第20話 今昔懐古! 空白の思い出
「いらっしゃいませ、ようこそジュエ……」
「いらっしゃいませ〜! ようこそジュエルブレッドへ〜!!」
貞淑な声は、溌剌とした声に圧されてかき消される。日が昇り始めたばかりの朝、ジュエルブレッドを訪れた人達の目を覚ます様な声が響き渡る。
常連の老婦人は新しい店員の姿を見て頬を綻ばせた。
「あらあら、また新しいメイドさんが来たのね」
「よろしくお願いしまーす! あ、今日発売の新作、スイートポテトパン焼き立てですよー!」
「ならそれと、あとはホウセキパンも頂こうかしら」
「ありがとうございまーす!」
勤務1日目にも関わらず、明るい人柄を活かして接客をこなしていく翡翠。ようやく慣れてきたばかりの自身との差に、灰簾は何処か切ない気持ちを抱いていた。
(風の錬生術師……そっか、今まで日雇いの仕事をずっとしてたんだもんね……)
── 真面目なのは良いんだけどさぁ ──
一瞬、灰簾の脳裏を声が過ぎった。そして期待が失望に変わる瞬間の眼差しが過ぎった。
真面目に取り組むしか能が無いと思い知らされたあの日の事を、思い出した。
(このままじゃいつか……ユナカくんにも……)
「灰簾さん、灰簾さん、カフェラテが」
「え? あぁっ!?」
ユナカによって考え事から解き放たれて初めて気づく。注文を受けてからずっとミルク注入ボタンを押していた為、紙コップからミルクが溢れ出していたのだ。
「あわわわすぐに作り直さなあっつぁぁぁ!!?」
慌ててサーバーから取り出すが、高温のミルクが側面を伝うコップを掴んだ結果は分かりきっている。驚いた灰簾は当然コップを取り落とし、
「ぎゃあああっづい、ウォアアアッ!!?」
膝にかかって悶絶、挙句床に溢れたカフェラテで足を滑らせて転倒。カウンターの向こうで起きたが故、霰のない姿を晒す事だけは回避したが。
「あいったぁ……!」
「これはまずいな。翡翠ちゃん、ちょっとの間カウンター任せてもいい?」
「はいはーい! その代わり、まかない弾んで下さいよー?」
「分かった」
ユナカは灰簾へ駆け寄る。頭を押さえてのたうち回っているが、ユナカはそこではなく彼女の足が気になっていた。
「失礼します」
「いたたた、たぁっ!?」
ユナカは灰簾を抱えると、目にも止まらぬ速さで裏へと引っ込んでいった。
そんな様子を見た老婦人は、微笑ましいものを見る様に笑った。
「ユナカくんにも遂にお相手が見つかったのね。あんなに良い子なのに、おかしいって思ってたのよ」
「火傷はそこまでですね。念の為午前中は様子を見ましょう」
「だ、大丈夫だって! 私は全然……」
「念の為、です。何もなければまた午後からお願いします」
「あ、はい……」
縮こまってしまった灰簾を見かねたのか、ユナカは彼女へあるものを差し出した。
「スイートポテトパン、ちょっと形が悪いものですけどどうぞ」
「……ありがとう」
スイートポテトパンと付け合わせのコーヒーを置くと、ユナカは再び店へと戻って行った。
彼の背中を見送りながらスイートポテトパンに口をつける。香ばしく焼き上がった外側を歯が通り抜けると、弾力のある生地が歯を優しく受け止め、中から溢れた甘いクリームが舌を撫でる。曇っていた心がみるみる内に晴れていく不思議な味に、灰簾は小さく震えた。
「おいひぃ……」
店の喧騒が気になり、様子を見に来た晶だったが、扉の隙間から灰簾を見て戻っていく。今はそっとしておいた方がいい。小学生でもそのくらいの事は察せたのだ。
「……右眼、痒い」
力を抑えてもらっているが、時折右眼に痒みを覚える。布を外してはいけないと言われており、晶もそれを守っているのだが。
(ユナカさんとか灰簾さんとかを見ると時々……でも、琥珀さんと翡翠さんにはそうならないんだけど……)
しかし、錬生術師の知識がほとんどない自分に分かる筈もない。再び宿題を片付けるべく、右眼の痒みを何とか誤魔化しながら戻るのだった。
朝の忙しい時間が過ぎ、客足が一度落ち着く。ユナカがパンの並びを整理していると、メイド服のスカートをはためかせながら翡翠が駆け寄って来た。
「せんぱ〜い、一旦お客さん落ち着いたし、そろそろ朝ご飯食べたいな〜」
「……はい、好きなの取って」
「うはー最高!! いっひひひ!」
先程までの笑顔と明るい声は何処かへ行き、代わりに悪戯好きな少年の様な笑みと声が顔を出す。彼女へ出すブラックコーヒーを淹れながら、ユナカはパンを積み重ねていく様子を見守る。
「それにしても、ほたるちゃん海外留学中なんですねー。会いたかったんですけど。やっぱりあれですか、ほたるちゃんの昔からの夢の?」
「うん、紛争地帯への支援活動団体に入る為。今も頑張ってるよ」
翡翠にはこの嘘を通している。事前に事情を知っていた琥珀はともかく、まだそれを知らない彼女を混乱させない為にユナカが提案したのだ。
翡翠はほたるの親友。いくら錬生術師といえど、心配をかけたくない。そんな思いもあった。
その時、鈴が鳴る音と扉が開く音が鳴る。既にパンを口いっぱいに詰め込んだ翡翠は喋る事ができない為、代わりにユナカが応対する。
「いらっしゃいませ、ようこそ……っ、もしかして……?」
「久しぶり、ユナカくん。帰って来てたんだね」
ニットビスチェとジーンズを身に付けた、ブラウンのロングヘアの女性。伏し目がちではあるが美しい彼女を、ユナカは知っていた。
「琉華さん?」
「大学卒業以来かな。水春くんが心配してたよ、最近連絡が無いって」
「店を開く準備で忙しくて。水春に後で顔見せないと」
「ちょーっとちょっと! お姉さん、先輩とどんな関係なんですかー!?」
2人の会話へ割って入ったのは翡翠。見ればその頬は僅かに膨らんでいる。
だがそんな翡翠へ琉華は微笑むと、静かに話し始めた。
「大学時代に一緒だったんだ。ユナカくんと、私と、私の旦那さん、水春くんと」
そう言って見せた左手の薬指には、銀色に輝く指輪があった。それを見た翡翠の表情は一変、目を輝かせる。
「え、えー!? お姉さんもう結婚したんですかー!?」
「同級生にはもっと早い人もいるよ。それにしてもユナカくん、店員さんの制服の趣味いいねー。水春くんきっと毎日通うよ」
「これは妹の案で……でも、そうか。水春は好きだもんな、アンティークメイド」
ユナカは思いを馳せるように琉華の指輪を見つめる。自分が水春と知り合ったのは大学生の時だが、水春と琉華は小学生の頃からの付き合いらしい。
「そういえば水春、今は何してるの? 確かライターになりたいって言ってたけど」
「……」
ユナカが訪ねた途端、突如琉華が口を噤む。普段から伏し目がちな瞼が更に落ち込んでいる。
「琉華さん?」
「……あ、うん。ライター、頑張ってるよ。しばらく帰って来れないぐらい……」
「しばらくって、いつから?」
「……2週間」
「うぇぇぇ!? それ絶対なんかありますって!」
琉華から告げられた期間に、翡翠が慌てた様子で反応する。しかし琉華はすぐに笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ、きっと。ちゃんとメッセージは毎日送ってくれてるし」
そう言ってスマートフォンの画面を2人へ見せる。他愛のない会話が確かに記されてはいたが、ユナカは不安を拭う事は出来なかった。
「琉華さん、水春が勤めてる会社って何処?」
「石英ビルの6階だよ」
「ありがとう」
ユナカの意図が分からず困惑した表情を浮かべる琉華だったが、同じ錬生術師である翡翠は理解したらしい。琉華に見られないように小さくサムズアップしていた。
(取り越し苦労ならそれでいい。嫌な予感を放っておくよりは)
『すぐに会社に戻って来い!! 明日までに終わらなかったらどうなるか、分かってるよな!?』
「……はい」
電話を切ると、目の前に停車した電車から踵を返した。スマートフォンのメッセージアプリを確認すると、琉華からのメッセージが更新される。
《今日は水春くんが好きなメンチカツだよ》
「はぁ……尚更会社行きたくなくなった」
だが投げ出してしまえば彼女に苦労をかける。苦い顔を浮かべながらメッセージを打ち込んだ。
《ごめん。急な仕事入っちゃってまた帰れなくなっちゃった。冷蔵庫に取っておいて欲しい》
するとすぐに返信が来る。
《そっか、分かった。お仕事頑張ってね》
「本当にごめん、琉華ちゃん」
駅を去る中、水春は大学生時代の事を思い出す。楽しかった思い出と、帰りを待つ琉華の存在だけが、水春を動かす燃料だった。
「ユナカ……何も言わずにいなくなっちまってさ。俺と琉華ちゃんの結婚式にも来なかったし……今、何してるんだ?」
その時だ。心臓に小さな痛みを感じ、思わず立ち止まる。
「いっ……!? あ、あれ? 気のせい、か……?」
しかしすぐに歩き出す水春。そんな彼を背後から監視する影があった。
「この時代の人間も結局変わってない。ムカつく奴にぺこぺこ従うしか出来ないヘタレな奴等ばっかり。あ〜……ムカつく、ムカつく、ムカつく!」
水春へ打ち込んだアトラムの種が成長していく様を感じながら、セレスタは毒づいた。
「そんなに働くのが好きなら、お望み通り一生働かせてやるっての」
続く




