第4話 アウトブレイク
救助チームは、生き残っていたわずかな「罹患者」――初期症状が見られる者、あるいはまだ発症していないが感染の疑いのある隊員たちを収容した。
エミールもその一人で、彼は朦朧とする意識の中で、自身の手の甲に走る青黒い血管を隠そうと、必死にグローブを握りしめていた。
彼らは厳重な隔離カプセルに入れられ、細心の注意を払って搬送される。
同時に、基地内で回収された重要なサンプルや研究資材も回収された。
ネクロパルス菌の発生源である宇宙船の破片、ハーマン教授の血液サンプル、そしてエミールが解析したデータモジュール。
これらは人類が未知の脅威を理解し、対抗するための唯一の希望として、厳重に梱包された。
しかし、ネクロパルス菌は、人類の想像をはるかに超える存在だった。
救助隊は、最高レベルの感染管理プロトコルを適用した。
隊員たちの厳重な消毒、資材の多重梱包、輸送経路の厳密な管理。
だが、それは無意味だった。
ネクロパルス菌は、恐るべき潜伏期間の長さを持っていた。
初期段階では何の症状も現れず、キャリアは通常の人と見分けがつかない。
そして、その感染力は、人間の知るいかなる病原体よりも狡猾だった。
極微量のエアロゾル感染――目に見えないほどの微細な粒子が空気中を漂い、換気システムや衣服のわずかな隙間から侵入する。
あるいは、資材に付着した菌の見落とし――梱包材の微細な傷、回収器具のわずかな隙間に、生き延びた菌の胞子が潜んでいたのだ。
南極からの撤退は、まるで破滅へのカウントダウンだった。
救助ヘリは、罹患者や資材を乗せて砕氷船へと向かい、砕氷船は極地を離れて最寄りの港へと急ぐ。
そして、そこから国際線に乗り継がれた輸送機は、世界各地へと散っていく。
救助チームの勇敢な努力も虚しく、ネクロパルス菌はすでに救助ヘリの機体、輸送機の貨物室、補給船の船倉、そして何よりも、発症していないキャリアである隊員たちの体内へと侵入していた。
それは、見えないまま、人類の主要な交通網を通じて、瞬く間に世界へと拡散していく。彼らが救出したと思っていたものは、実は‶災厄〟そのものだったのだ。
南極からの「救助」活動は、知らず知らずのうちに、「エレシュキガル」が運んできた災厄を地球全土に拡散する最悪のトリガーとなった。
救助ヘリや輸送機、補給船、そして何よりも、初期症状のないキャリアとなった隊員たちが、ネクロパルス菌を世界各地の主要都市へと運び込んでいた。
──大都市ヘの静かなる侵食。
最初に異変が報告されたのは、救助活動に参加した国々の主要都市だった。
ニューヨーク、ロンドン、東京、北京…。
南極から帰還した医療チームや輸送担当者、あるいは罹患者を収容した病院関係者の中から、説明のつかない奇妙な症状が報告され始める。
当初はインフルエンザや未知のウイルス感染症と診断されることが多かった。
しかし、それはやがて、南極でハーマン教授の身に起こった恐ろしい変貌と寸分違わないものへと発展していく。
最初の感染者の体内では、エミールが解明したように、ネクロパルス菌が静かに、しかし確実にその構造を「分解」し、「再構築」するプロセスを進めていた。
倦怠感、発熱、全身の激しい痛み。そして、皮膚の下に浮かび上がる青黒い血管のネットワークが、まるで不気味な地図のように広がっていく。
病院の集中治療室は、原因不明の患者で溢れかえった。
医師たちは首をかしげた。
通常の検査では異常が見つからず、抗菌薬も抗ウイルス薬も全く効果がない。
症状が進行するにつれて、患者たちは意識を混濁させ、最終的にはハーマン教授のように狂気と飢えに満ちた異形の存在へと変貌していく。
彼らはベッドをよじ登り、点滴チューブを引きちぎり、医療スタッフに襲いかかる。
──医療機関の混乱と情報統制が始まる。
「これは、一体何なんだ…?」
最前線の医療従事者たちは、目の前で起こる信じられない事態に、恐怖と混乱に打ちひしがれた。感染経路も特定できず、治療法もない。
そして何よりも、患者が「人間」ではなくなっていくその光景は、彼らの精神を蝕んだ。
世界保健機関 WHOは、これら一連の「異常なパンデミック」について、緊急会議を招集した。だが、各国政府は、事態の深刻さを公衆に知らせることを躊躇った。
国家間の協力は建前で、裏では自国の安全保障と情報統制が優先された。
「南極の極秘作戦に関わる新たな病原体。この情報は、厳重に管理せよ。パニックは避けねばならない。」
政府は、情報機関を通じて、メディアへの厳重な情報統制を開始した。
「新型インフルエンザの亜種」「集団食中毒」「精神疾患の集団発症」など、様々な虚偽情報が流布され、真実が隠蔽されていく。
しかし、インターネットやSNSを通じて、断片的な情報や、変異した人々の狂気の映像が広がり始め、人々の間には漠然とした不安と不信感が募っていった。
この頃、南極のエコー・ベースから回収されたエミールのデータモジュールは、最高機密扱いで各国の研究機関へと分配されていた。
だが、データに含まれる「ネクロパルス菌」という概念とゾンビ化は、あまりにも突飛で、信じがたいものだった。
彼らはまだ、この「エレシュキガル」が齎した災厄の真の規模を理解していなかった。
南極のエコー・ベースで始まった悪夢は、瞬く間に地球全土へと波及していった。各国の主要都市は、そのまま国際的な交通網の中心地でもあった。
南極からの救助ミッションによって回収された罹患者や物資、そして何よりも、潜伏期のキャリアとなった人々が、自覚なきまま、兇悪バクテリアを世界中にばら撒いていったのだ。
感染した人々は、国際便の乗客として、あるいは貨物船の乗員として、日々飛び交う国際線や航路を利用した。
彼らは、世界中の主要なハブ空港や港湾都市へと降り立つ。ニューヨークのJFK国際空港、ロンドンのヒースロー空港、東京の成田国際空港、ドバイのジュメイラ港。これらの物流と人の流れの要衝が、次々と感染拡大の新たな震源地と化していった。
数日のうちに、菌は大陸を越え、地球規模での拡大が始まった。
発症した人々は、咳をし、苦しむ中で、さらに菌を撒き散らしていく。
物資が滞留し、人が密集する場所では、感染の連鎖が爆発的に加速した。
港湾労働者、航空会社の職員、トラック運転手、そして彼らと接触する無数の人々が次々と感染し、都市機能の根幹が揺らぎ始める。
政府や医療機関が事態の収拾に奔走する間にも、ネクロパルス菌はすでに、彼らの認識を遥かに超えた速度で広がっていた。
国際会議や緊急対策が立てられる頃には、既に世界中の主要な人口密集地で、最初の「変異者」たちが現れ始めていたのだ。
街の通りでは、うめき声が響き、理性を失った殺戮者が暴れ回り始める。
その光景は、もはや映画の中のフィクションではなかった。
冥界の女王「エレシュキガル」がもたらした災厄は、世界の終焉を告げる、静かで、しかし確実な序曲だった。
国際的な交通網を通じて瞬く間に広がったネクロパルス菌は、世界中の主要都市を内部から食い破り始めた。政府の情報統制は、もはや無意味なものとなっていた。
隠しきれない異変が、人々の日常を、そして社会の機能を根底から揺るがしていく。
──都市機能の麻痺と社会インフラの崩壊。
街は、みるみるうちに機能不全に陥っていった。まず、医療機関が壊滅した。
変異した患者が病院を襲い、医療従事者が次々と感染していく。
病床はあっという間に満杯になり、治療にあたる医師や看護師はいなくなった。
救急車両は出動できなくなり、警察や消防も対応しきれない事態へと陥る。
街角では、理由もなく人を襲う変異者が現れ始め、治安は急速に悪化していった。
物流網が寸断された影響は甚大だった。港湾や空港は、感染源として機能不全に陥り、貨物輸送が完全に停止した。
スーパーマーケットの棚からは食料品が消え、ガソリンスタンドには長蛇の列ができ、やがて閉鎖されていく。都市を動かす血液とも言える電力網も不安定になった。
発電所の職員が感染し、送電施設が破壊されることで、大規模な停電が頻発する。
高層ビル群の窓から光が消え、夜の都市は不気味なほどの闇に包まれた。
通信網も、また、崩壊の一途を辿った。電話は繋がりにくくなり、インターネット回線も不安定になった。
情報の混乱とデマが飛び交い、人々のパニックは加速する。
人々は、自分たちの住む場所が、急速に死の街へと変貌していくのを、ただ見つめるしかなかった。
道路は放棄された車で埋め尽くされ、街には人影が消え、残されたのは、うめき声と、遠くで響くサイレン、そして時折聞こえる銃声だけだった。
かつて活気に満ちていた大都市は、凶悪バクテリアによって生命力を吸い取られ、まるで巨大な墓標のように静まり返っていった。
人類の文明は、わずか数週間のうちに、その根幹から崩壊の危機に瀕していたのだ。