八拾七 将門、武蔵に介入
将門がはっきりと謀叛に踏み出したのは天慶二年(九百三十九年)十一月のことであるが、その九か月前の二月には将門の行動に変化が起こっていた。それ迄の戦いは全て私闘だったが、初めて他国の揉め事に介入したのだ。
伯父達を連覇し、取り逃がしはしたものの、貞盛は京に逃げ去った。
武名が高まると共に人や兵が集まって来て将門の勢力は拡大していた。当然、何かに付けて将門を頼る者達も増えて来て、それ迄も、常陸や下総の小さな揉め事に介入しそれを解決するようなことも、しばしば有ったに違い無い。その結果依頼者に感謝され、礼物も集まって来る。元々親分気質を持っていた将門に取っては、それは心地の良いことだったのだろう。当然自信も生まれる。
そんな時、武蔵国の大きな揉め事が将門の耳に入って来た。
揉め事は、武蔵権守として赴任して来た興世王と武蔵介・源経基が着任早々に検注を行おうとしたことに端を発した。
武蔵では正官の国司赴任以前には検注は行われない慣例になっていると足立郡郡司・武蔵武芝は検注を拒否する。
これに対し、興世王と経基は兵を繰り出して武芝の郡家(=郡役所)を襲い、略奪を行った。武芝は山野に逃走、幾度と無く文書で私財の返還を求めたが、興世王らは応じないどころか合戦の準備をして威嚇した。
この場合、正任国司の任命又は赴任が何らかの理由で遅れていた為、権官として興世王が先に赴任したものと思われるが、この時代、権官は代理、補佐その他色々な立場で常態的に任じられていた。
そもそも権官とは、正規の員数を越えて任命する官職であり、奈良時代には員外官と呼ばれていた。平安時代に入って権官は急増し中央でも常態的に置かれるようになった。その理由は蔭位にある。
蔭位とは、五位以上の者の子や孫が二十一歳になると親の官位に応じて叙位される制度である。ひとりの貴族には複数の子や孫が居るのだから、当然官職が不足することになる。そこで、官職を水増しする為に、権官が常態的に任命されるようになっていた。
しかし、藤原氏を始めとして名家の子弟や嫡子などは、二十一歳に達する前でも官位が与えられるのが慣習となっていた為、五位の者の子などは、官職を水増しされた上でも、建前に反して中々官位・官職を得ることが出来無くなり、公卿達に無償で仕えたり貢物を贈ったりし続けて、猟官運動をせざるを得ない状況に在ったのだ。正に、若き日の将門もその中のひとりであった。
興世王も、王とは言っても五世ともなると官職に就くことも容易では無く、長い間、欝々とした日々を送っていたのかも知れない。公卿の誰かに相当な貢物を贈ってやっと得た職だったのだろう。元を取ろうとしたのだ。
検注とは、年貢などの租税を収取する為に土地の面積などを計測するものだが、住民側は、活動や飲食・宿泊の面倒を見る他、検注に掛かる諸費用一切を負担する必要があった。
その上、検注の結果確定された年貢などの租税額は、豊作・凶作を問わず原則的には定額を徴収されることになる。
隠田の発覚や租税の増徴の切掛けになることへの危機感が有ったことから、様々な駆け引きが展開された。
勘料・伏料といった形で米や銭を渡し、手加減をして貰ったり検注そのものを中止して貰ったりすると言うことが常態化していた。
興世王らが狙ったのはこれであろう。検注など面倒なことをやるよりも、やるぞと脅して勘料・伏料を出させて儲けるのが目的だった。
しかし、正任国司が着任した時、
「そんなことは知らん」
と言ってもう一度同じことをやられたのではたまったものでは無い。そう思って武芝は、検注も勘料・伏料を出すことも拒否したのだろう。
二人の国司(興世王、経基)は武芝を無礼であるとして、財産を没収する。
武芝は一旦、山野に逃亡した後、将門に調停を依頼した。
武芝からの調停依頼を受けた将門。
武芝について調べてみると、国造の系譜を引く良吏であり、長年公務に精勤して評判の良い男である。謗られるようなことは何も無いと言う。郡内の統治の名声は武蔵国中に知れ渡り、民衆の家には遍く蓄えが有るとのこと。
「他国のこととは言え、これは見て見ぬ振りは出来ぬな。これ程の人物がこの将門を頼ってきた以上、見過ごせば麿の名折れになる」
将門はそう思った。
将門とて、秀郷同様、京から来る受領の搾取には腹立たしいものを感じていたのだ。
将門は早速五十ほどの郎党を率いて武蔵に赴き、武芝と面談する。
その途上、兵を率いて武蔵に入った将門の姿は、当然多くの者に目撃され、国府にもその報せが入っていた。
しかしこの頃には、将門の武名は武蔵にも轟いており、足立郡に出張っていた興世王と経基の二人は、報せを聞いても凍り着くのみで、どう対処すべきか分からない。
将門は、落ち着いた動きで足立郡に向かっている模様と言う。
「見張れ! 見張るのじゃ。その上で、将門の動き、逐一麿に報せるのじゃ。決して手出しをしてはならぬぞ! 良いな。手を出すで無い! 」
甲高い声で興世王が叫んだ。見ると経基の顔は蒼白に成っている。
将門の噂は二人の耳にも入っている。鬼のように強く、一旦敵に回すと相手が潰れるまで追い詰める、恐ろしい男だ。その将門が武蔵に入って来て足立郡に向かっていると言う。自分が何も知らない以上、武芝が呼んだに違いない。これは大変なことになったと興世王は思った。
「長官。京に早馬を出しましょう」
経基が真剣な表情で言った。
「早馬? 早馬を出して京に何を報せるのじゃ」
「もちろん、将門が兵を率いて武蔵に侵入して来たと報せるのです」
「将門が人ひとりでも殺したと言うのか? どこかを襲い火を放ったとの報せでも入ったか? ただ静かに進んでいるだけであろう」
「何か起きてからでは遅いでしょう。現に将門は、武蔵国司たる我等に何の挨拶も無く、兵を率いてこの武蔵に侵入して来ているのですぞ」
「武芝との揉め事を、何と申し開きするつもりじゃ。己の首を絞めるつもりか」
経基は不服げな顔をして横を向いた。
「麿の下知に従えぬなら、舘に戻って蟄居しておれ」
「分かり申した。では、そのようにさせて頂きます」
そう言い捨てると経基は郎党を連れてさっさと引き揚げて行った。上司で年長であるとは言え、経基は興世王を軽く見ている。
王族の端に残っては居るが、興世王が五世であるのに対し、臣籍降下しているとは言え、経基には二世源氏であるという誇りが有る。
おまけに興世王は権守であるから、例え嫌われたとしても、正任の武蔵守が着任し気に入られさえすれば、どうと言うことは無いと思っている。ひと儲けしようと誘って来たのは興世王の方だ。上司の命に仕方無く従っただけと言い訳は出来ると思った。
将門と戦ったら命が無くなるかも知れない。それは絶対に避けなければならない。かと言って、今更武芝に詫びを入れるのは癪に障る。どうしたものかと考える。
将門が武芝と会ったという報せが入って暫くして、将門から文が届いた。
読んで見ると、まずは、
『国司の許しも無く兵を伴って武蔵に入ったことを詫びている。続いて、他意は無く、騒ぎを穏便に収めたいと思ってのこと』
と言い訳している。
そして、
『この将門が立ち会うゆえ、武芝殿と腹を割って話し合って頂くようお願い申し上げる』
と結んでいる。
こちらに力が有れば、
『国司の許しも無く兵を伴って武蔵に入った。その部分だけを取っても十分追及出来る内容である』
と興世王は思った。
だが、下手に出てはいるが
『この将門が立ち会うゆえ』
の一言がどれ程の威圧感を持っているかを十分承知した上での文面である。この上は、少しでも有利な条件を引き出すしか無いかと興世王は腹を決め、お待ちしているとの返事を持たせた。
「皆の者、良う聞け! これから武芝が話し合いの為ここに参る。麿が命じた場合を除いて一切手出しはならぬぞ。分かったか? 」
兵達が
「おう」
と返事を返す。
「立ち合いは、下総の住人・平将門殿じゃ」
興世王がそう付け加えた途端、兵達の間に一瞬の静寂が訪れ、続いてどよめきが広がって行く。
二刻(一時間)ほど後、彼方に二百ほどの人影が姿を現す。
近付くに連れその姿がはっきりとして来る。前に二人。武芝と将門であろう。
将門は、鎧に身を固めているが、兜は被らず烏帽子姿である。武芝は、五十年配で、締まった体に浅黒い肌を持つ男だ。狩衣の裾と袖口を絞って、胴丸のみを着けている。後に続くのは、将門の郎党達だが、全て乗馬で幟などは立てていない。その後ろに、武芝の郎党達。最後に近隣の民達が徒歩で続く。
百歩ほどの距離に近付くと、一団はそこで止まり、将門と武芝、それに六人ほどの双方の郎党のみが興世王の方へ歩み寄って来た。
一旦止まり、将門と武芝のみが下馬し、徒歩で更に歩み寄って来る。六人の郎党達は、乗馬のまま、二人が下馬した位置に控えている。
「武蔵権守・興世王様で御座居ますか? 下総の住人、平小次郎・将門と申します。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
将門はそう言って軽く頭を下げ、上体を少しだけ前に傾けた。鎧を付けているので、深々と腰を折ることは出来ない。言葉遣いは丁寧だが、無位無官でありながらその表情は、従五位下・武蔵権守である興世王を、恐れる様子も憚る様子も微塵も無く、自信に満ち溢れている。
興世王は、すぐ後ろに乗馬のまま控えている将門の郎党達に視線を移した。
顔の表情は無いが、いずれもギラギラした目をしている。例え相手が皇族であろうが左大臣であろうが、将門の命が有れば、何の躊躇いも無く斬り殺すことが出来る者の目だ。
更に先に目を移し百歩ほど先に待機している郎党達に目を移すが、隊列を全く崩さず、全ての者がしっかりとこちらに顔を向けている。
『国衙の兵共とはえらい違いじゃ』
と興世王は思った。そして、この男の今の実力はどれ程のものだろうかと考えた。
集められる兵の数は三千か四千か? この揉め事を収めたとなれば、更に武名を轟かせることになるだろう。味方にして置けば使える。そんな考えが浮かんだ。
「権守・興世王じゃ。命の武名は、京でもこの武蔵でも聞いておる。会えて嬉しいぞ」
「恐れ入ります。早速ですが、こたびのこと…… 」
「ああ、皆まで申すな。京にも名を轟かせている平将門殿が間に入ったとなれば、顔を立てぬ訳には行かぬ。接収した物は全て返し、兵はすすぐにも引き揚げる。検注は、正任の国守が赴任してからに致そう。それで良いか? 武芝」
余りにあっさりと興世王が譲ったので、武芝は唖然とし、疑った。
「そうして頂ければ何よりで御座居ますが、それで宜しいのですか? 」
「良い、良い。…… ただな、麿は武蔵権守じゃ。体面も有る。国府に抗ったことへの詫びだけ入れてくれぬか? 」
武芝は黙って将門の顔を見た。将門の手前、譲ったものの、将門が去った後、その文書を楯に言い掛かりを付けて来ようと言うのではないかと思ったのだ。
「その詫びとやらは、文書ですか? 口頭ですか? それとも何かを出せということですか? 」
将門が厳しい目付きで問い質した。
「う? いや、文書がまずいなら、うん、口頭でも良いぞ」
再び、武芝と将門が目を合わせた。少しの間が有り、やがて武芝が黙って頷いた。そして二歩ばかり後ろに下がると地に座った。深く頭を下げ、
「こたびは、国府に抗うような真似を致し、誠に申し訳御座居ませんでした。にも関わらず権守様の深いお情けにより、我等の願いお聞き届け頂きましたこと、誠に有難うございます。厚く御礼申し上げます」
張りのある大きな声であった。その声は国府の兵達全ての耳に届いた。
元々興世王らが一方的にしたことであり、武芝になんら落ち度は無いのだから、謝る理由など無い。その上、奪った財を返して、検注を中止し兵を引き揚げると言っても、焼き払った住まいや田畑に対する補償が得られる訳でも無い。だが、それは現代の目で見た考えであり、この時代の感覚としては武芝側の全面勝利に等しい。己が頭を下げるだけで良いのなら、興世王の顔も立ててやらねばならないと思ったのだ。
「良うなさったな、武芝殿」
「いや、これしきのことで収まるなら安いものでござる。将門殿、有難う御座った。この恩は終生忘れませぬ」
「目出度い。手打ちじゃ。武芝、将門殿、祝おうぞ」
興世王は妙に陽気に成っている。それが何か不思議ではあったが、将門は自分が仲介して事が収まったことに満足していたし、武芝は、災難が去ったことにほっとしていた。
「権守様。麿からも御礼を申仕上げます。したが、この将門が仲介しての手打ち、ゆめゆめお忘れなさいませぬようお願い申し上げます」
将門は釘を刺すのを忘れなかった。
「ほほっ。麿は、将門殿の顔を潰すような真似は死んでも致さぬよ。これ、誰ぞ国府に走り、急いで宴の用意をさせよ! 」
「国府で宴ですか? 」
将門が怪訝そうに聞いた。
「皆の者! 今より武芝と将門殿は麿の客じゃ。いささかなりとも無礼が有ってはならぬぞ! 」
『まさか、国衙に誘い込んで討つつもりではあるまいな』
と将門は思ったが、ここで尻込みすれば足許を見られる。この男にぴったりと付いて、異変があれば真っ先に叩き斬ると決めて腹を据えた。
将門の心配を余所に国衙での宴は、何の問題も起こらず盛り上がった。将門の周りだけで無く、その郎党達の周りにも、武勇伝を聞きたいと国府の者達が輪を作り、国府の官吏と武芝の郎党達も拘り無く酒を酌み交わしていた。
異変は国衙以外の場所で起こった。舘の中で飲んでいたのは主だった者達だけで、兵達は酒を宛がわれて外で飲んでいた。
その中の一団が、経基の郎党や従者達が居ないのに気付き、せっかくの祝い酒だから迎えに行こうと、経基の舘に向かったのだ。
元より、興世王と経基が諍いを起こし、経基が腹を立てながら舘に戻ったことなど知らない。大勢でわあわあ騒ぎながら経基の舘に押し掛けた。ところが、なぜか急いで門を閉ざした形跡が有り、酔った兵達が代わる代わる門を叩いても一向に開けようとしない。
実はこの時、経基は襲撃されたと思い、裏から逃げ出し、そのまま京まで走っていた。そして経基は、
『興世王と将門と武芝が相計って謀叛を起こした』
と朝廷に訴えたのだ。




