七月一三日
七月一三日、この日はとても暑い。去年も一昨年も、その前もずっと暑かった。景色は波打ち、反射光が痛いぐらい眩しい。
病院前に西洋風の小洒落た喫茶店がある。店の奥には重々しい木製のカウンターがあり、窓際には組木細工で出来たテーブルが並べられ、麻と木だけで編まれた椅子が何脚も配置されていた。流れている音楽は、クラシックだろうか、静かな音楽が控えめな音量で流れている。
店内には客が一人、窓際の席に座っている。少し茶色い髪を三つ編みし、黒縁眼鏡をかけたセーラ服の女の子だ。分厚い眼鏡の奥に見えるつり上がった瞳は、獲物を追う猫のように手元の本の上を忙しなく動いていた。
クーラーのかかった店内でお気に入りの紅茶を飲みながらの読書は、三つ編みにとって数少ない楽しみの時間である。しかし、今日はその楽しみに没入できていなかった。誰か待ち人でもいるのだろう、何度も窓の外を覗いては肩を落としている。
「あ」
三つ編みが温くなった紅茶を両手に持った姿勢で固まった。
窓の外で野球部がドミノ倒しの様に倒れたのだ。イガグリ頭の白い一団の雪崩が歩道いっぱいを占有している。誰かがガードレールに当たった。上半身が車道に放り出される。
三つ編みの脳内でけたたましいクラクションが再生され、涼やかな鈴の音が店内に響いた。鈴の音の方へ首を回すと、痩せ細った男が笑顔で手を振っている。髪を茶色に染め、白いワイシャツを少しだらしない風に身に着けており、軽い感じのする男だ。
男は自然な様子で、三つ編みの対面に座る。
「御堂さん、お待たせ」
男はざらついた声で言った。
「遅い」
御堂と呼ばれた三つ編みは、目を細めて睨み付ける。
「ごめん、ちょっと手間取ってね」
男は軽い微笑で受け流し、メニューを開いた。お冷を持ってきた店員にコーヒーを頼む。
男の注文に御堂は眉をしかめる。コーヒーは匂いが強すぎて、紅茶の香りを消してしまうからだ。
御堂の気持ちを知ってか知らずか、男は朗らかな声で礼を言う。
「今日は来てくれてありがとう。最近、忙しいって聞いたから、断られたり、すっぽかされたりしたらどうしよう、て思ってたんだ」
「最初はそうしようかな、て思ったけど」
御堂を一瞬ためらってから、続けた。
「大切な用事なんでしょ」
御堂の胸が早鐘の様になる。鐘音は次第に大きくなり、何度も反響していった。
「うん、そうなんだ」
男はそこで言葉を区切ると、顔を横にそらす。
御堂も男に釣られて横を向くと、倒れた野球部員たちが見えた。御堂の心臓が脈動した。
男は御堂に向き直ると、ゆったりとした口調で尋ねる。
「二年前、君は悪魔部に何をお願いしたのか教えてくれないか?」
「え、何を言ってるの、日高君?」
御堂はとぼけて見るが、声は震えていた。
「惚けなくてもいいよ。御堂さんが、俺、日高ケンジを助けたのは、悪魔部からの指示なんだろ?」
男、ケンジはワイシャツの胸元を開く。服の隙間から見える肌一面に、何かにすりつぶされたような痕があった。事故の痕だ。二年経っても痕は薄くなる気配すらなかった。
二年前、コウセツの病院に絶縁状を届けた帰り、ケンジは車に轢かれた。車はブレーキを掛けていたが、普通なら死んでいた。とても衝撃的な光景だった。この時、いち早くケンジに駆け寄った人物が、御堂だった。
至近距離で事故を見ていた御堂は、車の奏でる耳障りなスリップ音やアスファルトの匂い、日差しの作る影の濃さまで詳細に思い出せる。
ケンジが生き残れたのは三つの幸運があったからだ。一つは車がオフロード用で車高が高く、人一人分位なら入り込める隙間があった事。一つはケンジが死を覚悟して体中の力を抜き、アスファルトにぴったり張り付いていた事。一つは車が中途半端な位置で止まらず、通過した事。
これらの三つの幸運により、ケンジは車の前後輪に胸を押し潰されるだけですみ、手早く治療を受けることができた。
もし、車の車高が低かったり、ケンジが車から逃げようと体を起こしていたら、車のバンパーと衝突していた。良くて内臓破裂、悪ければ脳内出血で死んでいた。
もし、車が通過せず、ケンジの真上で止まっていたならば、車体の下から引きずり出す必要があった。そんな事をしていたならば、手遅れになっていた可能性が高い。
「だから、何言ってるのかわからないわ。あの事故の時、私はたまたまあの場に居ただ」
「雨粒の理論」
ケンジの一言で、御堂は言葉に詰まった。
「例えば、今、この町に雨が降ったとして、そこの道路に雨が降らない事はないだろ。確かに雨粒の殆どはその道路に降らないけど、雨が道路に降らないことにはならない。
まぁ、実現する確立がどれだけ低くても、試行回数が増えれば、いつか必ずそれは実現する、そう言う事だね」
例えば、ここに十個のサイコロがあったとする。この十個を転がして、すべて一が出る確率は六分の一の十乗、つまり六千四十六万六千百七十六分の一だ。殆どおきる事はない。しかし、六千四十六万六千百七十六回、サイコロを転がせば必ず一回は出てくる。雨粒の理論とはそういう理論だ。
「ちょっとした数学的な話……あ、ありがとうございます」
ケンジはさり気なく出されたコーヒーを手に取り、店員に頭を下げた。店員は小さく会釈すると、ゆっくり立ち去っていく。店員が十分遠くに離れたところで、ケンジは再度口を開いた。
「後、占い師の詐欺、オリエント急行殺人事件」
聞き覚えのあるフレーズが御堂の耳を叩く。唾を飲み込もうとするが、口の中がかさついて飲み込む唾がなかった。
「かなり巧妙な手口だけど、君だけは特別なんだろう? そうでなきゃ可笑しい」
御堂は深々とため息をついてから、ティーカップに口をつける。温くなった紅茶で口内の渇きを癒し、自嘲気味に笑った。
「凄い執念、よく調べてるよ。降参」
御堂を両手を上げて降伏する。もう、ケンジは悪魔部の手口を理解しているのだろう、これ以上誤魔化しても、不利にしかならなかった。
「何で分かったか、教えてくれる?」
「携帯、あの白い携帯が無くなってたから。あの事故のドサクサにまぎれて君が盗ったんだろう?」
御堂は失敗したなぁ、と思いながら、苦笑する。あの携帯だけは回収しなくてはいけなかった。あれは悪魔部が存在した明確な証拠になってしまう。それだけは防がなくてはいけなかった。しかし、やり方が強引過ぎた。別のチャンスを待つべきだったのかもしれない。
呆れの混じった声色が御堂の口から漏れた。
「よく、そんな事で気づけたね」
「色々あったからなぁ。それで調べたんだ」
ケンジが過去を見つめる様に、天を仰いだ。
「二年前の野球部、大会途中の練習でエースが怪我をして三年生の補欠が代わった。
駅前の風俗店の一斉捜索があったのも二年前だ。
二年前の夏休みに俺の家の近くでボヤ騒ぎもあったなぁ。
他にも俺が気づいていない仕込みを沢山したんだろ?
携帯を手に入れる為に」
「うん、そう」
御堂はあっさり頷く。
「悪魔部の手口が分かっているようだから少しだけ弁解させて貰うわ。
願いを叶える為に色々と仕込みはするけど、結果を誘導させているわけじゃないの。だから、結果は本当に偶然。
誰も予想していなかった事もあったし、悪意を持ってやったわけじゃないわ。
特に、日高君の胸の傷は痛恨のミスだった。本当なら、どれだけ運が悪くても、車道に倒れたところを私が助けてお終いだったの」
ごめんね、と御堂は呟いた。
「だから、あの事故の時は本当にビックリした。ショックだったわ。
それが原因ね。今でも日高君と友達なのは」
ケンジは視線を御堂に戻して言う。
「俺はさ。あの事件の真相にはそんなに興味はないんだ」
鋭い視線が御堂の心を打ち抜いた。
「あれは俺たち四人の問題だった。確かに悪魔部から色々な干渉はあったけど、どれも大したものじゃない。
俺を含めて皆、他人を蹴落として幸せになろうとしたから起きた事件だ。だから、俺は誰かを責める気はないし、真相を暴く気もあまりない。答えあわせ位はしたくて、格好つけたけどさ。
知り合いに真相を突き止めようとしている奴も居るけど、そいつに協力する気はない。
ただ、御堂さんが何をお願いしたのか、知りたいだけなんだ。
二年前の事件の要素で、君は特に何か願いをかなえて貰って様には思えない。
この二年間調べてきた中で唯一知りたい事はそこだけなんだ。
教えてくれないか?
大丈夫、レコーダーなんて持ってない」
ケンジは、なんならボディチェックでもしてみる、とおどけて笑って見せた。
御堂は首を小さく左右に振ってから、恥ずかしそうに呟く。その声はとても軽く、罪悪感の欠片もなかった。
「駅前にあるレトワールのデラックスジャンボパフェ」




