第5話 ネクロム
都市機能が麻痺し、各避難所は飽和状態。
テレビやインターネットはほとんど機能せず、残されたわずかな通信網から、各国首脳の緊急声明が国民に向けて発せられた。
「…これは、我が国が直面する未曽有の危機である。国民諸君、冷静を保ち、政府の指示に従ってほしい。これより、国家非常事態宣言を発令する。各軍は、直ちに市街地制圧作戦を開始せよ。感染拡大の阻止、および市民の保護が最優先である!」
しかし、その声には、既に隠しきれない焦燥と疲弊が滲んでいた。
絶望的な抵抗。
都市へと展開した各国の軍隊は、地獄のような光景を目の当たりにした。
かつて繁栄を誇った街は、もはや人間と呼べない異形の存在が徘徊する死の荒野と化していた。
ニューヨークのマンハッタンでは、第101空挺師団の兵士たちが、放棄された車両のバリケードを築き、変異者の群れを食い止めていた。
「弾幕を維持しろ! 繰り返す、弾幕を維持しろ! 右翼から多数接近中!」
分隊長の怒号が、自動小銃の連射音に掻き消される。
「HEATラウンドを装填! M2ブラッドレー、目標、正面の群れ!」
しかし、彼らが撃ち倒しても、変異者たちは絶えることなく押し寄せてくる。
‶強化型〟の驚異的な身体能力と、致命的な一撃を喰らってもなお立ち上がり続ける姿は、兵士たちの士気を削いでいった。
変異者の初期型は、通常ゾンビ種と言えるが、ネクロパルス菌の浸食率によって段階的に変容し、より醜悪に、より強力に、より俊敏に、より強靭に、より凶悪に進化した。
もはや、変異者は単なる「ゾンビ」と呼べるものではない。
改めて、NATOを始めとする世界共通のコールサインが決められた。
識別コード──【Necrom】。
「 ヘッドショットだ! 心臓を狙え!くそっ! どこを撃っても止まらねぇ!」
「弾切れだ、リロード!」
ロンドンのウェストミンスター宮殿前では、SAS(特殊空挺部隊)の精鋭たちが、市街地に設置された検問所の防衛にあたっていた。しかし、彼らの洗練された戦術も、無限に湧き出すネクロムの群れの前には限界があった。
「司令部、こちらナイトホーク1! 東部ゲート、突破されました! 市民の避難ルートが危険です!」
無線からは、悲痛な声が響く。
「退却は許可できない! 保持しろ! これが最後の防衛線だ!」
ネクロムたちは、建物によじ登り、下水道を伝って迂回し、兵士たちの防衛網を突破してくる。地獄の業火は、ただただ、無慈悲に全てを焼き尽くしていく。
東京では、自衛隊の普通科部隊が、主要な交差点を封鎖し、市民の避難誘導を行っていた。だが、ネクロムたちの出現は予測不能で、避難ルートのあちこちで惨劇が起こる。
「第一班、西側のビルから飛び降りた! 住民に注意喚起! 広域散開しろ!」
「感染者発見! 識別コード『ネクロム』! 直ちにセキュア・ゾーンへ誘導…いや、もう無理だ! 攻撃許可を!」
軍が投入した化学兵器や生物兵器も、ネクロムには効果がなかった。
菌は周囲の環境に適応し、さらに強力に変異していく。
人類が持つあらゆる兵器は、この生命の法則を超越した存在の前では、無力に等しかった。
絶望的な戦いが続く中、一部の専門家たちは、南極から得られたデータの中に、わずかな希望を見出そうとしていた。
ネクロパルス菌は生命を「分解」し「再構築」するが、そのプロセスには個体差があること。そして、ごく稀に、菌の侵食に「抵抗」する遺伝子を持つ人間が存在する可能性が示唆されていたのだ。
それは、人類が絶滅する前に、この恐るべきバクテリアの真の姿を解明し、対抗策を見出すための、最後の、かすかな希望だった。
しかし、その希望の光は、目前に迫る世界崩壊の闇の中で、あまりにも小さく、儚いものだった。人類は、極氷の深淵から齎された終焉の始まりに、ただ凍え震えるしかなかった。
ネクロパルス菌による世界規模のパンデミックは、人類の文明を根底から揺るがした。都市は機能を失い、軍隊の抵抗も限界に達する。
各国政府は、もはや通常の手段では感染拡大を食い止められないことを悟っていた。残された、究極にして最後の選択肢――それは、核兵器の使用だった。
最終手段としての核攻撃。
「これより、汚染地域に対する戦略的核攻撃を承認する。これは、人類が生き残るための、唯一の道である。目標座標、ニューヨーク市、モスクワ、ロンドン、パリ、ローマ、エルサレム、ドバイ、メキシコシティ、サンパウロ、ニューデリー、北京、ソウル、東京……。」
主要国の首脳たちは、涙を流しながら、この非人道的な命令を下した。
それは、自国民を、自国の都市を、自らの手で灰燼に帰すことを意味した。
だが、ネクロパルス菌の脅威は、それほどのものだった。
世界各地の核ミサイル発射基地から、静かに、しかし確実に、死の光を秘めた弾頭が打ち上げられた。
夜空を切り裂くミサイルの軌跡は、人類の絶望と、文明の終焉を告げる狼煙のようだった。数分後、目標都市の上空で、まばゆい閃光が炸裂した。
轟音と共に、都市は瞬く間に灼熱の地獄へと変貌した。高層ビルは塵と化し、道路は溶岩のように流れ出す。
巨大なキノコ雲が空高く舞い上がり、かつての繁栄の象徴であった大都市は、放射能に汚染された死の灰の下へと埋没していった。
この核攻撃は、確かに感染の一時的な封じ込めには成功した。爆心地近くのネクロムたちは、一瞬にして蒸発した。
熱と衝撃波、そして降り注ぐ放射性降下物は、表面上の菌の活動を沈黙させたかに見えた。
しかし、それは人類が犯した、最悪の過ちだった。
核の冬と新たな脅威の誕生。
ネクロパルス菌は、その驚異的な適応能力と生命力で、人類の最終手段を嘲笑った。核爆発が引き起こした高レベルの放射線は、菌を死滅させるどころか、その遺伝子情報を狂わせ、新たな変異能力を与えてしまったのだ。
空は厚い黒い雲に覆われ、太陽の光は遮られた。地球全体が「核の冬」に突入し、気温は急激に低下する。降り注ぐ放射性降下物は、あらゆる生命を蝕み始めた。
そんな極限環境の中、死んだはずの場所から、再び変異体が現れ始めたのだ。
放射線を浴びて変異した彼らは、その体から不気味な光を発し、皮膚は焼け爛れていながらも、その凶暴性は増して、さらなる汚染と感染を招いた。
さらに恐ろしいことに、核のエネルギーは、ネクロパルス菌に多様な進化を促した。放射線は菌の遺伝子を劇的に変異させ、新たな兇悪で特異な種を生み出したのだ。
彼らは、極限の環境下で、人間が想像もしなかったような形態と能力を獲得していったのだ。
核攻撃は人類の最後の抵抗でありながら、より凶悪なネクロムを生み出した。
しかし、真の恐怖は、その影響が人間や動物だけに留まらなかったことだ。
核の冬が訪れた地球には、ネクロパルス菌の侵食によって形成された、まさしく「混沌の生態系」が跋扈することとなる。
かつて生命が息づいていた地球のあらゆる場所が、異形の生命体に支配されていった。菌に感染した巨大な菌類が、都市の廃墟を飲み込むように覆い尽くした。
高層ビルは、もはや鉄骨とコンクリートの塊ではなく、脈打つような黒ずんだ菌糸の塊と化していた。
そこかしこから、不気味な胞子が煙のように舞い上がり、残されたわずかな空気中に死の粒子を撒き散らす。
この胞子を吸い込んだ者は、瞬く間にネクロムへと変異するか、あるいは新たな菌類の宿主となる運命を辿った。
菌類は、都市の残骸を分解し、新たな有機物へと変換していく。
放射線とネクロパルス菌の複合的な影響は、昆虫にも恐るべき変異を齎した。
通常のサイズを遥かに超え、異様に巨大化した変異バッタは、まるで空を覆う暗雲のように群れを成し、残されたわずかな植物を貪り尽くす。
硬質な外骨格と鋭い鎌状の肢を持つ巨大化したムカデは、地中から現れ、生存者を追い詰める。
彼らは人間を含むあらゆる有機物を獲物とし、その捕食行動は、食物連鎖の頂点にあった人類の立場を完全に逆転させた。
そして、人間以外の動物たちもまた、ネクロパルス菌の犠牲となった。
森の奥で、あるいは都市の片隅で、野生動物が次々と感染し、凶暴な「ネクロム獣」へと変貌していったのだ。
かつてのクマは恐ろしい爪と牙を持つ捕食者となり、群れを成したオオカミは、夜の闇に不気味な咆哮を響かせ、野生の生存者たちをさらに追い詰めた。
彼らは理性を失い、純粋な攻撃性と飢えだけを原動力として行動する。
地球は、もはや人類が知る美しい惑星ではなかった。
それは、災厄神が創造した、グロテスクで生命力に満ちた、新しい死の世界。
このディストピアの中で、人類は、食物連鎖の最下層に突き落とされ、絶滅の淵に立たされていた。
生存者たちは、日々、この異形の生命体から逃れ、食料を探し、わずかな希望を見出すために、必死にもがくことになった。
世界は、もはや元に戻ることのない、真の『世紀末』へと突入したのだった。




