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雨と鍵と不思議な少年

やっと少しだけ書けました。

昔からクトゥルフが大好きでしたが中々自分では書けなくて…

他作品の合間にちょっとずつ進めていこうと思います。

よろしくお願いします。

挿絵(By みてみん)

東屋の影にたたずむ黄色い雨合羽を着たその少年は、雨に打たれる周囲の景色の中で一際異彩を放っていた。それは不気味な静けさをまとい、どこか夢の中でしか出会えない幻影のようでもあった。

そのとき私は気がついていなかったのだ。彼との出会いが私を現実と夢の狭間にある真実を暴き出す鍵となることも――。


森川雫が父の元を離れようと思ったのは、高校二年の二学期が始まる直前のある夏の日のことだった。

父の様子がおかしいことに気づいたのは、母の一周忌を終えた頃だったと思う。

それまで塞ぎ込んでいた父が、突然キャンバスに向かい笑みを浮かべながら絵筆を走らせるようになった。

雫はその後ろ姿に近寄りがたい何か薄暗い狂気の様な物を感じて、次第に父と距離を取り、自室に閉じこもるようになっていった。

それでも雫が父の絵のモデルを断らなかったのは、昔の優しい父に戻ってほしいという淡い希望と、彼の歪んだ狂気が自分に向けられるかもしれないという恐怖があったからかもしれない。


この町で異変が起き始めたのは数ヶ月前からだった。

近所で飼われていたペットが次々と姿を消し、それからしばらくすると公園の植え込みや雑木林で首を切られた野良猫の死体が次々に発見された。

あるものは木に吊るされ、またあるものは四肢を切断され…死骸は様々な状態であったが、共通していたのは全て血を抜かれた状態だったという事だ。

最初は見ぬふりをしていた人々も、やがてそれが頻繁に繰り返されるうちに、町全体が言いしれぬ不安に包まれて行った。

警察の見回りが強化されてからは数は減ったが、未だにその残虐な犯人は捕まっていない。


「今日はここまでにしよう。服を着なさい。」


父の冷淡な声に雫の凍りついた体がやっと解放された。彼女は視線を窓の外へと向けると厚い灰色の雲が広がり、その淀んだ下水の様な色は、まるで彼女の心を映し出したかのようだった。

仮に青空だったとしても、その美しさを雫は感じることができない。

後天性全色盲。数年前から、周りの色は少しずつ薄れ、一年ほど前に完全に消え失せた。

最後に見た青空と緑の木々は、鮮やかだったはずなのに、今ではその記憶さえ曖昧になりつつある。記憶の中の景色は次第に色褪せ、忘却の海に押し流されていく。


父は、雫が色盲となっても何の興味も示さなかった。それどころか、彼女の世界から色彩が失われていくほどに、彼はますます自分の作品に没頭するようになった。

しかし、雫には今でも唯一見える色がある。

それは父が使う赤の絵の具だった。

彼の描くキャンバスの中で、その鮮烈な赤だけが、雫の目の奥に焼き付くようだった。

父のあのパレットを見るたび、言いしれぬ不安が胸の奥から這い上がってくる。まるで血の様な鮮やかな赤――あれは一体、どうやって作られているのだろう?

父の手のペインティングナイフがまるで凶器の様に見える。


先程まで、狂気に取り憑かれたように油彩筆を踊らせていた父は、今はまるで別人のように静かだった。

その冷淡な背中に、目を向けることさえ耐えられず、雫は思わず視線を逸らすと急いで下着を身につけた。

雫をモデルに、父は何枚も絵を描いているが、一度もそれを見た事がないし、見たいとも思わなかった。


父は元々、小さな個展を開くことができるほどの画家だった。

そのため、家の中には絵画や画材が溢れており、雫は幼い頃から絵に囲まれた生活をしていた。かつての父は「自分は才能がない」とよく溢していたが、雫はその柔らかで温かみのある画風が大好きだった。

しかしその優しかった絵は、いつの間にか狂ってしまったかのように、暗く、暴力的で、見る者を圧倒するようなものばかりになった。しかし何故かその鬼気迫る迫力が人々を引きつけ、以前よりも人気を集めるようになった。


雫は急いで自室に戻り服を着替えると、胸の奥から湧き上がる得体の知れない恐怖に追われるように、足早に家を飛び出した。


墓前にたどり着く頃には、小雨が降り始めていた。冷たい雨粒が肩を濡らし、墓石を静かに打つ音が辺りに響く。

「お母さん……」

雫はそう呟くと、濡れた墓石にそっと手を置き、小さな声で嗚咽を漏らした。母がそばにいてくれたら――その思いが、彼女の胸を締め付ける。


霊園の脇にある鬱蒼と木々が生い茂る薄暗い小道を抜けると、雑草が繁る広場に出る。そこには、今にも崩れ落ちそうな朽ちた東屋がひっそりと佇んでいた。木々を打つ雨音が規則的に響き、広場には夢の中のような静けさが漂っている。

雫は東屋の中に足を踏み入れ、濡れた肩をすぼめると、暗い空を見上げた。重く垂れ込めた雲が渦を巻き、彼女の心の奥底に広がる淀んだ思いを反映しているかのようだった。


ふと、母の面影が脳裏に浮かぶ。決してもう見ることはできないあの優しい笑顔。

三年前、母が行方不明になったときから、何もかもが変わってしまった。

母の失踪直後、父は狂ったように探し回り、警察やボランティアの人々も捜索に尽力してくれたのだが、手掛かりは全く得られなかった。

一ヶ月後、母は山梨の山中で変わり果てた姿で発見された。

父は訃報に泣き崩れ、雫は悪夢の中にいるような気分で呆然とするしかなかった。

司法解剖の結果、母の死には複数の人間が関与していたことが分かったが、捜査は進展せず、ついには捜査本部も解散となった。

母の死に顔さえ、雫は見ることができなかった。その悲惨さゆえに、親族から止められたからだ。


雨粒が東屋の屋根を打つ音が規則的に響き、雫はその静けさに耳を傾けながら、自分がこのまま消えてしまえたら――そんな考えが頭をよぎる。

だが、雨が止めば、またあの忌まわしい家に帰らなければならない。父の狂気に満ちた視線を思い出し、雫の心は重く沈む。


母の死から一年ほど過ぎた頃から、父の周りに奇妙な人々がまとわりつく様になった。

真っ白な服を纏い、薄気味悪い笑顔を浮かべた奇妙な人々。彼らは山梨で母の遺体が発見された折に、他の部位や遺留品の捜索をボランティアで行ってくれたらしい。

その縁なのかいつしか父の「知り合い」を名乗り、家に出入りするようになった。その場に居るだけで不穏な空気が漂う彼らを、雫はできるだけ避ける様にしていた。

彼らか宗教関係者だと知ったのは、父親の会話を偶然立ち聞きしたからだ。

その奇妙な人々と交流を持ち始めてから父が目に見えて変わり始めた。次第に笑顔を見せるようになったが、その顔はあの白装束の男達似て、どこか狂気じみた輝きが宿っていた。

何よりも恐ろしいのは、その視線が自分に向けられるときだった。まるで父が雫を娘ではなく、別の何かとして見ているような――そんな錯覚を覚えた。

学校を卒業したらあの狂った家を出よう。そして人生を全てやり直すのだ。

その思いだけで雫は日々を生きていた。



雨音の中、不意に響いた下草を踏む音に、雫はゆっくりと視線を上げた。雨に煙る木々の間、そこにはレインコートを着た小さな少年が立っていた。

『色だ…』

薄暗い水墨画の様な景色の中で、雫の目にはその少年だけが色付いて見えた。

場違いなほど明るいパステルカラーの黄色に、空色の長靴。その鮮やかさは、灰色の景色の中で奇妙な違和感を放っている。

瞬きも忘れ、雫は思わずその色彩に目を奪われた。

一瞬、色を取り戻したのかとも思ったが、周りの景色は相変わらずモノクロのままだ。

東屋から少し離れた場所に立ったままの少年の姿はどこか夢の中の幻影のようで、まるで現実味が無い。


やがて、少年は木々間の小道を歩き、東屋に近づいてくると、雫の顔を見る事もなく彼女の隣に腰掛けた。

小学生だろうか……。雫はレインコートのフードを目深に被るその小柄な姿を横目で観察していた。こんな雨の中、しかもこんな場所で――一体何をしているのだろう。両親はどこにいるのか。

そして何故彼だけが色付いて見えるのだろう。

様々な疑問が頭の中を駆け巡る。


少年は雫と目を合わせる事もなく、地面に届かない足を交互にぶらぶらとさせているだけだった。


耐えきれなくなった雫は、意を決して声をかけた。

「こんにちは。」


少年は振り向いて雫を見上げた。

「こんにちは、お姉さん。」


その声は、まるで鈴の音のように柔らかく、清らかだった。栗色の髪に透き通るような白い肌。吸い込まれそうな青い瞳――その天使のような容姿に、雫は思わず息を呑んだ。


「お父さんやお母さんは?」

雫が優しく問いかけると、少年は静かに首を横に振った。


「どこから来たの?お家はどこ?」

そう尋ねると、少年は何も言わずに指で西の空を示した。


曖昧な返事ばかりの彼だが、不思議と雫は嫌な気持ちにはならなかった。

迷子だろうか?

雫はそっと背負っていた小さなリュックを開け、中からチョコレートの箱を取り出すと少年に差し出した。

「これ、あげる。」


少年はチョコレートを受け取ると、一粒口に運び、目を見開いた。

「すごく美味しい!」


その驚いたような表情と声に、雫はくすりと笑った。そして、彼の手にチョコレートの箱を押し付けるように持たせると、にっこり微笑んだ。

「全部あげる。」


少年は目を丸くして雫を見つめた。

「いいの?」


「うん、全部食べて。」


少年は満面の笑みを浮かべ、嬉しそうにチョコレートを頬張った。

「ありがとう!お姉さん!」


嬉しそうにチョコレートを食べる姿は、年相応の無邪気さで、思わず雫も笑みが漏れる。


「優しいお姉さんに僕からもお返し。」


少年はにっこりと微笑むと、黄色いレインコートのポケットを探り始めた。小さな手が何かを掴み、雫の手のひらにそっと置く。


それは、鈍く輝く銀色の鍵だった。幾何学模様の精巧な装飾が施されたその鍵は、不思議なほどに冷たかった。


「こんな高そうな物、もらえないよ。」


雫は驚き、鍵を少年に返そうとする。しかし、少年は雫の手を握らせると微笑んで言った。


「これはお姉さんに必要になる物だから、絶対無くさないでね。」


少年は東屋の椅子から軽やかに飛び降り、雫に手を振る。


「優しいお姉さん、またね。」


そう言って、少年はもと来た道をゆっくりと帰って行った。


雫は鍵を手にしたまま、その小さな背中を見送った。

幻の様な少年が姿を消し、再び世界がモノクロになってもなお、雫の手の中には冷たく重い銀色の鍵の感触だけが確かに残っている。


少年の指差した西の空。そこに広がる厚い雲がゆっくりと割れ、その隙間から柔らかな陽の光が差し込んできた。

光は雨上がりの広場の草木についた無数の雨粒を輝かせる。それはまるで宝石が散りばめられたかのような神秘的な光景だった。


少年から受け取った銀色の鍵もまた、雫の手の中で鈍い光を放っていた。

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