第一話 辻斬り辰兵衛地獄行き
夏椿が赤紫色の空を見上げる刻、並ぶ長屋を鐘の音が揺らした。
その長屋の一部屋、わずかに残された白米を粥にする男がいる。
男はありがたそうに手を合わせると、その大柄な見た目に反して静かな夕食をとった。彼はつい先日、主君の御家取り潰しのあおりを受けて牢人となった元 南滝藩士、名を砂川辰兵衛重孝という。
粥を食い終わると、男はしばらく手入れしていなかった家宝の大刀を手に取りおもむろに鞘から抜いた。ほこりをかぶった鞘から、光る刀身がぬっと姿を現す。刀身に映る、髭は伸びきり髷も崩れた自分の姿はなんとも情けなかった。
父祖は戦で活躍していたというのに末裔の自分がこのざまでは申し訳が立たん。男は思い立ち、汚れた布に包まると刀を携えて街に出た。
油を買う金もない男に夜の街は暗く、月明かり、行く人の持つ提灯明かりだけが暗闇に映える。男は大通りから細い路地に入ると息をひそめて人が来るのを待った。刀に手をかけて。
すると向こうから提灯が一つこちらに近づいてきた。男の頬に汗が流れ、刀を握る力も一層強まる。提灯がちょうど前を通り過ぎようとした時、男は通りに飛び出した。
「御免ッ!」
男はさっと刀を抜くと提灯に向かって斬りかかった。とっさに声が出たのは、覚悟が決まらぬ己の情けなさによるものである。刃先が提灯に届こうとした時、ふっと提灯が後ろに下がった。
「何者じゃ!」
その者は提灯を投げると抜刀した。整えられた髷、腰には大小の刀。真の武士だ。売るに売れなかった家宝の太刀を抜く牢人とは雲泥の差である。牢人は後ずさりし、逃げようかと考えた。だが、ここで逃げればいよいよ武士の名折れ。牢人は覚悟を決めた。
「でやーっ!」
体が覚える記憶を頼りに太刀を振り上げ、牢人は武士に向かっていった。しかしさすがは武士、いや、しばらく武芸を怠っていた牢人のせいもあるが、武士は牢人の刃を軽く避けると牢人の体を横一文字に斬った。牢人は倒れ、闇に血とうめき声が染みていく。
「その程度なら辻斬りなどやめられよ。斬るほうも気を遣う」
刀についた血を振りはらいながら武士は言う。牢人は怒りと痛みで歯を食いしばりながら、燃える提灯に照らされた武士の顔を見た。
「吉次郎どのか?」
血を流す落ち武者の言葉に、刀を鞘におさめる手が止まる。
「どこでその名を?」
「わしは辰兵衛じゃ。南滝藩の辰兵衛に聞き覚えはないか」
武士は牢人に駆け寄り顔を見た。提灯の火は消えかかっていたが、その顔は彼の知る辰兵衛であった。武士は血が流れる牢人の腹を抑え、自身の着物を破って止血を試みた。
「辰兵衛殿、何故かようなことを」
牢人は薄れる意識の中で、どうして自分がこのようなことをしたのか全くわからなかった。主君の仇討ちなら一人の侍として誉高い死を遂げたのだろうが、こうして辻斬りを試み返り討ちにされ、おまけに斬りかかった相手が顔見知りとは、なかなか情けないものである。
「吉次郎殿」
牢人のかすれる声に武士は耳を傾けた。
「その刀でわしを斬ってくだされ」
武士は驚き、その頼みを拒否した。しかし、牢人は食い下がった。
「わしはもう腹を切っておりまする。さすれば介錯するのが武士というものではござらんか」
牢人の目を見て、武士は血まみれになった手で牢人の体を起こしてやった。そして血を吸った布で自身の脇差をくるむと牢人の手に握らせた。
音もなく二尺半の刀を抜く。月に照らされた刀身がちらりと牢人の顔を照らした。
「たちおくれ 腹切るのぶし うつせみを 割きて残さん 次の世こそはと」
刀は振り下ろされた。さすがは真の武士、牢人の首は一刀両断され、その断面から血が出るのには少しの間があった。こうしてこの男の生涯は閉じたのである。
しかし神のいたずらか、はたまた仏罰が下ったのか、男は森の中で目を覚ました。首と胴がつながっている。たしかにあの時、首は地に落とされたはずでは。胴から首が離れる感覚に身震いする。男は混乱したが、ひとまず立ち上がってあたりを見渡した。人の気配、ましてや生き物の気配さえ感じられぬこの森は、死にたて生き返りたての男を怖がらせるには十分であった。
「ここがあの世というものであろうか。川があると聞いておったが、よもや森だとは」
男は頼みの太刀に手をかけたまま森を移動した。呼吸は浅く、神経を尖らせる。そうしてしばらく歩いたが、やはりこの森では音一つとして聞こえない。木々も死んでいるかのように音を立てず、風も起こらない。
「閻魔の沙汰待ちも楽なものではないな」
少し足が疲れてきたので、男はその場に座り込んだ。喉の渇きや腹が空くということはないが、とにかく体が疲れる。しばらく歩いたこともあろうが、それにしても疲れすぎている。
(この地獄の果てはどこじゃ)
男は仰向けに寝転んで、木々の間から空を見た。どんよりとした曇り空はいかにも地獄らしい。先の見えない森をこのまま果てしなく歩くかもしれないと考えると気が滅入ってきた。もうここで寝てしまおうか。そう考えた時、空を何かが横切った。男は目を開き太刀を手に取った。
空をにらむと再び何かが横切った。巨大な影だ。翼のようなものがついていたが、鳥ではない。
「龍だ」
うろこに覆われた体、頭に生えた角。いつの日か見た屋敷の襖絵に似ている。龍神なら人語も話すらしい。ひょっとするとここがどこなのか聞けるかもしれない。
「おーい!ここがどこか教えてはくれませぬか!」
しかし声は灰色の空に吸い込まれるのみで、森は相変わらず静かである。もう行ってしもうたかと思った時、巨大な影が再び頭上を通った。
「ここじゃー!ここにおりまするーっ!」
声に気づいたのか、その龍のようなものはこちらを見ると一直線に降りてきた。と思えば、そのまま男をくわえて空へと舞い上がった。
「な、なにをするでござるか!拙者はただここがどこか聞きたいだけでござる!」
しかし龍は男を食うこともせず、離すこともせず、男を咥えてただまっすぐ飛んだ。地獄を空から見ると一面曇り空と森に覆われており、動くものは男とこの龍のみであった。
(この龍はわしをどこへ連れていく気なのであろう。極楽浄土であればよいが)
空を漂い、しばらくの時が経った。首を落とされた感覚はあるが自分があの世へ来た実感はない。これから自分はどうなるのか、龍はこのあと自分を食うのか、あの世で死んだら次はどの世に行くのかなどあれこれと考えた。
しかし緊急事態に直面し、それらの心配事はすべて消し飛んだ。尿意だ。
腰のあたりを咥える龍の体温が膀胱を直にあたためる。このまま出せば龍の喉はうるおい男の汗も止まるだろうが、この高さから落とされてはひとたまりもないし、自分の尿がそれほど絶品である自信もない。
「龍神様、もう少しゆっくり飛んではくれませぬか」
龍は見向きもしない。青ざめる男は唇から血を流して耐えた。
龍と男は飛び続け、ついにその行先がわかった。眼前の草木も生えぬ岩山だ。山には大穴が開いている。
ぶわっと風を吹かせてその穴に降り立つと、龍は男を穴へ放った。その拍子に漏らしそうになるがなんとか堪える。
顔面蒼白で唇の赤黒い男は龍に尋ねた。
「拙者をここに連れてきた訳を教えてはくださりませぬか」
龍は男を見たが、何も話さない。無礼があってはならないと考え尿意のことを隠していた男だったが、もはや平静を装うのも限界だった。
「お恥ずかしい話、用を足したいのでござるが、厠はいずこに?」
龍はやはり何も話さない。それどころか猫の毛ずくろいのように翼を広げて体を舐め始めた。龍の言葉を待てるほど今の男に余裕はない。下の唇はもうちぎれかかっている。何も話さぬのなら仕方ないと、震える足を一歩、また一歩と動かし、男は岩陰で用を足すことにした。
これまで我慢していたものがすべて解放される。男は大きく呼吸をした。
(思えば、あの世でも用を足す必要があるのか。てっきり、死ぬとこういったことはなくなると思うておった)
男はこちらに来てから何も食べていない。しかし催したのだ。これはなんとも奇妙としか言いようがない。
男は一通り済ませると、岩陰から出て龍の下へ戻った。あれを信用して良いか、いささか疑問が残るが今のところ人を食べるような素振りはなく、ひとまずはこの龍に世話になろうと思ったのである。
「龍様、ここはいったいどこでござるか」
龍は答えることなくうずくまった。寝るようだ。そう言われてみれば曇り空は闇に染まりはじめ、夜が来ようとしている。
(あの世にも夜があるのか。思っていたよりも、あの世というのはこの世と似通っておるんじゃな)
龍が寝てしまっては男がこれ以上できることもなく、男は龍の横で眠りについた。
夜も更けた時刻、龍は目覚めた。鼻をしきりに動かしてあたりを見渡している。すると男も目を開けた。
(なんじゃこの匂いは。さては誰か厠に行きそびれたな)
寝ぼけながら体を起こすと、龍が穴のあちこちを嗅ぎまわっている。そうか、ここは長屋ではない。その瞬間、男ははっと目覚めて自分が死んでいることを思い出した。
「龍様、何かありましたか」
嗅ぎまわる龍はある岩の前で立ち止まった。そこは昼間に厠となった場所だ。
龍は突然咆哮を上げた。そして天井から砂埃が舞うほどドスドスと走り回り、それは怒りや混乱に陥っているように見えた。
男は慌てて額を地につけ、龍に詫びる。
「申し訳ありませぬ!あそこで用を足したのは拙者にござりまする。この償いは必ずします故、ここはどうか鎮まってくだされ。穴が崩れまする」
しかし龍の気は収まらない様子で、犯人が男だとわかると男を襲い始めた。尾は周囲の岩を薙ぎ払い、太い脚で男を潰そうとした。男は間一髪で避けながら龍に許しを乞うた。
「龍様どうかお許しくだされ!申し訳ありませぬ!もう二度とあの場所でいたしませぬ!」
すばしっこく逃げる男に我慢ならなくなった龍は口を大きく開くと、その口から火炎を吹き出した。火は瞬く間に地を這って男の前まで向かってくる。
男は思わず腕で顔をかばったが、腕は炎に包まれた。
(わしは首を落とされたこともあるんじゃぞ!これしきの痛みなど痛みのうちに入らんわ!)
男は声を上げながら炎の中を進み、炎を抜けると穴の外に向けて走り出した。腕に走る痛みとの競争だ。激痛に追いつかれないよう懸命に走った。
やっとの思いで穴から転がり落ち、岩陰にさっと身を隠した。龍の咆哮が外まで轟いている。男は夜が明けるまでこの岩陰で過ごすことに決めた。
翌朝、腕の痛みで目が覚める。右腕を見ると炎に焼かれて火傷した部分が玉虫色に光っていた。気味が悪く、その部分を触ってみたが、うろこのような感触になっているわけではない。ただ、かさぶたが変色しているようだ。
龍といい、この傷といい、やはりここは異界で間違いなさそうである。地獄なのかはわからぬが、少なくとも徳川様の治める世ではない。
男は龍が巣穴から飛び立ったことを確認すると、家宝の太刀を抱えて出発した。
森を歩いてしばらくした頃、突然鳥の声が聞こえた。そうかと思えば森が風でざわめく。忘れて久しい生きた森に男は涙を流した。
「かたじけない。神様仏様、このご恩は一生涯忘れませぬ」
一生はすでに終わっているのだからこの文句は間違えているが、男は歩いているうちに自分が死んでいるとは思えなくなっていた。腹が減ることはないが、眠気もあるし疲れもある。それに催すのだ。これを生きていないと言わずなんと言おうか。男はこの世界で新たな生を享受することに決めた。
「前の生では成せなかったことを成したいな。わしは何が成せなかったであろうか」
前世を思い返すと、幼い頃から特に成したいことがなかったことに気が付いた。父に言われるがまま藩校に入り、そこで少し算術が得意であったから武芸を諦めて算術を学んだ。そして父の下で働き、父が隠居したあとは江戸の屋敷で藩の財政管理をしていた。祝言を挙げた直後に江戸の屋敷に行ったのであれに思い入れがあるわけでもない。前世には何も成しえなかったし、成しえようとも思わなかった。
(わしが成したいこととはなんであろうか)
考えるうちにふと、刀を抜いた吉次郎の姿を思い出した。あれほど美しい姿は見たことがない。
「真の武士になりたい」
男は自分の言葉に驚いた。藩校で武芸から逃げた自分が武士になりたいなど、前世では思うことすらなかっただろう。だがそれでいい。再び生を受けたのだから、少しは違った生き方をするのも悪くない。
男は真の武士になることに決めた。だがそれは長く、末は神仏のみ知る道の始まりであった。




