『幼馴染み』前編
『蒼海の真珠亭』という名の宿は、グレイウォールのディミトリのところとは違い、窓枠に彩りよく花の鉢が並んでおり、格子窓に埃が積もっていたりなどはしていなかった。
だが、ニコラが扉をあけると、そこに客の姿はなく、カウンター席で煙草をふかす女が一人座っているだけだった。
その女は物憂げにドアの方を見ると、ほっとしたような顔つきになって言った。
《ああ、よかった。外じゃ大騒ぎだったから…》
ニコラはすでに勝手知ったる我が家という足取りでテーブルに四人を連れていきながら、
《その騒ぎにすっかり巻き込まれちまったよ、姉さん。私の恩人を連れてきたんだ、せいぜい美味いものを頼むよ》
《恩人? またあんた、こんな時になってまで漁に出たの?》
《私は漁師よ。魚を捕ってくるのが仕事。ま、今回も連中にしてやられちまったけれどね。とにかく一杯頼むよ》
灰捨て箱にカン、と煙管を叩きつけて煙草を消した女主人は、ニコラよりも一回りすんなりとした身体をカウンターの中へ移動させると、ジョッキにエールを注ぎだした。
これを見た朱音が毎度のごとく言った。
《あの、一人未成年なんで。一つはアルコール抜きでお願いします》
《未成年?》
ニコラも、カウンターの中の女も不思議そうな顔をする。そしてニコラが尋ねた。
《未成年とはどういうこと?》
朱音も奇妙な顔になりながら、大牙を突つき応えた。
《彼は大人じゃないってことです、つまりまだ子供だってことです》
《子供? この者が?》
ニコラは大牙をじろじろと眺め、
《お前、いくつなんだ?》
と尋ねた。大牙は朱音に対して反発心をこめて応えた。
《17だよ》
するとニコラは呆れたように朱音を見、
《立派な大人じゃないか。一体どこの国で17の男を子供扱いするところがあるのかねえ。さあさ、あんたたちもここに着くなり、この騒動ですっかり疲れちまっただろう? とりあえず一杯やっとくれよ》
どん、とジョッキをテーブルの上に置いて回った宿屋の女将が、最後にニコラの前にジョッキを置きつつ、その肩に手を置いて言った。
《私はマルセラ、ニコラの姉だよ。妹を助けてくれたっていうんなら、私からも礼を言わないとねえ。にしても、随分変わった身なりをしているんだねえ。うちは漁師向けの宿だからあまり冒険者は泊めないけれど、あんたたちみたいな恰好は、商人でも見たことがないよ》
四人は、いや、正確には大牙を除く三人は、自らの服装を見直した。ぴったりしたシャツにマイクロショート丈のパンツ、青いジレにTシャツ、黒いパーカにブラックデニム。
龍児が何か言い抜けをしようと口を開きかけた時、大牙から大きなゲップをする音が聞こえ、彼らはそちらを見た。
ちょうど、大牙はエールの入ったジョッキをどん、テーブルにおいたところだった。中身は空である。
《一気飲みしちゃったの?!》
《この量はちょっと無謀だったのでは…》
《いや、もう遅い、ぶっ倒れるぞ》
玄人の指摘通り、大牙はみるみる顔色を赤くさせながらテーブルに突っ伏してしまったのである。
《なんだい、エールくらいで酔いつぶれる冒険者か。私をあの槍から救ってくれた時とはまるで別人ね》
とニコラが驚きながらもおかしさを堪えきれないような顔つきになって言った。
《だから子供なんです》
と朱音が溜息をつきながら、宿の女将を振り返り、
《あの、先にこの子、休ませてもいいですか? クロト、運んでくれる?》
《ああ。完全に潰れとる》
マルセラがついておいでと手で示すのに、玄人がぐったりとしている大牙の小柄な身体をひょい、と肩にかつぎあげてついていく。
龍児は自分たちについての話題をすり替えるために、空っぽの座席を見回し、ニコラに尋ねた。
《それにしても、こんなにきれいで立派な宿なのに、どうして他に誰もいないんですか?》
ニコラはぐい、とエールを飲みながら、長々とため息をついた。
《さっきの魚人どもせいさ。最初は漁船に嫌がらせをする程度だったんだけどね。ここ1、2ヵ月のうちに街にまで侵攻するようになったのよ。そのせいで、「内海」特産のブラックマグーを捕りに来る漁師たちが来なくなってしまったの。船を持たない流れの漁師も当然来なくなってしまった。漁師向けの宿はどこも閑古鳥さ。その代わり冒険者向けの宿は賑わっているみたいだけれどね》
そこへ、大牙を寝かせてきた玄人が戻り、マルセラがカウンター内へ歩きながら言った。
《あんたたちのお仲間はぐっすりだよ》
《姉さん、早く朝飯をおくれな。私は腹が減ったよ》
《はいはい、ちょっと待ってな》
ゆったりとした物腰で準備を始めたマルセラを横目に、朱音は素朴な疑問を口にした。
《冒険者はたくさんいるのに、どうして魚人たちの襲撃はやまないの? それに、衛士の人から殺すなって言われたのよね。魚人はあなたたちの敵ではないってこと?》
マルセラが白身魚の揚げ焼のようなものの乗った皿を運んできた。それと山盛りのパン。
ニコラは早速にそのひとつを手づかみでとり、小皿に入っているディップのようなものをべったりとつけると、ぱくりとやってから応えた。
《あの魚人、マーフォーク族はね、モーヴとは何百年も共存してきた間柄なんだ。むしろ、人間の方が後からやってきて、マーフォーク族から漁場を分けてもらったっていう話よ。だから、今回のことで殺し合いを始めて、何百年も続いた良好な関係を壊すわけにはいかないの》
《なぜこのようなことになったのか、心当たりはあるんですか?》
と龍児が、次に運ばれてきたイカとカブらしきものの唐辛子炒めの皿から少し取り分けながら尋ねた。
《大ありだよ》
ニコラはタラとキノコにチーズをかけて焼いた料理を豪快に口に運びながら言った。その口調の中には苦々しさが含まれていた。
《私の父親もね漁師だったんだけれど、その時にマーフォーク族の族長だったザキロとは若いころからの昵懇でね、それで今の族長とはよく見知った仲なのよ。まあ、幼馴染みと言ってもいいくらいの付き合いを、子供のころはしていたものさ。だが、そいつが半年ほど前に族長になってから、何かが狂いだした。これまでの歴史からしても、マーフォーク族とは漁場の件でもめたことはなかったし、互いに干渉しないように気を遣っていた。だけど、聞くところによると、先代を幽閉したとか、今まで通りの関係を続けるようにと進言する者たちを牢にぶち込んだりしてるとか、ただ事じゃないのよ。それでここにきて街への侵攻となってきた。やつらは本気でモーヴを乗っ取りに来たのかもしれない……だけど、やつはそこまで馬鹿なやつじゃないと思ってるの……いくらマーフォーク族が勇猛でも、モーヴの被害が大きくなれば、都市連邦が有徳軍を派遣するわ。そうなったら彼らなんかあっという間に掃討される。人間側もそろそろ我慢の限界にきてるわ。もちろんマーフォーク族側もね》
《直接交渉することはできないんか》
と玄人がじゃがいもとタマネギ、チーズの入ったお好み焼きのようなものを頬張りながら尋ねた。
ニコラは肩をすくめた。
《それは考えたけれど、やつらの住処はかなり離れた沖合に浮かぶ孤島でね、今の状態じゃ、そこにたどり着く前に船を沈められておしまいだわ》
《じゃ、ただ防戦一方でいるしかないの?》
朱音がやや不満げに聞き返した。ニコラは大きくため息をつき、
《私もいつまでもこのような状況であり続けるには無理があると思っているのだけれど、こう、何か、大きな変化というか、突破口になる糸口が、なかなか見つからないのよね……》
と彼女は何気なく目の前に座る冒険者たちを見やった。年若い、異国の身なりをした者たち。ふと、先ほどの鮮やかな身のこなしを思い出していたが、彼らがその突破口になることを、彼女にはその時まだ全く想像できなかった。ただそこにいるのは、年相応の物腰で朝食をとっている若者としか映らなかったのである。
*****
一方その頃、モーヴの沖合に浮かぶイゾラ島の地下に、アリの巣のように広がる「海蛇の岩窟」の最奥にある族長の間では、顔を腫らしたり、足を引きずったり、腹を押さえたりする者を前に、歯ぎしりとも呻き声ともつかない音を唇の間から漏らし、一際立派で大きな魚人が、貝殻やサンゴで装飾された玉座に腰掛け、散々な姿の一族の者たちを睨みつけていた。
〔ぎょ、漁船の方はうまくいったのです、ギサロ様……し、しかし、街の方は……〕
〔ギルドを破壊できなかったとな?〕
族長の青灰色の額に青筋がたつ。同時に、髪の毛のようにも見えるヒレと鱗で覆われた頭部がざわ、と逆立つ。
〔そ、それが、途中までは、な、なんの滞りもなく事は運んでいたのです…しかし…〕
族長の怒りに慄きながら報告する者の顔は、無残に腫れ上がっており、何が起きたかくらいはギサロにも容易に想像がついたので、このまどろっこしいやり取りがますます苛立ちを募らせた。彼は玉座にたてかけてあった矛をとると、その柄で報告する者の両頬を小突き、言った。
〔今までここまでの怪我などしてこなかったのに、今回はどういうことだ。人間の方に強力な助っ人でも現れたか?〕
〔そ、その通りなんです…!〕
と、逃げ帰ってきた者たちは床に這いつくばるように身体をかがめ、口惜しさと少しの恥辱をこめて続けた。
〔そこいらにいそうな若僧にしか見えなかったんですが、それがどんな腕の立つ連中よりも凄かったんです。あっという間にやられちまって…情けないばかりです…〕
〔…むう…〕
族長ギサロは、その他の魚人たちよりどこか人間的な顔立ちに苛立ちと怒りをこめて呻いたが、おもむろに手にしていた矛をトン、と床に打ち付け、声高に言った。
〔ドゥアハ、エドゥル、いるか!〕
どこに控えていたか、二体のマーフォーク族が音もなく姿を現した。一体は赤い身体をし、その顔は丸みを帯び、平べったい。もう一体は蒼い肌をし、うつぼを思わせるひょろ長い身体つきをし、その手にはサンゴでできたスタッフを持っていた。
〔お呼びでしょうか、ギサロ様〕
ギサロはその人間くさい眼差しを厳しくさせ、この二名に言った。
〔部下どもが不甲斐ないのでな、お前たちの力を借りることになった。行ってくれるか〕
〔御意〕
〔標的は若者の冒険者だそうだ。我々を撃退できたくらいの腕前だ。街の中でも有名になっていることだろう。早急にそいつらを見つけ出し、叩きのめせ。立ち上がれないほどにな。そしてここへ連れて来い。それほどの力を持つ者、この目で見てみたい〕
呼ばれた二人の魚人たちは、族長の言葉に頭を垂れて聞き入っていたが、一つ深く礼をすると、青い方が言った。
〔お任せください。我ら「双頭の海蛇」にかかればそのような若僧どもを蹴散らすことなど造作もないこと。ギサロ様には朗報をお持ちいたしますゆえ〕
〔おお、期待しておるぞ〕
〔手傷を負っていない手勢を連れていきますが、構いませぬか?〕
赤い方が、いまだ這いつくばったままの魚人たちを目で示す。ギサロは再び玉座に深々と座り直しながら尊大に頷いた。
〔お前の裁量に任せる〕
ドゥアハとエドゥルが、元気な魚人たちを引き連れてその広間から出て行ってしまうと、途端にギサロの表情に変化が起きた。それまでの傲岸不遜で唯我的なところが抜け落ち、一人の若いマーフォークの顔になったのである。
〔…だからこんなことはおやめになったらと何度もわたくし、申し上げましたのよ、お兄様〕
不意に、そよ風のような声がギサロの放心気味の耳に届き、彼は声のした方を見た。
そこは、マーフォーク族の雌が洞窟内を行き来するために、別に作られた海底へと通じる穴だった。というのも、マーフォーク族の雌雄では体型が異なっているからだった。雄は二足歩行ができたが、雌は下半身が完全に魚のそれであった。
その海底に通じる穴から、しなやかで妖艶にも見える肢体をしたレアヌ・ヌム・アムウはするりと広間に上がってくると、うねるように身体をくねらせて玉座の方へと近寄りながら続けた。
〔いくらこのようなことになったからと言って、ヒトの領域を侵すなどということはしてはなりませんわ〕
ギサロは暗い眼差しを吃、と妹に向け、
〔だが他にどうすればいいというのだ? 俺にはマーフォークを守る責務がある〕
〔そうお思いなら、方法などいくらでもあるはずですわ。海は広いのです、お兄様〕
と諭すように話す妹に、ギサロは笑止とばかりに玉座の肘置きに拳を打ち付けていた。
〔お前まで親父の考えに染まったか? 俺たちにここから出て行けと? 冗談ではない〕
〔でも他にどうしようがあって? わたくしたちがここに住み着いて数百年…でもいつかはこういう日が訪れるものです〕
〔俺の民がどことも知れぬ新たな定住地を求めてさすらうなどもってのほか。出て行くのは人間の方だ〕
レヌアは頑なな兄に対し、心を見透かすような口調で言った。
〔そのヒトの中には、お兄様にとって、かけがえのない思い出のある人々がいるのではなくて? それまで暴力で台無しになさるおつもりなのですか?〕
ギサロはぴく、と目元を引きつらせ、妹に対し、手を薙ぎ払うような仕草で彼女の言葉を拒んだ。
〔お前には関係のないことだ。せいぜい老いぼれ親父の世話でもしているがいい。下がれ!〕
レヌアは兄の怒りを無表情で受け流すと、くねくねと海底へ通じる穴へと戻りながら言った。
〔物は壊れても直すことができますけれど、心が形作ったものは、壊れたら元に戻すことは至難の業だということをお忘れにならないで、お兄様〕
〔下がれ!!〕
と怒鳴ったギサロの耳に、ざぶん、と水中に没する音が聞こえた。
ギサロは眉間に深く皺を寄せると、玉座にもたれかかるように両手を肘置きに置き、強い慨嘆のこもったため息をついて、目を閉じた。正直なところ、彼にもどうにもできない局面にまで、この事態は進み切っていたのである。
*****
ドゥアハがその怪力で一人の冒険者の首根っこを鷲掴みにし、粗暴な共通語で尋ねた。
《赤い髪の娘だ、それと銀色の頭の小僧、黒髪の男二人の四人組だ。どこにいる?》
冒険者は仲間たちに助けてくれとばかりに手足をじたばたとさせながら、
《お、俺たちは、み、見てないんだ…っ、は、放して、くれっ》
《フン、使えない奴どもめ》
エドゥルが持っているスタッフの先から水瀑炸裂が放たれると、冒険者たちは激流に飲まれるように吹っ飛び、通りの石畳を抉りながら、住居の壁に身体を叩きつけられていた。ドゥアハに首を掴まれていた者も、投げ捨てられるようにして放り出され、したたかに身体を打って起き上がれなかった。
《他の者から聞き出すとするか》
ドゥアハが矛を威嚇的に構えながら、間断なくマーフォーク族の再襲来に街が騒然とする中、飛び出した目玉をぎょろつかせて周囲をねめ回していく。あとからエドゥルが対照的な金壺眼でついていく。彼らの背後には叩きのめされ、魔法で気絶させられた衛士や冒険者が足跡のように残されていった。
一方の朱音たち三人は、ニコラがギルドの仕事を済ませるということで行ってしまったので、一休みでもしようかと思っていたところだった。
《あんたたち、やばいことになってるよ!》
と、ニコラが宿のドアをばたんと開けるなり叫んだ。
《どういうことですか?!》
龍児が階段を昇りかけていた脚を止め、問い返した。ニコラはぴたりとドアを閉ざすと、錠まで下ろして応えた。
《こんなに間をおかずに奴らが襲撃してくるなんてことは今までなかった。それも今回は「双頭の海蛇」が一緒なんだ。奴らは手当たり次第に衛士や冒険者を叩きのめしては、あんたたちらしき人相の冒険者のことを聞いて回ってる。あの赤蛇青蛇に目を付けられたんじゃ、いくらあんたたちが強くてもかなわないわ!》
《つまり、それってよ、俺たちに因縁つけに来たってことじゃねーの? ウップ》
二階の部屋のドアがいつの間にか開いており、大牙が腹の辺りをさすりながらも、意気を上げている様子で言った。
《名指しされたんじゃ、出て行くしかねーよな。売られた喧嘩は買うしかねえ、だろ? アカネ?》
《そうね。でもあんた、大丈夫なの? だいぶ顔色悪いけど》
《おかげさまで便所と仲良くなっちまったがよ、心配はいらねえぜ》
《でもあんたたち、武器も何も…》
ニコラの心配をよそに、四人(一人はやや頼りない足取りではあったが)は、入り口の前にいる彼女をそっと横にのけ、錠を外しながら、
《確かに名指しされたのであれば行くしかありません。あなたは他の衛士や冒険者たちに手出ししないよう、ふれ回ってください》
と龍児が冷静極まりなく言うと、玄人が付け加えた。
《わしらのことで他のもんにこれ以上危害が加えられるんは、やめさせんとならんからの》
《あんたたち……》
《あたしたちのことは大丈夫。あなたは街の人たちを見てあげて》
と、朱音はニコラの手をぎゅ、と握ると、先頭に立って宿屋から出た。
ここかしこで争う物音や喚き声が聞こえている。
四人はひとまず港の方へと足を向けた。
早速、路地から走り出てきた魚人たちと鉢合わせた。
〔いたぞ!! こいつらだ!! ドゥアハ様とエドゥル様に知らせて来い!!〕
その中の一人がすばやく踵を返して走り出そうとするのを止めもせず、朱音が決然と言った。
《あたしたちは逃げも隠れもしないわ。港で待ってるとあんたたちのボスに伝えるのね》
彼女の言葉に一瞬、魚人たちは気圧されたように動きを止めたが、ハッとしたようにその一人が走り出すのを尻目に、四人は悠然と港へと向かった。
途中、何回か魚人と衛士がつばぜり合いをしているところに行き合わせたので、致命傷にならない程度に魚人たちを撃退した。
その時にも具合の悪そうなゲップをする大牙に、朱音が気遣わしげに声をかけた。
「ほんとに大丈夫なの? これからボスと対面するっていうのに」
「平気だっつーの! うぇー。もうあんなもん、二度と飲むもんか!」
「お前、下戸だったんか」
玄人が場違いに可笑しげな表情になって言うと、大牙はイーッと顔をしかめ、
「まずいもんは飲まねえってんだよ!」
「二人とも、そのくらいにして、あちらの方が早くご到着のようだよ」
龍児の言う通り、岸壁を背にして、マーフォークの一団と、二体の一回り大きな魚人が彼らの到来を虎視眈々と待つかのようにそこに陣取っていたのである。
《丸腰の冒険者とは異なことよ》
赤い方の魚人が出目をぎょろつかせ、四人を値踏みするかのように眺め回した。そして持っている矛で彼らを指し、自信たっぷりに続けた。
《先刻我が眷属にしたことの礼に参った。のこのこと姿を現したことを後悔させてやるわ》
矛先が薙ぎ払われ、それが合図となってマーフォークたちが一斉に奇声と共に襲い掛かってきたのである。
「殺さない程度によ!」
朱音の注意喚起に、他の者たちはそれぞれ頷き返し、自らめがけて突進してくる魚人たちと対峙した。
龍児はひらりひらりと魚人の攻撃をかわしながら、隙を突いて相手の腕を取り、投げ飛ばした。
玄人はその場から動くことなく、突進してくる魚人たちを次々と両手で鷲掴みにすると、そのまま地面に叩き付けた。
朱音は前蹴りから膝蹴り、回し蹴りの一連の動きの勢いをつけて後ろ回し蹴りをすると、身体を回転させながら踵で蹴りつけ、魚人たちを地に伏せさせた。
大牙は身体を動かすたびにエールの飲みすぎから回復していくらしく、キレのある動きを見せ始めた。横からのパンチ一発で相手を気絶させたのを手始めに、腹部に連撃を加えてから背後に回っての両拳での突き、相手の攻撃に合わせての当身の一撃を胸に当て、ことごとく昏倒させた。
ものの10分も経たないうちに赤いのと青いのが引き連れていた魚人たちは地面に転がっており、さすがの両者も慌てたようだったが、そこはマーフォーク族の双璧の二人だった。傍観していた体勢からの切り替えは早かった。
青いエドゥルがスタッフを握りしめ、意識を集中し始めた。その間に赤いドゥアハが矛をぐるぐると振り回しながら、最も近くにいた朱音めがけて突き進んできたのである。
これには大牙も反応していた。二人は素早く『霊獣チェンジャー』にカード型インターフェースを差し込み、武器を手にしていた。
と、その瞬間、ドゥアハの矛先が朱音の脚を狙って大きく下段に振り下ろされた。
朱音は横っ飛びで回避し、振り下ろされた勢いに乗せて大牙の顔面に突き上げたのを、彼は後方宙返りで飛びのいていた。
〔水泡撃弾!〕
青い方の魔力の充填が完了し、青い石のはまったスタッフの先から、後方にいた龍児と玄人に向かって立て続けに弾丸のような魔法の水弾が発射された。
彼らも反射的にカードをチェンジャーに差し込み、武器を実体化させていた。
水泡の弾丸は玄人の大盾にいくつかは跳ね返って霧散していたが、その多くは龍児に向かっていた。
「リュウ!」
珍しく玄人が危機感の走った口調で叫んだが、龍児は余裕の笑みを唇の端に浮かべながら、飛んできた水の弾丸を華麗な剣さばきで受け止め、弾き返していたのである。
「僕もこのくらいはやらないとね」
と、彼は眼鏡の位置を直しながら冷然と言ったものだ。
「双頭の海蛇」は自分たちの攻撃が全てかわされたことに驚きを隠せないようだったが、逆に別のスイッチも入ったようだった。
赤い方が矛の柄を握り直して中段に引き気味に構えると、気力をためるように両脚を踏ん張りながら言った。
《こうなったら、殺すくらいの勢いでゆかぬとならんな、兄者》
《そのようだ。手足一本くらい吹っ飛ばしても生きていればよい。行くぞ、弟よ》
青い方がまたも魔力を溜め始める。
《へぇ、お前ら、兄弟だったんだ》
大牙が見当違いなところで納得していると、そこへ、シュパッ、シュパッ、シュパッと強い水流がホースから飛び出すような音がし、水しぶきをまとった衝撃波がドゥアハの持つ矛先から発射されたのである。
「おっと!」
大牙は機敏にそれを転身でかわしながら、玄人が指示するのを聞いた。
「大きな魔法がくる! 盾の後ろに早く来い!」
「ちっ、しつけえやつだな」
ドゥアハの攻撃は大牙を狙い撃ちにし、彼を右に左に翻弄した。
〔水波海嘯!〕
「タイガ! 早く!」
「わーってるよ!」
ドゥアハの三段目の衝撃波をかわした大牙は、次の攻撃がされる前に地面を蹴って玄人の背後に滑り込むように飛び込んだ。
とそれとほぼ同時にぐわ、と魔法の津波が彼らの眼前に迫ったのである。
「まじ、これ俺たち殺す気かよ?!」
さすがの大牙が言うのも無理はない。まさに魔力の激流が彼らを飲み込み、押しつぶすのではないかと思われた。
が、それは玄人の大盾に触れるや否や、まるで何も起きなかったかのように完全に消滅してしまったのである。
《な、なにぃ?! 私の魔法が消える、だと?! その盾は一体…?!》
エドゥルが愕然と言い放つ。
玄人はそれに応えるように大盾を握り直して言った。
《そっちが津波なら、わしは地震じゃ!》
どすん、と大盾を地面に置いた傍から衝撃波が伝わっていくのが、港前の広場の石畳が盛り上がっていくのでわかる。ボコボコボコッと地を這う蛇のように近づくそれから、魚人の二人は海中に回避するのが一歩遅れた。それは彼らの足元で突き上げるような衝撃を与え、舞い上がる石くれと土埃と共に高く打ち上げられていた。そのまま、二人はボチャン、と海中に没した。
しばし静寂がその場を包む。
が、それはすぐに遠巻きにしてこの戦いを手に汗握って眺めていた住民や衛士、冒険者などからの歓声で打ち消された。
四人は素早く武器をしまうと、一番に近寄ってきたニコラの大げさなほどの感嘆の言葉の嵐にあった。
《よくもまあ、あの「双頭の海蛇」をやっつけたねえ! それも傷一つなくだよ! それにあの武器はどこから飛んで出たんだい? 魔法が飛んできた時はもうだめかと思ったけど、あの盾には一体どんな加護が宿ってるんだ? こんな冒険者は見たことがないよ!》
言葉を差しはさむタイミングがなかったので黙っていると、今度は衛士隊長のマウリツィオが近づいてきた。
《言葉もないくらいの戦い振りだった。君たちはグレイウォールから来たと聞いたが、イーディアスのサインの入った通行証を持っているそうだな。あの男がそこまで配慮したということは、あちらでも名を馳せた冒険者だったのではないのか?》
こういう時の会話はたいてい龍児の担当になりつつあった。彼は眼鏡のレンズをハンカチで拭って几帳面にかけ直すと、小さく肩をすくめて応えた。
《僕たちはごく普通の冒険者で、たまたまあの人の助けになるようなことを結果的にしたまでです》
《ごく普通の冒険者が、マーフォークの双璧を打ち負かすなどあり得んと思うのだがね。それに、武器はどこにいった? あの大盾は? 盾で地を抉り、攻撃に変えるなど、奇想天外もいいところだ。ともあれ、双璧を追い返したからにはしばらく奴らもなりをひそめるだろう。街を救ってくれた相応の礼をせねばならんな。疲れてはいると思うが、詰め所まで足を運んでくれるか》
すると意外にもここでニコラがぴしりと断言した。踵を返しかけていたマウリツィオは何事かと彼女を見た。
《まだ終わらないわ》
彼女は目を海の方へ向け、どこか哀しげにも見える面差しになって続けた。
《「双頭の海蛇」が敗れたと知れば、彼は必ず来るわ。ドゥアハとエドゥルは部下であり、同時に彼のよき友なんだもの。友の無念を晴らしに来ないはずがないのは、あんたもわかっているはずよ。そうでしょ、私とあんたとギサロは子供時代からいつも一緒に遊んで、笑って、悪戯をして回った幼馴染みなんだもの》
マウリツィオは、この彼女の言葉に心乱されたかのように突然表情を険しくさせ、
《お前、何か馬鹿なことを考えてやしないだろうな?》
ニコラは大きく肩をすくめ、素っ気なさすぎるほどの口調で応えた。
《私にできることがあるのならするかもしれないし、それはあんたにとやかく言われる筋合いじゃない。あんたも自分の仕事に戻ったらどうだい。私ならギサロがやってきた時を想定して、港湾区から住民を避難させるけれどね。それと、そこに山となってる魚人どもを海に戻すね》
ニコラの言い分はもっともなことだったので、マウリツィオは衛士たちに指示を飛ばし、最後に四人に向かって言った。
《もしギサロ…マーフォークの族長の名だ…がやってくるとしたら、第一の目的は君たちへの報復だ。ギサロは先ほどの「双頭の海蛇」と呼ばれる魚人とは比較にならないほど強い。奴が本気を出せば、この街などあっという間に灰塵と化すだろう。着いて早々の君たちを街の存続を賭けた争いに巻き込んでしまい、申し訳ないとは思うが、どうかギサロを止めてくれ…なんと言っても、彼は私の友なのだ》
最後の一言には微妙なニュアンスが含まれていたが、四人はあっけないほどに頷き返していた。そんな彼らを見、マウリツィオは僅かに苦笑に唇を歪め、
《イーディアスが肩入れした理由がわかりかけてきた気がする…君たちならやれるかもしれない》
《当然だね》
大牙がけろりと言う。
龍児が念を押すように言った。
《住民もそうですが、衛士の方々や冒険者もここから遠ざけることをお勧めします。被害は最小限にとどめたいのです》
《わかった。この場は君たちに任せよう。ギサロが来ないと見切りをつけたら、まずは詰め所に来てくれ。いいかな》
了解の頷きを返した四人は、玄人が破壊した石畳の石くれを蹴飛ばしたり、岸壁の下の海底にまだ沈んだままの魚人を見つけたり、場違いにチョコバーをもぐもぐとしながら、その時を待ち構えるのだった。そしていつの間にか、ニコラの姿はその場から消えていた。そのことに四人は気づいていなかった。