第1話「外れ職業の料理人、今日で宮廷を去ります」
王宮の厨房というのは、常に戦場だ。
鉄鍋が炎を噛む音。薪が弾ける音。十数人の料理人が一言も無駄口を叩かずに動き回る、あの緊張した空気。俺はその空気が好きだった。
食材の声を聞くのは、戦場でしか身につかない技術だ。
炒め油が跳ねる瞬間に肉を入れるタイミング。魚の身が締まる一瞬前に火を止める判断。野菜の水分が飛んで旨みだけが残るぎりぎりの加熱時間。そういう細かい積み重ねが、料理を「食事」から「何かもっと別のもの」に変える。
十年間、俺はその「別のもの」を作り続けてきた。
名前はルーク・アッシュフォード。三十二歳。職業は料理人。
昨日までは、王宮付きの料理人だった。
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「以上が陛下の御意志である」
料理部長のデレク・ホルトが、折り目正しく勅令の写しを机に置いた。俺はその紙を眺めながら、今朝仕込んだスープのことを考えていた。玉ねぎをもう少し長く炒めればよかった。あの甘みがあれば、もっと深みが出た。
「アッシュフォード。聞いているか」
「聞いています」
俺は顔を上げた。デレクは眉間に薄く皺を寄せ、それでも俺を見る目は平静だった。この人は昔から、感情を顔に出すのが上手くない。出さないのではなく、出せないのだ。十年間、一緒に厨房に立ってきたから分かる。
「戦時の軍を支えるのは剣と魔法だ。料理人の数を半数に絞る。お前の席はない」
簡単な話だった。
王国は今、隣国との緊張が続いている。食料は十分にある。魔法で強化された騎士が必要で、料理人は余計な口を増やすだけだ。そういう判断を、誰かが下した。
「……お前の料理は確かに旨かった」
デレクが小さく言った。
俺はその言葉を聞いて、何かが静かに腑に落ちるのを感じた。
旨かった。過去形だ。
十年間、俺はこの厨房で料理を作り続けた。王族の朝食、貴族の晩餐、兵士たちへの配給。誰かに「美味しかった」と正面から言われたことは、一度もなかった。強化効果が上がった、回復が早まった、体調がいい。そういう評価はもらった。けれど「旨い」という言葉は、今初めて聞いた気がした。
もっと早く言ってくれたらよかったな、と思った。
「分かりました」
俺は頷いた。
「いつまでに出ればいいですか」
「……今日中に頼む」
「承知しました。厨房の引き継ぎはしていきます。仕込みの途中のものがいくつかあるので」
デレクが何か言いかけて、黙った。俺は踵を返して厨房に向かった。
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片付けには二時間かかった。
途中のスープは後任に引き継いだ。火加減と塩を入れるタイミングを紙に書いて渡した。漬け込んでいた肉は明日が使い頃だと伝えた。乾燥させている香草は、湿気に当てると台無しになるから気をつけるよう頼んだ。
誰も何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
厨房を出て、廊下を歩いて、正門へ向かった。長い廊下を歩いたのは初めてだった。いつも裏口しか使わなかったから。
正門の番兵が俺を見て、一瞬だけ目を細めた。顔は知っていても、名前は知らない。そういう存在として十年間ここにいた。
俺は城の外に出た。
門が閉まる音が、背中で鳴った。
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王都の大通りは夕方の人出で賑わっていた。
俺は特に行くあてもなく歩いた。荷物は少ない。着替えと、愛用の包丁が二本、小さな砥石。それだけ持って城を出た料理人を、通りの人間は誰も気に留めなかった。
王都の外れまで来たとき、路傍に人影があった。
座り込んでいる、というより倒れかけている。小さかった。子どもだ。薄汚れた服、裸足。顔色が悪い。
俺は立ち止まった。
腹が減っているのか。いや、それだけじゃない。疲弊している。いつから何も食べていないのか。顔の色と目の焦点のなさから見て、相当だ。
俺はその子どもの前にしゃがんだ。
子どもが弱々しく顔を上げた。薄茶の髪、灰色がかった目。歳は十四かそこらだろうか。
「お腹、空いてるか?」
子どもが俺を見た。警戒している。当然だ。見知らぬ男に声をかけられたら警戒するのが正しい。
「ちょうど道中の飯の支度をするところだった」
俺は荷物を地面に置いた。
「タダで食わせる。毒は入っていない。食いたくなければ食わなくていい」
子どもがしばらく俺を見ていた。それから、こくんと頷いた。
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王都の外れの水場を借りて、俺は飯を作った。
持っていた食材は少ない。乾燥豆と保存用の塩漬け肉、道中で摘んだ野草。大した材料ではないが、組み合わせ方と火加減でどうにでもなる。豆を水で戻している間に塩漬け肉の塩気を抜き、野草は選別して灰汁の強いものを除いた。
火を起こして煮込み始めると、匂いが立ち始めた。
子どもが匂いに気づいて、少しだけ身を乗り出してきた。
三十分ほどで出来上がった。器はないから、その辺の木の葉を皿代わりにして渡した。
「熱いから気をつけろ」
子どもが受け取って、食べた。
一口目に目を見開いた。二口目に目が潤んだ。三口目からは黙って、ただ食べた。
俺は火を片付けながらその様子を横目で見た。
汁まで全部飲んで、子どもはしばらく器を持ったまま動かなかった。
それから顔を上げて、俺を見た。
「……おいしい」
その一言だった。
たったそれだけの言葉だったが、俺は手を止めた。
王宮で十年間一度も聞けなかった言葉を、路傍で出会ったぼろぼろの子どもに、今日初めてもらった。
そういうことか、と思った。
「そうか」
俺は頷いた。
「名前は?」
「……テア」
「テア。俺はルークだ」
少し間があって、テアが聞いてきた。
「ルークさんは、どこに行くんですか」
俺は少し考えた。王都の外に出た。あとは特に決めていない。
「辺境に行こうかと思っている」
「辺境……何かあるんですか、そこに」
「知らん。ただ、食ったことのない食材があるだろうと思って」
テアが俺を見た。不思議そうな顔をしていた。
「……ついていっていいですか」
俺は立ち上がって、荷物を背負った。
「腹が減ったら言え。飯は作る」
それだけ言って歩き始めた。
小さな足音が、後ろからついてきた。




