20 【これからの2人 】(2)
俺はテーブルの上に置いた携帯を手に取り、ゆっくりと指先を動かし始めた。
横では、まいが俺の様子をそっと見守っている。
そのまなざしが、言葉よりも深く、優しく俺の心を包み込んでいた。
まいが隣にいる――
その事実が、まだどこか信じられない気持ちのまま、けれど確かに今、自分の中にある温もりとして感じられていた。
少し迷いながらも、俺は画面に目を落とし、心の奥から出てくるままに言葉を書いていった。
⸻
『純一、お疲れ様。
今、まいが俺の隣にいてくれている。
昨日の俺は、本当に駄目だった……魂が抜けたみたいになってて、自分でもどうしていいか分からなかった。
でも――まいが来てくれた。
ただ、それだけで、俺はどうにか立ち直れた。
命を繋ぎとめたような気さえした。
昨日は、本当に心配かけてごめん。
俺自身、あんな風になるとは思ってもいなかった。
だけど今、こうしてまいと話して、このまま2人の生活をもう一度始めたいと心から思ってる。
わがままだってことは分かってる。
迷惑をかけるのも分かってる。
でも、それでも……お願いしたい。
俺たちに、もう一度“日常”を続けさせてもらえないかな。
どうか、よろしくお願いします。』
⸻
ゆっくりと読み返しながら、俺は少しだけ息を吐いた。
伝えたいことを、言葉に込められた気がした。
それから、まいにそっと携帯の画面を差し出す。
まいは黙ってそれを見つめた。
まいは静かに読み終えると、何も言わず、ゆっくりと頷いた。
その頷きには、たくさんの想いが込められている気がした。
安堵、共感、信頼――そして、深い愛情。
俺はそんなまいの表情を見つめながら、画面を指でタップして「送信」を押した。
小さな電子音が鳴り、メッセージは静かに純一のもとへ飛んでいった。
すぐに返事が来るとは思っていない。
けれど、今はそれでいい。
俺たちの想いは、ちゃんと届いた。そう信じられた。
まいと俺は目を合わせる。
言葉は要らなかった。
ただ、そっと微笑み合うだけで、心は通じ合っていた。
それは、小さくて静かだけれど、確かな一歩だった。
再び始まる、ふたりの新しい日常に向けて…。
静かに流れる時間のなか、レストランのテーブルには香り高いコーヒーの湯気が立ちのぼっていた。
食事を終え、ほっと一息ついたふたりは言葉少なにその余韻を味わっていた。
純一はスプーンでカップの縁をそっとなぞるようにかき回しながら、ふと携帯に目を落とした。
画面には、謙からのメールの通知。
彼はわずかに眉を寄せながらそれを開き、じっと読み始めた。
──その文面には、まいのそばにいるという安堵と、失われた時間の中でようやく掴みかけた想いが、拙くも真っ直ぐな言葉で綴られていた。
読み進めるうちに、純一の表情が少しずつやわらいでいく。
やがて最後の一文まで目を通したとき、彼は静かに息を吐いた。
「……香の言った通りになったよ」
そう呟いた声には、どこか安心したような、そして少し切なさの混じった響きがあった。
彼は微笑みながら、そっと携帯を香の前に差し出した。
香は、純一の顔を見つめながらそっと問いかけた。
「読んでもいいの……?」
純一は黙ってうなずいた。
その頷きには、どこか迷いのない優しさが滲んでいた。
ただの報告や共有ではなく、ふたりで一緒にこの気持ちを受け止めようという意思。
謙とまいの想いに、そっと手を添えるような静かな決意。
彼らの願いが、かなうことを願って──
そして、かなえるべき何かがあるのなら、それを自分たちが引き受けようとする心が、静かにそこにあった。
香は、そっとカップをソーサーに戻すと、少し真剣な面持ちで純一に視線を向けた。
その目には、どこか母性にも似た思いやりと、温かな芯の強さが宿っていた。
「ねぇ……早く謙さんに返信してあげて」
その口調は柔らかく、けれどしっかりとした確信が込められていた。
「純一の気持ち、ちゃんと伝えた方がいいよ。これからのことは……これから、ふたりでゆっくり考えればいいじゃない。
でも今はね、あのふたりの気持ちを……大切にしてあげて」
そう言って香は微笑んだ。
その微笑みは、過去も迷いもすべて包み込むような、静かな光だった。
純一は少しの間、何かを考えるように視線を落とした。
そのまま俯いた彼の表情には、どこか戸惑いと、でもそれ以上に、温かい何かが宿っていた。
やがてゆっくりと顔を上げ、香に向かって穏やかに笑った。
「……刑事としては失格かもしれないなぁ〜」
ふっと漏れたその声は、どこか照れくさそうで、しかし誇り高く響いていた。
「でもさ、あいつがこんなこと言ってきたんだもんな……
まいちゃんと一緒にいたいって、そんなふうに素直に願うなんて、あいつらしくもあり、らしくなくもあり……」
彼は言葉を探すように少し間を置いたあと、静かに続けた。
「親友としては……叶えてやるしかないよな」
そして、すぐ隣にいる香の顔を見つめながら、優しく言った。
「香、心配するな。わかってる。俺の中で答えは、もう出てるから──」
その瞳には、もう迷いはなかった。
彼は携帯を手に取り、真剣な面持ちでゆっくりと文字を打ち始めた。
⸻
謙、それにまいちゃんへ
心配するな。
なんも、わがままなんかじゃないよ。
一緒にいたいって、そう思うのは当たり前のことだ。
俺たちが、ちゃんとサポートするから。
だから安心していい。大丈夫だ。
……だけどな。
謙のためじゃないんだ。
俺はな、まいちゃんのためにこんな優しいこと書いてるんだからな?
わかってるか、親友──。
⸻
最後の一文を打ち終えると、純一は一度深く息をついた。
画面を香にそっと差し出す。
香はそれを静かに読み、ふっと唇の端を上げた。
「うん……不器用な男にしては、上出来」
その一言に、純一も照れくさそうに笑いながら肩をすくめた。
そして、ゆっくりと指を動かし、謙へとそのメッセージを送信した。
携帯をテーブルに置いたあと、ふたりの間に一瞬、やさしい沈黙が流れる。
それは、何も語らずとも理解し合える関係が築かれている証でもあった。
ふいに、純一がぽつりとつぶやいた。
「……明日からまた、忙しくなるぞぉ〜」
まるで日常に戻ろうとするような言葉。
けれどその直後、不意に彼は香を見つめ、少しだけ真剣な声で続けた。
「香……俺たちもさ、一緒に暮らさないか?」
その一言は、唐突で、けれどどこかずっと胸の奥で温めていたような響きがあった。
香は一瞬、動きを止めた。
まばたきもせずに純一を見つめ、ぽかんとしたまま固まっていた。
──その表情は、驚き、戸惑い、そして嬉しさが入り混じった、まるで少女のようなものだった。
それは、きっと彼女にとっても、かけがえのない“何か”が届いた瞬間だった……




