 影は空へと羽ばたき、白は地面の底へと還っていく。

 どちらも同じ線を描いているのに、行き先だけが違っている。


 気づくより先に、腕が自分を抱いていた。

 背中から内側へ、細いものが絡みつく。

 抱えたものが、逃げないように――


「お姉ちゃん、寒いの?」


「ううん、なんでもないの……」


 声の端に細い繊維が絡み、引けば引くほど締まっていく。

 ほどこうとすればするほど、余計に締まる結び目。


 男の子の視線がひらりと揺れ、陽を裂く影を追う。

 踵が地面を忘れ、足裏が一瞬、空を踏む。

 草の穂が擦れ、緑の匂いが低くはじける。


 それを見送るあいだ、顔がわずかに持ち上がる。

 視線は、空の手前で静かに落ちた。


 袖口を指でつまんで、布の厚みを確かめる。

 指先に残るのは、乾ききらない熱だった。


 熱は、触れたことへの証みたいに、ここにいないものまで引き寄せる。


 草の匂いが退き、糸の乾きが寄ってくる。

 目を探し、潜らせ、引く。

 白が形を持つたび、黒い(おり)が沈む。


 音もなく重さだけが増え、吐く息がわずかに浅くなる。

 布は何も言わずに受け入れ、針先だけが迷いの分だけ鈍る。


 ふいに、その鈍りをほどく手つきがよぎる。


 急がないのに、躊躇わない。

 白が奥へ消えても、帰り道だけは手放さない。

 張りすぎれば拒まれ、緩めば途切れる――その境目だけを確かめるように呼吸している。


 言葉より先に、皮膚が覚えている動きだった。

 それが母だった人の手だと気づくまでに、ほんの一拍遅れる。


『白はね、汚れがない色じゃないのよ』


 声は背中の内側から滲んだ。

 黒い澱を撫で、その上へそっと白を重ねるみたいに。


『汚れを全部、引き受けたあとに残る色なの』


 言葉のあと、風の湿りを確かめるように息を動かす。

 草の先で折れた空気が糸を撫で、布の端を持ち上げ、静かに降りる。


 黒いものが消えるのではなく、上から白が重なる。

 輪郭だけが静まり、重さは深いところへ沈む。


 空を見なくなったのは、いつからだろう。


 空を仰ぐと、わたしを留めている縁が、ひとすじほどける。

 そのほころびを指先で押し戻すみたいに、白へ視線を縫い留める。

 ずれたところを揃え直すのが、いつもわたしの“役目”だった。


 揃えてしまえば白は同じ高さで並び、影は同じ場所へ落ちる。

 そうしていれば、外へはみ出さずにいられるから。


 空は軽くひらけているのに、わたしの肩は“ひらかない”。

 見てみたい……と、触れない高さを目でなぞる。


 布でも白でもない場所を。

 手の届かない高さを。

 わたしの羽で。

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