霧の谷へ
トラハの街中から途切れることなく続いた黄色い街道を、鵺は足早に歩いていた。
切り立った山の間にある霧の谷へは長い登り道を行くしかないが、涼しい顔で滑るように登っていく。
他に道を歩く者はなく、街へたくさんの野菜や穀物を積んで運ぶ馬車と時々擦れ違うだけだった。
本当はトラハで一泊してから発つ段取りだったのだが、力を失った今の状況を考えると人の群れの中で眠るほど危険なことはないと思えた。
それに、アルファルドがいつ誰に見つかるとも限らない。
それならば、急ぐに越したことはないだろう。
日暮れまでに霧の谷まで行くのはまず無理だが、途中の山で夜を明かせばいい。
鵺は、とにかく目的地を目指してひたすら進むことにした。
石造りの街道は次第に細くなり、馬車と擦れ違う時には端に避けなければならなくたった。通過待ちをしている間に後ろを振り返ってみれば、トラハの街はもうかなり小さく見えたが、それでもまだまだ先は長い。
ぶら下げた籠を鳴らしながら、空いた道を再び黙々と歩き出した。
しばらく行くと宿屋の女から聞いていた分かれ道が見えてきた。一方は細い街道が続き、もう一方は舗装されていない山道だ。
鵺はそのままの速度で山道へ入っていった。
女の話によれば、あとはこのけもの道ともいえる山道を、道なりにずっと登っていけば霧の谷へ辿り着く。
そこからマリーの家までは自分でなんとかする他ないが、わずかな時間でありったけの情報を得られたのは大きく、予定よりも大分早く辿り着けそうだった。
街道から少し山に入っただけで、周りの印象ががらりと変わった。
空を塞いだ木々からは柔らかな木漏れ日が差し、空気もひんやりと澄んでいる。先ほどまでは遠かった鳥のさえずりもすぐ傍で響き渡り、この辺りは魔獣も滅多に出ないためかたくさんの動物の気配がした。
街道と比べ足場は悪いが、人の気配のないこの道は鵺にはかなり歩きやすい環境で、自然に足を進めることができた。
日も傾いてくると山は肌寒いくらいに涼しくなった。
茜色に染まり始めた空は相変わらずよく晴れていたが、日の暖かさはもう感じられない。木々が今日最後の陽光を浴びる頃には、足元も見にくくなってきた。
外灯などもちろん無い山道は、夜になれば真っ暗になる。今日はここまでにして寝場所を探すことにした。
鵺は立ち止まり、耳に神経を集中する。さわさわと葉の擦れる音がした。
その音を意識から消してさらに耳を澄ませると、水の流れる音が聞こえた。
山道から横にそれたそこへ向きを変え、生い茂った草木を掻き分けて入っていく。
かすかに聞こえただけの水音が確かなものになり、小川を見つけた。
ひらけた場所を探して鶏の入った籠を置くと、やっと自由になった両手で小枝を集め手際よく火をおこす。その頃には辺りもすっかり暗くなり、空には無数の星が浮かんでいた。
鵺は焚き火から少し離れた所へ腰を下ろすと、コートの腰ポケットからトラハで買っておいた食料を取り出した。それを手で少し折り、折った欠片を籠の中へ放り込むと、鶏は確かめるように何度かつついてから食べ始めた。
食事にしては質素過ぎるその粉っぽい塊を、水で無理やり流し込んで鵺も腹を満たす。
食事が終わると小川で水を補充し、焚き火を消した。火を残しておけば獣除けにはなるのだが、夜は闇に目を慣らしておくのが習慣になっていた。
感覚はまだ戻らないが、いつも通りにした方が無難だろう。
唯一の灯りを失って闇に包まれると、人であれば恐怖を感じるであろうその暗さの中で、鵺は短く息を吐いた。
ここでは姿を隠す必要はない。
フードを外せば、湿った髪を心地好い風が揺らした。
鵺は少しだけ目を閉じて風を感じてから、籠を持って今夜の寝場所に決めた木の元へ歩み寄った。
安定したその根本へ籠を置いて自分もその横へ座り、幹に身体を預けて静かに目を閉じた。
深夜と呼べる時間帯になった頃だろうか、鵺は忍び寄る気配に気付き目を開けた。隣では自分よりも早くそれを察知した鶏が、しきりに首を動かしている。
いつの間にか登った月がぼんやりと辺りを照らす中、鵺は音を立てずに立ち上がり銃をコートから取り出した。
やはりまだ調子が悪いらしい。いつもならこんなに近づく前に気付くはずだが、既に取り囲まれていた。
まだ気配は遠いが、おそらく野犬の群れだろう。
鵺は鶏の入った籠を持つと、助走もなしに脚力だけで木の幹を蹴って枝に登った。
逃げられると判断してか、野犬たちは陰から飛び出してきて木を取り囲む。しかし、鵺の方が一枚上手だった。
登った枝はこの木が持つものの中では一番低いものの、地面からはかなりの高さがあり、野犬たちがいくらジャンプして爪を伸ばしてもかすりもしなかった。また幹はすべらかで凹凸もあまりなく、登ることもできない。
鵺はこういうときのためにこの木を選んでいた。
下で跳び跳ねる野犬たちを無視して太い枝に腰を下ろし、再び幹に背中を預けると威嚇のために一発だけ地面に撃ち込んだ。野犬は散り散りに逃げ、それでも離れた所から諦めきれずにこちらの様子を伺っていたが、しばらくして遠くから遠吠えが聞こえると一目散にそちらへ向かって駆けていった。
きっと他に獲物を見つけたのだろう。
鵺は銃をしまってぶら下げていた籠を片腕で抱えると、そのまま木の上で再び眠りについたのだった。
翌朝、空が白み始めるとすぐに、鵺は木から飛び降りて再び歩き始めた。鶏は朝だというのに鳴くこともなく、やはり籠の中でおとなしくしている。
軋む籠の音だけを残して山道へ戻った。
緑の多かった土の道も高度が上がるにつれて石が増え、次第に岩場になってきた。
山に挟まれた谷は年中雨が通るために崩れやすく急勾配だったが、極端に歩きにくくなったその道を、それでも変わらない速度でひたすら登っていく。
気温もこれまでに比べ寒いくらいになると、あれほど感じた生きものの気配も無くなり、そのうちに周囲から緑も消えて単調な景色になっていった。その頃からか、辺りに薄く霧が立ち込めているのに気付いた。
日は一番高い位置に昇っていたが、進むにつれ段々と濃くなる霧のせいで視界は悪くなっていき、遂に霧の谷に着いたことを知らせた。
しかし問題はここからだ。
この霧はマリーの家を包み込み、辿り着けないように魔術が施されている。包むということはこの中に家があるとみて間違いはないだろうが、まっすぐ進んでも霧からすぐに出てしまうか、死ぬまで霧の中をさ迷うことになるという話だった。
鵺はしばらく足を止めて考えていたが、とりあえずそのまま進んでみることに決めて、霧の濃くなる方に向かって歩き出した。
足元すら隠してしまう濃い霧の中を慎重に進み、白一色の世界に埋もれた。




