エピローグ「正解じゃなくても」
数日後。
また、新しい振付が始まっていた。
「はい、そこ一回止めます」
振付の先生の声で、音が切れる。
冬城律はその場で息を整えた。
まだ振入れの途中。
動きも完全には身体に入っていない。
先生が何人かに修正を入れていく。
そして。
「律」
「はい」
律が顔を上げる。
「ここ、今の形でも間違いじゃないんだけど」
「はい」
「律なら、どうしたい?」
ほんの一瞬。
身体が止まる。
以前なら。
ここで先生の表情を見ていた。
何を求めているのか。
どちらが正しいのか。
先に答えを探していた。
でも今日は。
律は何も聞かずに、もう一度その振りをやってみた。
一度目。
今まで通り。
二度目。
少しだけ手を低く入れて。
そこから強く出す。
「あ」
小さく声が漏れる。
先生が待っている。
律は少し考えてから言った。
「私は、こっちでやってみたいです」
「うん。どうして?」
理由。
頭の中には。
すぐにいくつも浮かぶ。
音との相性。
腕の軌道。
全体の見え方。
歌詞。
でも。
今、自分がそれを選んだ理由は。
たぶん。
もっと単純だった。
「……こっちの方が好きだからです」
少し離れたところで。
「おお」
という声。
律が横を見る。
凪野乃々香が、にやにやしていた。
「何」
「言えるじゃん」
「何が」
「好きだから」
「別に普通でしょ」
「前の律なら絶対言わなかった」
「またそれ」
「りつまるこっぺ、成長したねえ」
「その名前で成長を語らないで」
近くにいた新宮楓花が笑う。
「でも、本当に変わったよね」
律は少し眉を寄せる。
「楓花まで」
「前だったら、先生に聞き返してた気がする」
「何を?」
「どっちがいいですか、って」
律は。
少しだけ黙った。
「……そうかも」
乃々香がすぐ反応する。
「認めた!」
「うるさい」
また笑いが起きる。
律も。
少しだけ笑った。
◇
休憩時間。
楓花が鞄の中を探していた。
「あれ」
律が気づく。
「何探してるの?」
「イヤホン」
「右の小さいポケット」
楓花が止まる。
「なんで分かるの」
「さっき入れてたから」
ポケットを開ける。
「あった」
「でしょ」
乃々香が横から顔を出す。
「出た、楓花専属家政婦」
律はすぐ返す。
「まだ専属じゃない」
「なるつもりなの?」
「本人の許可が出れば」
楓花が吹き出す。
「本当に来そうだから怖い」
「行くよ」
即答。
「掃除もするし」
「え」
「洗濯もする」
「え」
「冷蔵庫も整理したい」
乃々香が笑う。
「重い重い!」
律は真顔のまま続ける。
「生活動線も見直したい」
「もう家政婦じゃないじゃん!」
楓花も笑いながら聞く。
「それって愛情なの?」
律は少し考える。
昔なら。
冗談にして逃げていたかもしれない。
でも。
「……両方」
「何と両方?」
「愛情と業務改善」
一瞬。
沈黙。
そのあと。
乃々香が大笑いした。
「やっぱりりつまるこっぺだ!」
「どういう意味」
「分かんない!」
「じゃあ使わないで」
言いながら。
律も笑っていた。
◇
レッスンが終わる。
律はいつものようにノートを開いた。
修正点。
カウント。
立ち位置。
気づいたこと。
細かく書いていく。
それは。
何も変わっていない。
たぶん。
これからも変わらない。
分からないことは調べる。
できないことは練習する。
何度も確認する。
準備する。
そこまで書いて。
少し前のページをめくる。
『乃々香――昨日より好き』
『好きだから選ぶ』
『違ったら直せばいい』
『怖くないのかな』
『なんとなく』
全部。
そのまま残っている。
律は少しだけ笑った。
新しいページ。
一行だけ書く。
『正解じゃなくても、選べる』
ペンを止める。
少し考える。
その下に。
『間違ってたら、その時直す』
「それ」
声がした。
律が顔を上げる。
乃々香が立っている。
「見ないで」
「見えた」
「最悪」
乃々香は隣に座る。
「私が言ったやつじゃん」
「そうだっけ」
「絶対覚えてる」
「証拠は?」
「私」
「弱い」
「ひど」
乃々香はノートを見る。
「でもさ」
「何」
「律、正解探すのやめたわけじゃないんだね」
律はすぐに答えた。
「やめないよ」
「そっか」
「だって、それも私だから」
乃々香が少しだけ笑う。
「うん」
律はノートを閉じる。
「準備した方が安心するし」
「うん」
「考えた方がいい時もあるし」
「うん」
「なんとなくだけじゃ困るし」
「最後いらなくない?」
「いる」
「まだ禁止なんだ」
律は一瞬。
考える。
「……全部は禁止しない」
乃々香が目を見開いた。
「え」
「何」
「今なんて?」
「聞こえたでしょ」
「律が“なんとなく”を許した!」
「一部だけ」
「歴史的瞬間!」
「大げさ」
乃々香が立ち上がる。
「楓花ー!」
「やめて」
「律がー!」
「本当にやめて!」
律も立ち上がる。
乃々香が逃げる。
律が追う。
その先で楓花が振り返る。
「何?」
「聞いて! 律が――」
「乃々香!」
笑い声が広がる。
律も。
追いかけながら。
笑っていた。
デビューした頃。
こんな自分を。
想像したことはなかった。
でも。
それを確かめるために。
もう昔の自分と比べる必要もなかった。
今ここで笑っている。
それだけで。
十分だった。
◇
最後の一人になったレッスン場。
律は照明を消す前に。
一度だけ。
鏡の前に立った。
あの日と同じ場所。
先生に。
「律が見えない」
と言われた場所。
鏡には。
いつもの冬城律が映っている。
別人にはなっていない。
きっと明日も。
何か分からなければ調べる。
ノートも書く。
正解を探す。
迷う。
怖くなる。
それでも。
答えが見つかるまで。
ずっと立ち止まることは。
もうしないと思う。
「りつまるこっぺー!」
廊下から声がした。
「帰るよー!」
律は鏡から目を離す。
「今行く」
「早くー!」
鞄を持つ。
ドアへ向かう。
途中で。
少しだけ足を止めた。
「乃々香」
「なにー?」
「その名前」
「りつまるこっぺ?」
少し考える。
以前なら。
意味が分からない。
やめて。
そう言っていた。
でも。
今は。
「……まあ、もういい」
廊下の向こうから。
「え!?」
大きな声が返ってくる。
「なんで!? 急に!?」
律は笑う。
理由を考えかけて。
やめた。
「なんとなく」
「今言った!!」
乃々香の声が響く。
律はまた笑う。
そして。
今度こそ。
鏡に背を向けた。
そこに答えがないことを。
もう知っているから。
ーー完




