第7章
「君のその力で、人類を救ってみるつもりはないかい?」
そう提案したのは、村井準教授だった。ただ彼女の言葉を真正面から受け止められるようになったのは、蛇の姿をした『夜魔』に家族を殺されてから……新堂が『ウロボロスの牙』を手に入れてから、三年が経過した頃だった。それまでの彼は、『夜魔』と遭遇し、自らに降りかかった悲劇に対する虚脱感が大きく、まるで魂が抜けたような状態のまま過ごしていたのだ。
唐突に身寄りを亡くした新堂は、その三年間をあまり覚えていない。一度は地方に住む親戚の家に引き取られる話も出たらしい。しかしどういう経緯を経たのかは知らないが、当時新堂の父親の助手をしていた村井由紀の元で暮らすことになった。
とはいっても、三年間のほとんどが軟禁状態だったようなものだ。
村井研究室に隣接する倉庫に放り込まれた新堂は、そのまま放置だった。
もちろん鍵が掛かっていたわけでもなければ、倉庫から出ちゃいけないと脅されていたわけでもない。倉庫といっても、人一人が生活するに足る最低限の物資は揃えてくれたし、毎日三食、ファーストフードのテイクアウトや、コンビニ弁当も買い与えてくれた。
外身としては、何不自由ない生活。しかし魂は、視えない鎖で雁字搦めにされていた。
日々を早回ししたビデオテープのように送っていた新堂だったが、一つだけ、耳にタコができるくらいに聞き慣れた言葉があった。
それは村井準教授の声で、一日に一回、必ず新堂に問い掛けていた言葉だった。
「準備はできたかい?」
最初はまったく意味が分からなかった。何の準備なのか。どこかへ行くのか、もしくは誰かを迎えるのか。何をすればいいのか、何もしなくてもいいのか。
意味を捉えられない幼い新堂は、いつも首を横に振るだけだった。
「準備、できてない」
「そうか」
短く答えた準教授が重々しく頷くと、そのやり取りはそこで終わった。
それが約三年、続いた。約三年もの間、新堂は準備を続けていた。
そしてその日――新堂が生まれ変わった日もまた、準教授が訊ねていた。
「新堂君、準備はできたかい?」
答えは、無い。布団の上で上半身だけ起こし、まるでマネキンのようにじっと前を見つめるのみだった。なのに準教授は待ち続ける。新堂の答えを、準備ができていないという返答をその耳に聞くまで、ずっと側を離れなかった。
しかしその日の答えは、まったく違うものだった。
「ねぇ、先生」
新堂が問い返したのだ。
壁を見つめたまま、唇だけを動かし、蚊が鳴くほど小さな声で紡ぐ。
「ん、なんだい?」
「ボクは――俺は何をしたらいいのかな?」
「君のしたいようにすればいい」
気持ちが、現る。眠っていた感情が、表面へと浮上する。
心の高揚が、全身に力を込めた。だがしかし、腕がまったく動かない。感覚の薄い指先は、掛け布団の表面に皺を作るだけだった。
新堂の視線が自らの両腕に落ちる。それは自分の腕ではなかった。作り物だった。
彼は強く、強く歯ぎしりをする。
「殺し……たい」
唸り声とともに出た言葉は、穏やかなものではなかった。
さらに新堂は、己の感情を、ここには居ぬ仇へとぶつける。
「殺す。俺の腕を……家族を殺した奴を殺す。絶対に殺す。どんな手を使ってでも、どれだけ時間が掛かろうとも、必ず殺してやる。この手で捻り潰してやる!」
「なら――」
傍らでじっと聞いていた準教授が、唐突に新堂の宣言に割って入った。
喜びも憂いも悲しみも無い、普段通りの口調で、彼女は新堂に道を与えた。
「君が得た力を教えよう。それで何を為すかは君の自由だ。私としては、できれば人類のためにその力を行使してほしいところだけどね」
そうして失った新堂の時間が、再び動き出す。
復讐という『闇』を背負いながら。