七拾壱 黄金 1
或る日、何気無く千方が都留儀の居室を訪れると、先客が有った。
見慣れぬ衣装を着ている。蝦夷ではない。
『新羅人か』
と千方は思った。武蔵にも新羅人は多く居る。高麗に従うことを嫌い、半島を脱出した新羅人の中には海賊となって暴れ回っている者も居たが、この国に渡って社会に溶け込んでいる者達も多く居た。
「あ、これは失礼致した」
客に気付いて引き返そうとした千方に、
「良い処に来られた。お引き合わせ致しましょう。どうぞお入り下され」
と都留儀が言った。
戻り掛けた千方は足を止め、居室に入った。客に軽く頭を下げ、都留儀の前に胡坐を掻く。
「この者は、乙吉干と呼ばれていた新羅の者で御座る。と言っても本名では無く一緒に逃れて来た新羅の者達からそう呼ばれていたので、吾もそう呼んでおったのです。
乙吉干とは、何でも、新羅の官職のひとつだそうです。新羅では若くして都で高位に在ったようですが、それだけに、国が滅びた後、高麗の圧迫が厳しく、とうとう、半島を脱出する羽目に成ったとか。本名は朴…… 何と申したかな。どうも、新羅の者の名を覚えるのは苦手じゃ」
「きちじ で よろしゅうございます。おやかたから いただいた なまえでござる」
「部下達を率いて兄と一緒に高麗を逃れ、船でこの国を目指したが、嵐に会って兄と多くの部下達を失い、越の浜辺に打ち上げられたと言うことです。暫く越で囚われの身と成っておりましたが、越の者達との取引で部下共々、吾が買い取りました。
ここに来て三年になります。この度、乙吉干の『吉』と次男を表す『次』を組み合わせ吉次と名付け、我が郎党とすることにしました。」
「きちじ ともうします。よろしくおねがいいたします」
「千方じゃ。先日より都留儀殿の世話になっておる」
「最初、吾も知らなかったのですが、この吉次は、貴重な技を持っておりましてな」
「技? 」
都留儀がにやりと笑い、
「これで 御座いますよ」
と小さな革袋を差し出した。持つとずっしりと重い。
「砂金か? 」
「はい。あちこちの川沿いを探索し、部下達を指図して川砂の中から金を取り出す技を持っておりました」
「越に居た時は、その技を秘しておったのか? 」
「はい。あのものたちは ひどいあつかいをしましたので」
「さすが都留儀殿。人を見る目がお有りなのですね」
「いえ、部下達が慕っているのが見て取れたので、それなりの者であろうと思って遇しただけです。まさか、これ程の人物とは思わなんだ」
「おやかたさまに であったことで すくわれました。おんは かえしたいと おもっています」
「いや、十分に返して貰っておる」
金はその美しい輝きと安定性の為、古代の人々によって神聖な金属として尊ばれていた。
しかし、古代日本の記録には金の産出記録は見られない。東アジア第一の産金地は朝鮮半島南部であった。日本は長い間、金を朝鮮半島から輸入していたのだ。
しかし、七百四十九年、奈良時代の天平二十年になって、陸奥守・百済王・敬福から黄金九百両が貢上される。古代の制度の一両は三七・五グラムに当たると言うから、九百両は約三・四キロになる。現在の価値にすれば、一億六千万円ほどになるであろうか。
聖武天皇は狂喜し、翌年、天平勝宝と改元した。
聖武天皇が狂喜したのには理由が有る。俗に奈良の大仏と呼ばれている東大寺・盧舎那仏の制作中で、それに塗金する為の金の調達に悩んでいたのである。
朝廷は、遣唐使を派遣して金を調達することも検討していた。その一方で、全国にも黄金探索の指令が出されていた。
金を発見したのは、敬福配下の百済系鉱山師ではないかとも言われている。産出された場所は、陸奥国・小田郡(現・宮城県遠田郡涌谷町涌谷黄金迫)付近である。
百済王・敬福は七百四十三年(天平十五年)に陸奥介から陸奥守に昇進するが、七百四十六年(天平十八年)四月、一旦、上総守に転出している。しかし九月には従五位上へと加叙を受けて陸奥守に再任されているのだ。妙な人事である。
推測するに、朝廷の許可を得た上で、上総守に転出後も部下の鉱山師を陸奥に残し、探索を続けさせていたのではないか? その鉱山師から上総の敬福に 砂金鉱床発見の吉報が届く。敬福は、早速その旨を朝廷に報告する。それを受けて朝廷は、位階を上げた上で、急遽、敬福を陸奥守に戻したのだろう。もちろん、金の採掘精錬の総指揮を執らせる為である。これにより敬福は従三位へ七階級特進し、宮内卿兼河内守に任命され、産金に貢献した地方官人らも全て位階が進められた。年号は天平から天平感宝と改められ、更に天平勝宝と改められている。
その後、陸奥各地の他、下野(栃木県)、駿河(静岡県)、佐渡(新潟県)でも金が採掘されるようになる。
陸奥から朝廷へ貢納する金は、天平から平安時代末期までの凡そ四百年に渡って、年に三百五十両(十三キログラム:現在の価格で六千万円ほど)と定められていた。産出量は、年に百キロ近く有ったのではないかと言われる。
安倍に取っても金は魅力的だった。元々蝦夷は金というものにそれほどの関心を持っていなかった。しかし、大和に降伏し、大和人との交流が深まるに連れ、その魅力に気付いて行った。
大和が発見した金採掘場以外に独自の採掘場を増やして行くことが安倍の力を伸ばして行く為に大きな役割を果たしてくれたはずだ。もちろん金が採掘出来る場所が見つかれば,鎮守府に報告しなければならない。しかし、一部の場所を秘密にしたり、産量を誤魔化したりすることは幾らでも出来る。
誤魔化すと言うと悪徳のように聞こえるが、蝦夷の土地で採れる物は元々蝦夷のものだ。それを大和に渡さなければならないということは、言わば収奪されるということに外ならない。
一部の場所を秘密にしたり、産量を誤魔化したりすると言うことは、言わば自己防衛なのである。
たまたま越で囚われの身となっていた乙吉干の人柄を見抜き、部下共々買い取った都留儀の行為は、『情けは他人の為ならず』との諺の如く、安倍に幸いを齎していたのだ。
「千方様。明日より、この吉次達が、砂金の探索に出掛けることになっております。宜しければ同道されて見てはいかがかな? 」
「えっ? 宜しいのですか? 」
余り他人に知られたくは無いことではないのかと千方は思った。
「何の、新しき採掘場を見付ければ、全て鎮守府にお報せしておるのですから、我等に隠し事など、何も御座らん」
都留儀が平然と言って退けた。




