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伍拾八 安倍氏は何処から来たのか? 1

 武家政権の樹立に関わる文学がどこから語られるかと言えば、最高に遡ったとしても、まずは、前九年、後三年のえきからであろう。この役に於ける八幡太郎はちまんたろう義家よしいえの活躍が、源平史の原点のように成っている。

 そこに宿敵として突如登場する、俘囚ふしゅうおさ・安倍氏とはどのような経緯で強大な勢力を誇るように成って行ったのであろうか?

 阿弖流爲あてるい坂上田村麿さかのうえのたむらまろに投降したのが、延暦えんりゃく二十一年(八百二年)。

 前九年の役の切掛けとなる、陸奥守・藤原登任ふじわらのなりとうが数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試みたのが永承えいしょう六年(千五十一年)である。

 この時、既に安倍頼時あべのよりときは、陸奥大掾むつのだいじょう或いは陸奥権守むつのごんのかみの職に在ったと言う。阿弖流爲の投降から二百五十年ほどの間に、蝦夷社会に何が有り、大豪族・安倍氏が出現するに至ったのであろうか?


 阿弖流爲、母礼もれの二人が、延暦えんりゃく二十一年(八百二年)八月十三日に河内国かわちのくにで処刑された後、五百名余りの部下達は半年余り収容されていた。

 大和側にしてみれば、阿弖流爲達の処刑を知った彼等が、強く大和を怨み反抗的な態度に出るのではないかと危惧していたのだ。

 しかし、阿弖流爲と母礼の処刑を予想していた彼等は、日高見の民の血を守れという阿弖流爲の言い付けを守り、じっとこらえ、行動を自粛していた。その後、半年余り様子を見ていたが、みやこから戻った田村麿の決断で彼等は解放され、本来の居住地に戻された。

 延暦えんりゃく二十一年(八百二年)、坂上田村麿が築いた胆沢城(現・奥州市水沢区佐倉河字九蔵田)に多賀城から鎮守府が移され、嘗ての阿弖流爲の本拠地は直接に鎮守府の管理下に置かれることになった。更に翌年には岩手山を背にした場所(現・盛岡市下太田方八丁付近)に紫波城しわじょうを築き、これを以って蝦夷征討は実質的には終了した。

 その後、紫波城は水害のため一年ほどで使えなくなり、徳丹城とくたんじょう(現・紫波郡矢巾町徳田)にその機能を移す。

 当面、大和の役人が蝦夷を直接管理することを試みたが、阿弖流爲の部下達は大人しくしていたものの、全体としてはやはり上手く行かなかった。


 その後、京の都で、蝦夷政策の大転換となる大きな出来事が起こる。

 延暦えんりゃく二十四年(八百五年)十二月七日、弱冠三十二歳の参議・藤原緒嗣ふじわらのおつぐと同僚で高齢の参議・菅野真道すがののまみちは、桓武天皇より現在の政治の問題点について質問を受けた。

 緒嗣は、開口一番

「今、天下の人々が苦しんでいるのは、蝦夷平定と平安京の建設に御座います。この二つをやめれば皆安心致します」

と述べた。身分の低い学者から抜擢を受け、長年天皇に仕えた真道は、天皇の意向を汲んだつもりで必死に反論をしたものの、ついに天皇は緒嗣の主張を受け入れて、ライフワークとも呼ぶべき事業である、蝦夷平定と平安京の建設の中止を宣言した。 

 いわゆる徳政相論である。

 しかしこれは、桓武天皇が政策転換を理由付ける為に、緒嗣を使って仕組んだ論争だったと思われる。これに因り、田村麿の三度目の蝦夷征討は中止された。その生涯の殆どを遷都と征夷に賭けた桓武天皇は、晩年に至って政策の大転換を行い、翌年に崩御ほうぎょした。 

 しかし、まだ奥地には大和朝廷に服さぬ蝦夷は残されていた。田村麿帰京後の鎮守府は、蝦夷の反乱に再びおびえることとなる。


 桓武天皇は、その諡名おくりなに『武』の文字が入っているように戦いに明け暮れた最後の天皇であった。  

 父の白壁しらかべ王は天武朝に在って、『すた皇子みこ』と言われ皇位継承など思いも寄らぬ立場にあった。

 独身の女帝であった称徳しょうとく天皇が皇位を弓削道鏡ゆげのどうきょうに譲ると言い出し、和気清麿わけのきよまろらに阻まれ、子も跡継ぎも残さぬまま世を去る少し前、緒嗣の父・藤原百川ふじわらのももかわ、坂上田村麿の父・苅田麿かりたまろらの工作に因って担ぎ出され、斎王いつきのみやを務め、独身のままであった井上内親王いがみないしんのうと婚姻していた白壁王は皇太子に立てられ、光仁こうにん天皇と成った。

 山部やまべ親王、のちの桓武天皇も又、その母、高野新笠たかのにいがさの父の身分が低かった為、皇位継承の望は無かった。

 一部に言われるように母の高野新笠が渡来人の血を引いていたからという理由では無い。しかし、皇后・井上内親王が、宝亀ほうき三年(七百七十二年)三月二日に、皇太子・他戸親王おさべしんのうが同年五月二十七日に、天皇呪詛の疑いに因って相次いで突如廃された為に、翌四年(七百七十三年)一月二日に皇太子とされた。

 そして、天応てんおう元年(七百八十一年)四月に光仁天皇が崩御ほうぎょする前に禅譲ぜんじょうを受けていた皇太子(山部やまべ王)が即位する。即ち桓武天皇である。


 余談だが、桓武天皇即位の年、天応てんおう元年(七百八十一年)六月に右大臣・大中臣清麻呂おおなかとみのきよまろが引退すると、藤原秀郷の祖とされている藤原魚名ふじわらのうおなが左大臣に昇進する。

 しかし、翌、延暦えんりゃく元年(七百八十二年)六月に突然左大臣を罷免された上、大宰府へ左遷された。

 理由は氷上川継ひがみのかわつぐの乱に連座したものと考えられている。魚名の死後間も無く、桓武天皇は左大臣の官職を贈り、左大臣免官に関する詔勅しょうちょくや官符等を焼却させ、その名誉を回復させた。ぎぬであったということなのだろうか?


 皇位に就きはしたが、桓武天皇の政治基盤は弱かった。そこでまず、大きな影響力を持っていた奈良仏教界の力を排除する為に遷都を実行したのだ。

 桓武天皇は奈良から長岡京や平安京への寺の移転を許さなかった。そして、奈良仏教に批判的だった最澄さいちょうを支援して比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじを開かせ、後に高野山こうやさんを開いた天才空海が歴史の表舞台に登場出来る環境を作った。

 蝦夷に完全勝利して征夷を終わらせ、その武威を示すことに寄って皇位安定を図り、世を平安に導くことが桓武の最大の目標であった。

 桓武天皇は、権力基盤の確立という点では目的を果たすことが出来たが、一方で、政策の弊害も色々なところで噴出していた。

 一旦権力基盤を固めた為政者が、その政策の限界を自覚し、まして、晩年に自ら幕引きをして政策の大転換を図った、という例を余り知らない。大抵は、財政が破綻しようが、何万人の餓死者が出ようが、執拗に誤った政策を押し進めようとして、結局は殺されるか国が滅びるかしてしまうのが、古今東西の権力者の末路であろう。

 もし、桓武天皇がそうした中のひとりであったならば、良くて天武系に戻っているか、悪くすれば大和朝廷そのものの終焉を迎えていた可能性すら有る。

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