初めては、桃の味
それは、穏やかな晩秋の日曜日。
天高く、盛大に馬が肥えそうな秋晴れの日。
昼間の風は程よく涼しく、日差しは適度に暖かく。
つまりは、寝過ごして惰眠を貪るには最適な日曜日。
「ふぁ~……あかんなぁ、寝過ごしてしもた……」
比較的品行方正な生徒の多い星花女子学園であっても、その誘惑に負けてしまった生徒は少なからずいて。
その中の一人が、あくびを手で隠しながら廊下を歩いていた。
歩く度に揺れる、若干色味の明るいストレートの髪は、肩より少し長く。
普段学校に行く時には一つに縛っている髪を、寮の気安さゆえか、縛らず揺れるがままにまかせて。
ぺたり、ぺたり、スリッパの音を響かせながら、歩いていく。
「すっかり出遅れてしもて……洗濯機空いとるかなぁ」
あくびを今度は噛み殺しながら、そうぼやく。
木佐貫美鈴、星花女子学園の高等部2年生。
普段ならばきちんと朝に起きて、洗濯もしてと卒なくこなしているというのに。
昨夜、興が乗って絵描きに興じていたのが良くなかったらしい。
「まあ、芸術の秋とも言うし、たまにはええんちゃうかな」
と、自分で自分を誤魔化す。
来年になれば受験生なのだ、こんな気ままなことができるのも、そう長くはあるまい。
実際、担任の先生からは「公募推薦はもう始まっている、つまり君たちは一年後には受験生だ!」なんて発破をかけられたりしていて。
それはそうだと理解はしつつ、もう少しだけ待って欲しいというのも本音で。
「時間を止めてくれる親切な神さまはおらんかなぁ」
そんなありえないぼやきが出るのは、ご愛敬と思って欲しい。
などとうそぶきながら廊下の角を曲がった。
そうしたら。
目の前に、洗濯物の山。
それが、動いている。左右に揺れている。
いや、多分、歩いている。
「すみませ~ん、通りま~す!
どいてくださいですよ~!」
洗濯物から、そんな声が聞こえた。
いや、それを抱えている人物が、声を発していた。
言われるがまま、横に退いてあげながら、声の主を見つめて。
ああ、と納得する。
洗濯物の影にいたのは、ふわふわに波打つ栗色の髪を肩で切りそろえた、小柄な少女。
彼女の名前は、坂澄天音。美鈴の一つした、高校1年生だ。
両手で洗濯籠を抱え、若干腰を落として支えている姿は、入寮してから今までの慣れのようなものを感じさせる。
思わずくすくすと微笑みながら。
「天音ちゃん、お疲れ様。
随分洗濯物ため込んどったんやねぇ」
「あ、ええと、木佐貫先輩、こんちには!
や、違うんです、これは、その、これは、ですね、たまたまなんです!
たまたま、昨日、着替えの上にお水をこぼしてしまって……」
「……うん、それはあんまし、フォローになってないいうか、自分で追い打ちかけてる感じやで……?」
ため込んでいたのが恥ずかしかったのか、そんな言い訳をした天音を、愛玩動物でも見るような目で眺める。
その視線に気づいたのか、むぅ、と膨れたような顔になって。
「ほんとですよ、嘘じゃないですよ!
決して、同室の琴葉ちゃんが忙しくて洗濯できてなかったとかじゃないんですよぅ」
「あ、うん、そやね、ちゃうよね。
うんうん、わかっとるわかっとる。うちは、ようわかっとるよ」
「かえって誤解を深めてる気がするのです!
違うのです、違うのですから!」
「ああいや、ほんまに、ね?」
慌てて言い募る天音を、ゆるりと遮る。
言い終わった直後、呼吸をする僅かな隙を縫ってするり、言葉を挟み込んで。
ぽむり。
ふわふわとしたその髪を、そっと撫でる。
「天音ちゃんが、ここに来てから自分のことをがんばっとるんは、ようわかっとるよ。
今日お寝坊さんやったうちより、よっぽどや。やから、ようわかっとるんよ」
ふわり。
そんな擬音が浮かびそうな、柔らかな笑み。
撫でられる手つきの柔らかさと相まって、きゅ、と何かを掴まれたような感覚。
思わず、目をぱちくりと瞬かせてしまう。
「そ、そうなのです、私はがんばってるのですから!」
「せやねぇ、がんばっとるがんばっとる。
ほな、そんながんばっとる天音ちゃんには、ご褒美あげよか」
えへん、と偉そうに胸を張る天音を、にこにことひとしきり撫でて。
不意に手を離すと、ポケットをごそごそ。
……一瞬だけ物足りなそうな顔をになった天音が、その様子を興味深そうに見ている。
「ご褒美、です?
何をもらえるのですか?」
「ふふ~、それは、やねぇ。
関西でご褒美いうたら、やっぱこれやろ」
そう言いながらポケットから取り出したのは、小さな袋に入った飴。
「やっぱ、飴ちゃんやろねぇ。
天音ちゃん、甘いの大丈夫?」
「大丈夫です! むしろどんとこいなのですよ!
あ、でも……」
喜び勇み受け取ろうとしたところで、ふと気づく。
洗濯物を抱えて両手が塞がっていることに。
「ど、どうしたらいいのでしょう、これはっ」
「ああ、ほなら、ねぇ」
あわあわと慌てる様子に、くすくすと笑いながら。
手にした飴の袋に、指をかける。
ピリ、と爪を使って袋に切れ目を入れて、開いて。
中の飴を取り出すと、人差し指と親指でつかみ、そっと差し出す。
「ほら、あ~ん」
「あ、あ~ん……ん!?」
言われるがままに素直に口を開ければ、口に放り込まれる飴一粒。
ほんわかと優しい甘さのそれは、白桃味。
それを手ずから食べさせてもらったことに、口に入れた直後に気づき、少し慌てる。
そんな天音に気づいていないのか、相変わらずにこにことしていて。
「どない? 白桃味、嫌いやなかった?」
「お、美味しいのです。むしろ好きなので大丈夫なのです」
なんとなくどぎまぎしながら、そう返事をする。
その返事に、にこりと笑うと、もう一度ぽむり、頭を撫でて。
「そか、良かった。
ああ、ごめんなぁ、大分長いこと立ち話してもうて。
なんなら、洗濯物運ぶの手伝おか?」
「あ、大丈夫なのです、私は自分のことは自分でできる子なので!」
「そかそか、ほんまにがんばっとるねぇ。
せやったら、うちも洗濯室見に行かなやし、ほなね」
ひらり、手を振ると、またぺたりぺたり、歩き出す。
その背中を、天音はしばらく見つめてしまって。
「木佐貫先輩……変な、人なのです……」
撫でられたことも飴をもらったことも、全く嫌ではなかった。
むしろ、絶妙の撫で加減だったとすら思う。
なのに、その後ろ姿を見て妙に胸がざわつくのはなぜだろう。
「変なのは、私もなのです」
むぅ、とよくわからないことに不満げな顔をしながら。
えっちらおっちら、反対方向へと歩き出していった。