1.プロローグ
私は幼い頃に、両親を亡くしている。けれどそれは、物心つく前のことであって、思い起こせる情景は、ないに等しいものだった。
だから私にとっての思い出の大半は、祖父母によるもの。小学生のころは、祖母の背中に張り付いてばかり。
優しくて、凛々しい祖母。料理が上手で、山に入ると山菜や、鳥の名前を教えてくれた。一緒にいることが楽しくて、それだけで満足してしまっていて。その殆どを覚えてはいなかったけど、それを後悔するときが来るなんて、そのときは全く、考えにも及ばなかった。
祖母は、中学に上がる頃に亡くなった。
通夜の時も葬儀の時も、私の涙は枯れることなく。仕出し弁当が口に合わなくて更に泣いて、祖父のみならず、懇意にしていた弁護士の先生もてんやわんやだったのは記憶に新しい。
祖母は私に対して、洋食ばかり作ってくれていた。得意料理の和食、郷土料理の類は、特別な日に。そのコントラストがとても頭に残っていて、そのせいか、仕出し弁当がくすんだ色で見えてしまったのだ。
そして高校へ入学した翌日。祖父が亡くなった。
思いの外、涙は出なかった。それは、祖父との思い出もまた、少なかったからだろうか。
彼は一日の大半を、平均的な日本家屋の一室、彼にとってのコレクションルームで過ごしていた。
そこには骨董品がいくつも並んでいると、祖母は言っていたけれど、私はそれを見たことがなかった。入ってはいけないと言われていたし、今思えば、祖母がそれとなく入らないよう、誘導していたようにも思う。
中学に入ってからは、登校が難しい距離になってしまったため、懇意にしていた弁護士の先生の家で下宿をしていた。
今の生活の拠点であるマンションの一室は、祖父が入学祝いに買ってくれたものである。
買った、という表現は正しくないかもしれない。正確に表すと、建ててくれた。かな。
どこにそんなお金があったのか、私にはまったく分からなかったし、こんなにもあっさりと亡くなってしまうのも、私には想像も出来なかった。
まだ六十代。今の時代から考えれば、まだまだ若いと言ってもいいくらいだったろうに。
だから、ずっと、呆気にとられていたんだと思う。あまりに唐突な出来事が続いていたし、それに、それに伴って相続税っていう不安もあったから。
知識は殆どないけれど、それで思い悩む人がいることは、テレビ番組の法律相談などで感じ取っていた。身近に弁護士をしている人がいたこともあって、その手の番組には食指が動いてしまっていたのだろう。
弁護士は、頼りになる。まぁ、それくらいの知識しか、仕入れられなかったけれど。
通夜も葬儀も、そんな偉大な弁護士の先生に任せきりだった。
年は二十八、だったか。祖父の親友だった人物の孫で、私も幼い頃から遊び相手になってもらっていた。あまり人には言いたくない、個人的な感情なのだけど、恥ずかしげもなく言ってしまえば……、憧れの人、である。
よく見ればイケメンなのだけど、常にボサボサの髪。似合わない眼鏡。無精ヒゲ。だらしのない雰囲気が前面に出てしまっていて、ポテンシャルを発揮しきれていないのが、本当に勿体ない。
葬儀の際に見せたキリッと姿、それを世の女性方に見せてやれば、コロッと気が向く人は多いはず。現に、私は惚れ直したもの。
葬儀が終わって一段落だった頃、私はそんな彼に呼び出された。
「デートです? 遊園地かしら、動物園かしら?」
弁護士事務所。パーティションで囲まれた一室。彼の叔父が所長をしていた。
背が高く、体型、性格は丸っこい。相撲取りのような力強さも併せ持った、とても穏やかな人だった。彼に貰ったお菓子を食べながら、私は期待を込めた視線を向ける。
話し方は、上品に。祖母から口を酸っぱく……、いや、優しく教えられたことだった。
「悪いけど、そういう所へ行っている暇はないんだよね。君宛ての遺書が、三通ある」
ボサボサ頭を掻きながら、彼は封筒を三つ、差し出した。
「開ける順番が記されているから、そこは守ってくれ」
「無視したら?」
「無効」
ビクッ、と震えて、私は緊張に震えながら、〈最初に開けるべし〉と書かれた封筒の封を開ける。
本当かどうかは分からないし、彼もまた、私が本当のことを知らないと思って、適当なことを言うだろう。
これから先も、多分そう。法律的にどういうものなのかなんて、私は全く知らないし、彼もおそらく、事実を伝えることはない。こっそりと、私のために。一通りのことを終わらせてしまうのだろう。
そこが少し、淋しいと思う。自分が子供だということが、こんなに淋しいことなのか、と思う。でもそれは、きっと、子どもの特権なのだ。これから学んでいくことであって、自分の意志で、その知識を得なくてはならない。
義務教育では教えてくれない。与えられない。それが、大人の階段というものだ。と、私は思う。
中には一枚の紙が入っていた。
「えっと、〈四月十四日に、夢くじを一枚買うこと〉。えっと……、なんです、これ?」
「遺言だね。他には?」
「当選を確認したら、次の封筒を開けるべし。それまで、家の物には手を付けないこと。犬山先生は、これ、知っていました?」
彼の名前は犬山智。小学生のころはサトシくん、なんて呼んでいたけれど、中学に入った頃くらいからは、なんだか恥ずかしくて。そんな感じで呼んでいた。
「うん。一応、内容は確認をして、公的な文章として認めているからね。でも、あまりにも意味が分からない要求だ」
「はははっ、神郷先生のしでかしそうなことじゃないか」
犬山所長が、お盆を片手に顔を出した。
「あの人は、意味の分からない指示で人を動かすのが好きだったからね。セイナちゃん、あの人はね、午前六時に缶コーヒーを買ってこい。と、よく言ったものだよ」
母親譲りの明るい髪を撫でられる。瞳の色も、母親譲りで綺麗な青。まるで夫婦関係を表すように、母はとても強かったらしい。
まぁ、それでも父の最後の抵抗か、顔立ちは殆ど日本人。だから、小学生の頃も、中学生の頃も、染めているんじゃないかとか、カラーコンタクトをしているんじゃないかとか。疑われてきりがなかったことは、とてもうんざりだった。
その反動か、選んだ高校は比較的校則の緩いところ。私の髪色も、瞳も、それほど目立ってはいなかった。
話は戻って、祖父のこと。祖父は有名な学者だとか、研究者だとかだったらしいけれど、その活躍を、私はよく知らなかった。
「かなりの秘密主義でね、プライベートの時間に何をしているのかなんて、誰も知らなかった。なにか、自分なりのルールがあったんだろうね。それより――」
彼は言葉を切って私を姿をしっかりと確認した。
「うん。制服姿がよく似合う。君のお母さんにそっくりだ」
「写真は見ました。留学をしていたんですよね。でも所長、私の方が可愛いとは思いません? 少し幼気な顔立ちというか、愛嬌があると思います。ね、先生はどちらがお好み?」
「お好み焼きかな」
そういう意味のない回答をするズレたところも、なんだか気に入ってしまう要因だった。
どんな言葉が飛び出すのか、予測不能。他人を会話で喜ばせるつもりなど毛頭なく、ただ自分のペースで語っているところが面白い。
次はどんな言葉を発するのか。私はニコニコと、その会話を楽しみたかった。
けれど、話はそこで終わってしまって、少しお茶と会話を楽しんで帰宅。明日の学校は欠席すると伝えて、私は余裕を持って夢くじを買いに出かけた。
夢くじというのは、新学期シーズンに発売される、最大十億円が当たるくじである。
当選の発表は四月の終わり。ドキドキしながらそれまでの日々を過ごし、クラスメイトと、当たったらどうする? なんて盛り上がった。
当日、私は犬山法律事務所を訪れ、そこで取っている新聞で番号を確認した。新聞なんて取っていないし、一人で見るよりも、誰かといたほうが面白そうだと思ったから。
「……うっそ」
「二百円くらいは、当たった? もう少し当たってくれていたら、煙草でも買ってもらったのだけど」
未成年に買わせるなよ、という突っ込みは、なかなか出てこない。それ以上の驚きが、私の頭の中で風船のように膨らんでいた。
「じゅ、十億円、当たってる」
祖父はいったい、何者だったのか。その疑問がきっと、始まりだった。




