第8章
「ぐわああぁぁ、眠ぃ…………」
オフィスチェアに深く埋もれ、全身の体重を背もたれに預けてのけ反った新堂が、苦しそうに呻いた。そんな彼を呆れた眼差しで一瞥した村井準教授が、注意を喚起する。
「光太郎君。左手の菓子パンはともかく、右手のコーヒーはどこかに置いておかないと、後々後悔することになるよ」
「んなヘマするかっつーの……てか、もう零れてるし!」
慌ててコーヒーカップを机に置いた新堂は、大量のティッシュをむしり取って、右手を染める茶色い液体を拭いとった。もうもうと湯気が立つ温度ではあるが、義手である新堂はまったく温度を感じない。火傷しないことは幸いだが、目で見るまで零したことに気づかないのは難だ。
朝。村井研究室にて、準教授が淹れたコーヒーと共に朝食を摂っている最中だった。
多くの書類が散乱した机の前で、自分のコーヒーを啜る準教授が、世間話のように新堂に訊く。
「眠いって、いつものことじゃないか。昨日は何時に帰ってきたんだい?」
「いっや、わかんねえ。気づいたら、東の空が明るかったと思う」
「つまり朝帰りか。君はまだ高校生なんだから、ちゃんと眠らないと、成長の妨げになるよ」
「っせーな。睡眠は授業中にちゃんと摂ってるよ」
「一応教育者の私としては、叱るべきところなんだろうけどね」
半笑いで口元を歪めた準教授が、ゆったりとした動作で必要な書類を集め始めた。今日は木曜日だから、一時限目の講義があるのか。と、寝惚け頭で何となく思い出した新堂は、手にしている菓子パンを早々に平らげる。
「君に力の使い方を教えた私が言うのもなんだけど、あまり無茶はいけないよ」
「だから大丈夫だって、何度も言ってるだろ。並みの『夜魔』じゃ、俺に傷一つ付けられやしない」
「いや、そっちじゃない」
訝しげに首を傾げた新堂が、半眼で準教授を睨む。彼女は自分の目尻辺りを指で触れ、新堂に示した。
「君の目の隈、以前よりもひどくなってる。成長の妨げどころか、このままだと健康にも影響が出てくるよ。それに陽が昇るまでパトロールしていたのなんて、初めてのことなんじゃないかい? 以前は人が出歩かない時間になったら、潔く帰っていただろう。何か、ストレスを『夜魔』にぶつけたくなるほどの、嫌なことでもあったかい?」
「…………別に」
素っ気なく答えただけで、新堂は視線を逸らした。
村井準教授もまたそれ以上の追及はせず、やれやれと首を振っただけで黙る。
微妙な空気のまま刻々と時間は過ぎ、新堂が登校する時刻となった。彼は無言のまま自室である倉庫に戻り、学生服に着替えて鞄を持ちだした。
挨拶もないまま研究室を出ていこうとすると、その背中を準教授が呼びとめる。
「あっと、しまった。光太郎君。ちょっと待ってくれ。頼みたいことがあるんだ」
「ああん?」
面倒くさそうに顔を歪めたものの、ちゃんと律義に待つ新堂だった。
懐から茶色い封筒を取り出した準教授が、それを彼に渡す。
「それを矢野君に渡してくれないか?」
「えー……」
心底嫌そうな顔に変化した。あまりの不愉快そうな顔に、彼のそういった表情を見慣れている準教授でさえも、少しだけうろたえてしまう。
「なんだよ、これ」
「手紙だよ。昨日、説明しきれなかった事があったからね。まあ、また光太郎君が彼女を連れて来てくれるなら、渡す必要はないけど」
「チッ、分かったよ。渡せばいいんだろ、渡せば」
手紙を渡すことと、再び美代子を連れてくることを天秤にかけ、前者の方が安易で疲労が少ないと判断したのだろう。準教授から手渡された手紙を、新堂は乱暴に鞄の中へと突っ込んだ。
用事が済んだことで新堂は再び扉に手を掛けるが、今度は彼の方が思い出したように、準教授に問う。
「昨日と言えば、先生。蜉蝣って奴のことなんだけど……」
「蜉蝣?」
訝しげに眉を寄せた準教授の反応に、新堂もまた、不思議に思う。ここの『AND』メンバーで、つまり準教授とも面識があるような言い方だったが……。
「蜉蝣っていうと、もしかして日向井君のことかい?」
「日向井? あいつ、日向井蜉蝣っていうのか?」
「違う違う。蜉蝣っていうのは、あの子の能力名のことさ。君がウロボロス……つまり蛇をその腕に宿しているようにね。けどまあ、あの子が自らを蜉蝣と名乗ったんだから、そう呼んであげた方がいいんじゃないかな?」
「はぁ……」
まったく不可解なことをする奴だな、と新堂は思った。
他人から自分を蜉蝣と呼ばせるということは、新堂にとっては蛇と言わせるのと同じことだ。……正直、どういう意図があるのか理解ができない。
「前々からあの子のことは知っていたけど、私の『AND』に所属することが決まったのはつい最近さ。まさか中学生以下に、『夜魔』を狩らせるなんて危険なことはさせたくなかったからね」
「ん……ちょっと待て。ってことは、あいつって……今、いくつなんだ?」
「今年土筆大学付属高校に入学したんだよ。君の一つ下で、今は十五歳だ」
「一つ下なだけかよ!」
新堂は、昨日会ったばかりの蜉蝣の容姿を思い出してみる。アレは正直、小学生に混じっても違和感がないほどに幼い風貌だったが……。
「昨日会ったのかい? なかなか可愛いらしい子だっただろう?」
「あぁ、無駄に元気そうな奴だったよ」
そしてとても風変わりな奴だった。
表に『闇』を感じさせない、あの振る舞い、あの笑顔。過去に『夜魔』と接触したことがある人間は、例外なく心のどこかに『闇』が生じる。それは恐怖だったり、他者への疑心暗鬼だったり、復讐心だったり。植え付けられる『闇』の大きさは、個人の体験によって大なり小なり差はあるものの、『夜魔』の影響は必ずどこかで出てくるものだ。
だからこそ、美代子と二度目に会った時には、多少なりとも驚いた。昨夜『夜魔』と遭遇した人間が、たった一晩でこうも日常生活に支障もないくらいに回復できるものなのかと。ただそれも、美代子が自分とはまったく正反対の属性……つまり『夜魔』とはもっとも縁遠い属性の持ち主であるという村井準教授の説明を耳にし、大まかに理解はできた。美代子の中に輝く『光』が、『闇』そのものである『夜魔』の影響を緩和させたのだろう、と。
だが蜉蝣は違う。なんというか……奴の中からは、『光』というものがまったく感じ取れなかった。まるで過去に受けたトラウマを、自分の中に巣食うさらに色濃い『闇』で覆い隠しているような、矛盾した心底を垣間見れた気がしたのだ。
すなわち、過去に『夜魔』に襲われた経験が無いにもかかわらず、『夜魔』によるトラウマに恐怖しているという矛盾。
「…………」
意味不明な己の思考に、軽く頭痛がした。今まで巡らせた考えをリセットするように、新堂は首を横に振った。
「それで、日向井君がどうしたんだい? 君にも挨拶しろというのは、一応私の指示だが」
「いや……別に、なんでもない」
「なら早く学校に行きたまえ。遅刻するぞ。私もそろそろ、講義室に向かわなくてはならない」
促されるまま、新堂は研究室から退室した。
ただ、その足取りは逡巡したように重い。自分にもあるように、蜉蝣がどんな悲劇を経て、『夜魔』と関わるようになったかを、準教授に問おうか迷ったからだ。しかし結局、新堂は無言のまま研究室を後にしたのだった。
他人の傷口に、自分が足を踏み入れてもよいのか、分からなかったから……。




