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喧嘩のあとは(ダニエル×風花)

 今にも降り出しそうな曇天のような雰囲気をまとって、風花は職場でパソコンに向かった。

 朝からずっと、こんな感じだ。

 今日は課長に嫌なことを言われたわけではない。自己嫌悪に陥っているのだ。


(……ダニエル、怒ってるよね)


 今朝の出来事を思い出して、風花の気分はズーンと沈んだ。沈んでも、タイピングの手は止めない。ぼーっとしている暇はないのだ。

 ダニエルと喧嘩をしてしまったのも、その多忙さが原因だ。


 

 通常、今の時期は風花の所属する課は忙しい。それなのに、課長が安請け合いして関連部署からさらに仕事を引き受けてきたのだ。その上、課全体の忙しい雰囲気に気圧され、その仕事を引き受けてきたことをすぐに切り出せず、締切ギリギリにようやく発覚した。課長の口から打ち明けられたわけではないのが問題なのだけれど、そんなことを言及する余裕もなかった。

 とにかく締切までに終わらせることに必死で、課のメンバーたちは課長への怒りを胸に秘め、ただひたすら手を動かした。その仕事に加え通常の業務もあるため、時間内には終わらない。

 だから、当然のように風花たちはここ数日ずっと残業を続けている。それだけでは間に合わず、朝もいつもより早く出勤しなければならなかった。


 そんな生活を続けていたため、風花は少しずつ弱っていった。それを見かねて、ダニエルはかいがいしく風花の世話をした。


「風花、まずは湯に浸かって疲れをとったらどうだろうか」

「酒とつまみだけでは身体に悪い。何か食べなさい」

「必ず起こしてやる。だから、あと少し眠っていきなさい」

「様々な野菜をすりつぶして裏ごししてスープにしてみた。せめて、出勤前にこれだけは飲んでいってくれ」

などなど……。


 どの言葉も、ダニエルが風花を思ってのことだというのはわかった。それに、正しいこともわかっていた。

 けれど、激務のときはとにかく休みたいし、少々生活が乱れても大目に見て、消費エネルギーを最低限にして生きていたい。

 それなのに、ダニエルに心配されて、「忙しくても、何とか食べることと休むことはちゃんとしてくれ」だなんて言われると、まるでだらしのなさを指摘されたように感じたのだ。


「もう! 私のことは放っておいて!」


 ほとんど八つ当たりのように、風花は言ってしまった。

 疲れ果て、正しい判断ができなかったとはいえ、それは言ってはいけないことだった。でも、疲れていたからこそ、少しそっとしておいてほしかったのも本音だ。


「そうか。すまなかった」


 理不尽な言葉をぶつけられたにも関わらず、ダニエルはそう言っただけだった。そして、寝室のドアの向こう――自分の世界へと戻っていってしまった。

 すぐに追いかけて謝るべきだったのだろう。でも、少しでも早く会社に行かなければならなかった。

 だから、後ろ髪引かれる思いで出勤し、今に至るというわけだ。



「三井さん、進捗どう?」


 夕方、マグカップを手にやってきた先輩社員に問われた。差し出されたそれをひと口すすると、中身はなんと梅昆布茶だった。コーヒーかと思っていたから一瞬驚いたものの、そのあたたかさとしょっぱさはまともに何も食べていなかった身体にしみわたり、ほっと安心した。


「八割方、終わった感じです。なので、今夜もうひと踏ん張りすれば、全部終わります」

「おー、頑張ったね。じゃあ、今日は定時に上がっちゃおうか。何か、課長がみんなにネギを配ってるから、それ持って帰ろうよ」

「え?」


 先輩の言葉に、風花はさらに身体から力が抜けた。定時で帰っていいと言われるなんて思っていなかったし、課長がネギを配っているというのも、まるで意味がわからない。


「……帰って、大丈夫なんですか?」

「うん。チーフがいいって言ってるし。ここ数日、みんなかなり無茶したでしょ? だから、目途がついた人には帰って休んでもらおうって。うちの繁忙期はまだ続くわけだから、ここで一旦疲れをリセットしないと」

「そうですね。……ネギの意味は?」

「課長なりにいたわってるんじゃないの? ほら、風邪にはネギが良いっていうから、みんなの身体を気づかったつもりなのかも。この事態を招いた責任は、一応感じてるんだろうね」

「課長に、そんな機能ついてたんですね……」


 疲れた頭ではいまいちよくわからなかったけれど、とにかく今日は早く帰れるらしい。

 嬉しいと思うと同時に、ダニエルと仲直りしなくてはという考えが頭をよぎる。


(朝のこと、ちゃんとごめんなさいって言わなくちゃ。それといつもお世話してもらってるお礼もかねて、今夜の食事は私が作ろう!)


 そう決意して、風花は仕事を再開した。

 終わりの目途がついたといっても、まだ繁忙期の真っ只中だ。いつイレギュラーが発生するかわからない。こういうときは何か起こる前に、すり抜けるように退勤するのが一番だ。




「ただいまー」


 何か押しつけられる前にとっとと帰ろうと猛スピードで仕事を終わらせ、風花は急いで帰宅した。途中でスーパーに寄って、夕飯の材料も買い込んできた。

 だから、帰ってきたらダニエルにきちんと謝って、それから支度して一緒に食べようと思っていたのに。

 ダニエルは、風花の部屋にはいなかった。


(……もしかして、完全に帰っちゃったの……!?)


 不安になって、風花はあわてて寝室のドアを開けた。


「よかった……」


 それは杞憂で、彼の世界とこちらをつなぐドアはまだちゃんとそこにあった。

 でも、ほっとすると同時にそのドア一枚に隔てられているだけでダニエルがうんと遠くに行ってしまったような気がして、寂しくなった。

 ノックして、このドアを開けて謝ればいいのはわかっている。それなのに、あと一歩の勇気が出せなかった。

 ふとしたきっかけで知り合って親しくなっただけで、ダニエルと風花は恋人でも何でもない。風花はダニエルのことが好きだし、ダニエルも憎からず思ってくれているのが伝わってくるけれど、それをはっきり言葉にしたわけではない。

 そんな相手に甘えきりになってお世話をしてもらいっぱなしになっていたなんて、今考えると、とんでもないことだ。今朝のことで愛想を尽かされたとしても、何の不思議もない。


「……ご飯、作らなきゃ」


 ひとまず夕飯の支度をしなくてはと、風花はキッチンに立った。

 課長にもらったネギと、買ってきた白菜とシメジ、エノキ、シイタケ、豆腐を切る。土鍋には水を半分くらいまで入れて、その中には出汁昆布を浸しておいた。

 骨つきの鶏肉のぶつ切りと先ほど切った材料を鍋に入れ、蓋をして火にかければほとんど完成だ。

 風花は料理はからきしだけれど、それでもひとり暮らしをしていくには、ある程度何かを作れなくてはやっていけなかった。それで覚えたのが数々のおつまみと、鍋料理だったのだ。

 せっかくだから、ポン酢も手作りすることにした。といっても、醤油と穀物酢と柑橘果汁とみりんを混ぜるだけだ。

 野菜室を開けると、少し萎びた柚子があったから、それを半分に切って丁寧に搾っていく。

 くつくつと煮立っていくごとに、出汁と野菜の煮える良い匂いが漂ってきた。それを嗅いで、風花は空腹を自覚するとともに、鼻の奥がツンと痛むのを感じていた。

 どれだけ美味しくできたとしても、もしかしたらひとりで食べなくてはならないかもしれないと思ったのだ。

 謝っても、ダニエルは許してくれないかもしれない。もう、あのドアの向こうからこちらへ出てきてくれないかもしれない。

 そう思うと、涙がじんわりにじんできた。


「……っ、いけない」


 涙をあふれるままにしていると、雫がポツリとポン酢の器に落ちてしまった。さらに鍋がシューシューと蓋を押し上げるほど煮立ってきた。

 あわてて火を止めて、涙を拭った。それから少し考えて、寝室へと駆けていった。


「ダニエル、今朝のこと、ごめんなさい。疲れたからって、八つ当たりしちゃって……本当に、申し訳ないです。それで、お詫びというわけじゃないんだけど、晩ご飯作ったから、一緒に食べよう……?」


 ドアをノックしてから、風花はそう訴えた。ドアノブをひねって開ける勇気は出なくて、言っているうちにまた涙があふれてきて、ポロポロとこぼれ落ちていた。


(好きな人に嫌われたかもって思うだけで泣くなんて、変だってわかるけど、仕事で疲れてるせいだってわかるけど……でも、涙が止まらないよ……)


 気がつくと風花の涙が止まらなくなって、えぐえぐとしゃくりあげていた。


「フウカ……どうしたんだ? まさか、空腹のあまり泣いているのか!?」


 ふいにドアが開いて、ダニエルが現れた。ダニエルは風花が泣いているのに気づくとギョッとしたけれど、すぐに心配そうな顔になって風花の頭を撫でた。

 撫でられながら、風花は首を振る。


「……違うの。ご飯作ったから、一緒に食べてほしい」


 嗚咽混じりに、風花はやっとのことでそう言った。



「私が怒って、それで部屋に帰ったと思ったのか?」


 鍋の湯気の向こうから問われて、風花は頷いた。それから、ティッシュでちーんと鼻をかむ。


「怒ったりなど、するものか。私はむしろ、疲れているフウカに自分の心配を押しつけてしまったのではないかと反省してな……寮の自室に帰って、効率よく疲れを取る方法や短時間の高濃度安眠を魔術で実現できないかと考えていたんだ。結局、香油やハーブ、子守唄という古くからの方法が一番という結論に至ったのだが」

「……ダニエルぅ……」


 ダニエルの言葉を聞いて、風花はまた泣いた。

 風花の理不尽さに怒らないだけでなく、そんな風花のことを心配していろいろ考えてくれていたなんてと感激したのだ。


「もう泣かなくていいから、食べなさい。ほら、取り分けたから」

「うん、ありがと……ふふっ」


 具材を取り分けてもらった小鉢を受け取って、風花は思わず笑ってしまった。ダニエルの眼鏡が、湯気に曇っていたのだ。

 眼鏡が曇って目元が隠れると、端正なダニエルがまるで漫画のモブみたいになってしまう。それがおかしくて、風花は笑ってしまった。

 でも、そんな無防備な姿を見られてほっとして気が緩んだのが、何より大きかった。


「……かっこ悪いところを見られてしまったな。眼鏡の曇りを防ぐような単純に思える魔術ほど、実は難しいんだ」

「じゃあ、今度は曇りを防止するクリーム、買ってくるね」

「頼む」


 眼鏡を外して曇りを拭いながら、ダニエルはきまり悪そうに言う。そうして眼鏡を外すと目元の鋭さが少しやわらいだ気がする。

 ダニエルの素顔を見られたということに、風花の胸はキュンとなった。ささいな、何てことないことだ。でも、そんなささやかな出来事を好きな人と共有できていることが、とても幸せだ。


「眼鏡が曇っても、ダニエルはかっこ悪くなんてないよ」

「ん?」


 しばらく黙々と鍋をつついてから、ふっと風花は吐息をもらすように呟いた。ついこぼれたというその言葉を聞き逃したダニエルは、わずかに首を傾げた。

 向かいから見つめ返してくるその顔があまりに優しくて、風花の胸はまたやわらかく締めつけられた。


「私ね、ダニエルが好きだなって言ったの」


 好きの気持ちが高まって思わず風花が口にすると、ダニエルは一瞬驚いた顔をして、それから破顔した。そして風花のほうに身を乗り出し、その唇を塞いだ。


「……私も、フウカが好きだ。思えばお互い、口にしたことはなかったな」

「そ、そうだね……」


 不意打ちにあわてる風花を見て、ダニエルはちょっぴり悪い顔をする。それからおもむろに眼鏡をかけ、再び近づいてきた。


「な、何するの……?」

「先ほどはフウカの顔がよく見えなかったからな。今度はきちんと眼鏡をかけて、それから口づけたい」

「……!」


 照れもせずに言うダニエルの分まで風花は照れて、真っ赤になった。けれど、土鍋の蓋を手に、ギリギリのところでガードした。


「あの……眼鏡をかけるのは、もう少しあとにしない?」

「なぜ?」

「お鍋にご飯を入れて、シメの雑炊にするから、また曇るよ?」

「……わかった」


 必死に抵抗する風花を見て、ダニエルはおかしそうに笑った。


「じゃあ、シメにするか。……ゾウスイを食べたら、眼鏡をかけるからな?」

「……うん」


 眼鏡を外して微笑むダニエルに、風花は小さく頷いた。

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