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七拾参 出羽夢譚-朝貢 1

 千方達が吉次と共に砂金探索に出掛けた日、

「珍しい物をお見せしよう」

と言う都留儀の言葉に誘われて、朝鳥は、宝物倉のような所に案内されていた。

 注ぎ口と取っ手を持った、何とも言えない美しい光沢を放つ焼き物の壺のような物。

 見事な細工を施した金の指輪。そして、見たことも無い鮮やかな色の糸を使った厚手の織物など。所狭しと並べられた品々に、さすがの朝鳥も絶句した。

 若い頃、秀郷の供をしてみやこに何度か行ったことが有るが、京でさえも見たことのない品々だった。

「こ、これは…… 」

「ふふ、出羽の者達との取引で手に入れた品々で御座います」

「出羽? 」

「出羽の海岸には、時々、異国の物が流れ着きます。難破した船に積まれていた物でしょう。人の乗った船が流れ着くことさえ有ります。出羽の荒蝦夷達は、それを襲ったりもします。恐らくは、そうして得た物でしょう。の者達が欲しがる、農具や布と交換に手に入れた品々です」

 朝鳥は、今更ながら、安倍の力を見せ付けられたような気がした。


 日本は大和朝廷成立以来、他国と交易はして来たものの、白村江はくすきのえの戦いと元寇を除いては、江戸時代に至るまで外国の影響を余り受けずに独自の文化を築いて来た、と何となく考えがちである。

 確かに、イギリスのように次々と異民族に侵略されるという歴史は持たない。しかし、周辺国の情勢に無縁であったという訳では決してない。

 八世紀。大陸では唐が安定した時代に入っていた。首都である長安には、シルクロードを通じて西域、インド、中東の文物が運ばれ、新羅、倭国、渤海ぼっかいは遣唐使を通じて、それらの文物や中国の制度、文化、技術を自国に取り入れていた。

 倭国では白村江の戦いの後に急速に律令制の導入が進み、九州での防衛体制を強化した。七百一年(大宝たいほう元年)には、律令制の導入と共に、国号を日本に変え、この後日本は徐々に本州東北方面に勢力を伸ばして行ったのだ。


 渤海は、中国東北部から朝鮮半島北部、ロシアの沿海地方に掛けて存在した国である。

 日本との関係については、当初は新羅を牽制する為の軍事的性格が強く、唐に対抗する為、渤海は、奈良時代から日本に朝貢した。その当時の周辺情勢は、唐との関係を強化した周辺民族が渤海を圧迫し、新羅もまた唐に急速に接近しており、この国は国際的な孤立を深めていたのだ。

 この状況下、渤海の第二代の王である大武芸テ・ムエは、新羅と対立していた日本の存在に注目した。

 七百二十七年(神亀じんき四年)に高仁義こうじんぎらを日本に派遣し、日本との通好を企画する。

 この初めての渤海使は、日本に到着した時、蝦夷に殺害され、生き残った高斉徳こうさいとく他八名が出羽国の沿岸を漂流し、翌年、聖武しょうむ天皇に拝謁した。

 そして、この年日本が、引田虫麻呂ひきたのむしまろら六十二名を送渤海客使として派遣するなど軍事同盟的な交流が形成された。

 しかし渤海と唐の関係改善が実現すると、日本との関係は軍事的な性格から文化交流的、商業的な性格を帯びるようになり、その交流は九百二十六年(和歴:延長えんちょう四年)、渤海滅亡時までの二百年間継続した。日本海側の、金沢、敦賀つるが、秋田城などからは渤海との交流を示す遺物が発掘されている。


 十世紀初頭に唐、新羅、渤海は次々と滅ぶ。

 唐が滅びた後、西のシラムレン河流域に於いて耶律阿保機やりつあぼきによって建国された契丹国きったんこくのちの遼)の侵攻を受け、渤海は九百二十六年(和歴:延長えんちょう四年)に滅亡。契丹は渤海の故地こじ東丹国とうたんこくを設置してこの地域を支配した。

 契丹の耶律阿保機は、八部を纏め、九百十六年(和歴:延喜えんぎ十六年)に唐滅亡後の混乱に乗じて自らの国を建て、国号を契丹とし、契丹国皇帝と成った。

 契丹は勢力を拡大して、北の女真じゅるちんや西の西夏・ウイグル・突厥諸部とっけつしょぶ沙陀諸部さだしょぶを服属させ、東の渤海や西の烏古うこを滅ぼした。

 朝鮮では、後三国時代を経て九百三十六年(和歴:承平じょうへい六年)に高麗が半島を統一し、新羅がほろんだ。

 中国は五代十国時代を経て九百六十年(和歴:天徳てんとく四年)に北宋が統一することになる。

 因みに、高麗が朝鮮半島を統一し新羅が滅んだ九百三十六年(和歴:承平じょうへい六年)は、平将門が源扶みなもとのたすく源隆みなもとのたかし源繁みなもとのしげるの三兄弟の待ち伏せを受け、逆に打ち取った野本の戦いの翌年のことであり、正に、この年に千方が誕生しているのだ。

 この頃になると、日本はこれらの国とは国交を持たず、以後、国風文化が発達したと言われている。

 ところが、契丹には、日本からの使節が数度訪れたという記録が残されているのだ。

 もちろん、日本側にはそんな記録は無い。これはどういうことだろうか?

(一)朝廷が何らかの理由があって、その事実を隠した。

(二)契丹側が、有りもしない記録を残した。 

(三)日本からの使節が訪れたことは事実だが、それは朝廷の使者では無かった。

 私は(三)ではないかと思う。

 その理由だが、まず契丹の記録には、朝貢と記されている。つまり、貢物を持って契丹の皇帝に拝謁したと言うことだ。もし、それが事実で有るならば、朝廷がその事実を隠す可能性は有るかも知れない。

 渤海は、戦略上の都合から、日本に朝貢していた。周り中を敵に囲まれていたので、新羅と対立している日本を味方にして置きたかったのだ。

 敵の敵は味方ということだが、立場上、渤海は日本にへりくだらざるを得なかった。しかし、貢物を受けた方は、その度量を示す為、貢物に倍した物を下賜かちょうしてやるならわしとなっている。つまり、朝貢貿易は、謙って貢物を捧げる立場の者が経済的利益を受ける仕組みとなっているのだ。

 渤海は、日本との朝貢貿易で多大な利益を得ていた。要は、名を取るか実を取るかということだ。

 歴代中国の王朝は、名を取っている。中原ちゅうげんを制する皇帝は、周辺諸国から、貢物を受け、その国を率いる君主を王として冊封さくほうし、皇帝に忠誠を誓わせるのだ。

 当然、契丹もそ言う立場を目指していた。契丹側から見れば、当然、朝貢でなければならない。だから、歴代朝鮮の統一王朝も全て、中国の中原を制する歴代王朝に朝貢しており、中国の皇帝に冊封された王であって、皇帝と称した君主は居ない。

 中華王朝の周辺諸国の選択肢は、敵対するか朝貢するかしかない。力の無い国が朝貢を拒否すれば、侵略の対象となってしまうのだ。

 ところが、海を隔てているという地の利が有って、日本は中国皇帝に冊封されることは無かった。聖徳太子は隋使の国書に

日出ひいずところの天子、しょ日没ひぼっするところの天子に致す」

と書いて、

「無礼である、二度と取り次がせるな」

と隋の皇帝・煬帝ようだいを多いに不快にさせた(隋書)。

 対等な関係を主張していたのだ。後のことではあるが、再三交易を迫る元の皇帝・フビライの使者を、時の執権・北条時宗が斬り殺させたりしている。そして、このことが元寇げんこうを招いた。

 聖徳太子については、その実在を疑う見方も有るので、国書が聖徳太子の手の寄るものと断定は出来ない。いずれにせよ、この時期、日本が契丹に朝貢しなければならない事情は見出せない。

 しかし、儀式の際に朝廷で使用していた馬飾うまかざりは、何と契丹の物と瓜二うりふたつなのである。

 偶然とは言えないほど似ている。これは、日本と契丹の交流が有ったのではないかと思わせる根拠となる。

 とすれば、朝廷の使者で無い者が朝廷の使者を名乗り朝貢したか、朝廷の使者では無いことを承知の上で、威勢を示す為の必要から、契丹側が、日本が朝貢して来たと勝手に記録に残したか、そのどちらかでは無いだろうか。

 契丹は名を取りたかったし、訪れた者は名など気にせず、利を得られれば良い立場の者だったのだ。

 馬飾うまかざりは、蝦夷の族長の誰かが契丹との交易で手に入れたものが、数人の手を経て朝廷に献上されたと考えることには無理が有るだろうか。

 当時の日本の玄関口は北九州である。しかし、渤海の最初の使節のように、出羽国(現・山形県、秋田県)に漂着した記録も有る。

 荒れ狂う日本海を渡るということは、当時の船や航海技術を以てすれば、とてつもないリスクを伴うことになる。難破したり、難破にまでは至らなくても、航路を見失ったりして漂着することは有る。蝦夷が先に海を渡ったということは無いだろう。蝦夷にはその造船技術も航海術も無かった。

 また、契丹も遊牧民族である。元々は、現在の内モンゴルを中心とした内陸国である。優れた船と航海術を持っていたとは思えない。しかし、渤海を侵略したことにより、海に面した国土を手に入れた。そして、海洋技術と日本に関する知識も渤海から得たはずだ。

 この時代の少し後から、契丹(遼)は、大陸での覇権を目指して宋への進出を図る。

 九百九十三年(和歴:天歴てんれき四年)、遼(契丹)は高麗への武力侵攻を開始した。この侵攻は五度に及び、第一次侵攻では、高麗は遼に対して朝貢し、遼の年号使用すること、宋と断交すること。高麗が遼へ捕虜を返還するという条件で講和が成立する。

 しかし、その後も争いが起こり、遼は侵攻を繰り返す。

 ところが、第五次侵攻の際、遼は高麗に大敗してしまうのだ。この雪辱を晴らすべく、遼の聖宗は、大軍を集め再度の高麗征討の準備を始める。

 それを知った高麗は、再び臣下の誓いと朝貢を行うとする使節を遼に送る。

 千二十年(和歴:寛仁かんにん四年)に、遼はこれを受け容れて和を結び、両国の平和が回復する。この過程に於いて、契丹(遼)は、海軍力も強化して行ったと思われる。

 例えば、高麗に従うことを良しとしない新羅の将兵が、軍船を奪って契丹に亡命を求めたということが有るかも知れない。敵の敵は味方という考え方からすれば、大いに有りることだ。航海技術にけた新羅の将兵を軍船ごと受け入れるのは、高麗への侵攻を考えていた契丹に取って、大いに有益であったことだろう。また、新羅の将兵に取っても、危険な日本海を渡るより、岸沿いに北上する方が安全な選択であったろう。この物語の時代、そしてその前後の、大陸での時代背景はざっとそんな処である。


 一方日本では、元慶がんぎょう二年(八百七十八年)三月、夷俘いふが蜂起して秋田城を急襲。秋田城司介あきたじょうのすけ良岑近よしみねのちかしは防戦し兼ねて逃亡した。夷俘は周辺に火を放ち、出羽守・藤原興世ふじわらのおきよも逃亡してしまう。良岑近の苛政かせいに反抗した出羽の蝦夷の大規模な反乱、元慶がんぎょうの乱である。

 出羽の兵ではこの乱を抑え切れず、朝廷は藤原保則ふじわらのやすのり出羽権守でわのごんのかみに任命、また小野春風おののはるかぜを鎮守府将軍として派遣し鎮圧に当たらせた。

 保則は俘囚に食糧を支給するなどして懐柔、春風は陸奥から入って米代川よねしろがわ沿いを、流域の豪族を説得しつつ秋田に向かい、その寛大な政策によって、元慶がんぎょう三年(八百七十九年)三月(ようや)く乱を終息しゅうそくさせた。

 ところで、九百十五年(延喜えんぎ十四年)に北東北に二千年来最大の自然災害である十和田湖とわだこ火山の大噴火が起きるが、この噴火あるいはそれに続く広範囲の自然災害が全く文書で記述されていない。

 元慶がんようの乱は事実上蝦夷側の要求が通り、雄物川おものがわ以北は蝦夷側の支配する地区となり、朝廷が手を出せない土地となってしまったのでは無いかと考える人がいる。つまり、出羽国は陸奥国以上に、朝廷から見て、何が起こっているのか全く分からない地域となっていたのである。

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