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伍拾九 安倍氏は何処から来たのか? 2

 嵯峨朝さがちょう弘仁こうにん二年(八百十一年)になって、文室綿麻呂ふんやのわたまろが征夷大将軍と成って、北方の蝦夷を討伐し、宝亀ほうき五年(七百七十四年)以来の三十八年戦争を最終的に終わらせることとなるのだが、これは徳政相論の精神に背くことでは無く、いわば、幕引きの為に行われたものと言って良いだろう。

 徳政相論・征夷停止の決定を受けてまず行われたことは、坂東を蝦夷政策に関わるあらゆる負担から解放することであった。

 坂東諸国は、征夷軍士・鎮兵の派遣、柵戸きのへの移配、征夷の為の物資の調達など、東北政策に関わる膨大な人的・物的負担を課されていた。それが、坂東諸国を疲弊させ、桓武天皇に征夷を断念させた大きな理由である。

 対・大和戦争の限界を感じた阿弖流爲は悲痛な想いで投降したが、実は、大和朝廷側も限界に達していたのだ。東北政策に必要な人と物は、一部を除いて陸奥、出羽、両国で賄われるようになった。

 この為、文室綿麻呂は、邑良志閇村おらしべむらの俘囚、吉弥侯部都留岐きみこべのつるぎらを使って弊伊村へいいむらを攻めている。しかし、この吉弥侯部都留岐自身は、征夷終結後の弘仁こうにん八年(八百十七年)九月に反乱を越し、同族六十一人と共に捕えられている。

 坂東の人と物を当てにすることが出来無くなったことで、対・蝦夷政策は伝統的な

『夷を以って夷を制す』

と言う方針に頼らざるを得なくなった訳だが、寛平かんぴょう九年(八百九十七年)には移配した蝦夷を奥羽へ送還する政策を朝廷が打ち出した為、これにより全国へ移配されていた蝦夷の殆どは奥羽へ還住かんおうすることとなった。

 蝦夷の人口が一挙に増えることになるだけで無く、元々、移配された蝦夷は、大和に従順では無く、移配先でも様々な問題を起こしていた為、朝廷は、彼等を奥羽に戻すことにしたのだ。しかし、これにより陸奥は再び反乱が繰り返される土地となる。


 そもそも『みちのく』とは「道の奥」から来ているが、道とは道路のことではなく行政区分のことであり、大和の行政が及ばない地域という意味だ。単に『奥』とも言う。

 奥六郡とは、胆沢郡いさわごおり江刺郡えさしごおり和賀郡わかごおり紫波郡しわごおり稗貫郡ひえぬきごおり岩手郡いわてごおりの六郡の総称である。現在の岩手県奥州市から岩手県盛岡市に掛けての地域に当たる。

 弘仁こうにん二年(八百十一年)に和賀わか稗貫ひえぬき斯波しわ(紫波)の三郡が設置されている。

 承和じょうわ年間(八百三十四年~八百四十八年)に発生した奥六郡の騒乱は陸奥・出羽両国の支配体制に変化をもたらした。

 騒乱が発生した地域は、「奥邑」「奥県」などと呼ばれる黒川以北の奥郡で、移民系住民と蝦夷系住民が雑居する地域であった。

 長年に渡る征夷政策の中で敵対させられ、分割支配されて来た『民』と『夷』の対立が表面化したもので、征夷政策の後遺症とでも言うべきものであった。いずれも、俘囚に不穏な動きが有り、移民系住民が動揺して逃亡したと言うもので、騒ぎをしずめる為に、千人乃至(ないし)二千人もの援兵が動員されている。

 承和じょうわ年間には、俘囚の不穏な動きに加えて玉造塞湯泉石神たまつくりさいのゆいしのかみ(鳴子火山)の噴火(承和じょうわ四年四月:八百三十八年)、災星の出現、地震の発生(承和じょうわ六年四月)など、民衆の不安をあおる現象が次々と発生していた。これらは

庚申こうしんの年には蝦夷の反乱が起こる』

と言う流言りゅうげんに結び付けられ、その前兆と理解されたものだ。

 征夷の終焉以降の北奥では、移民政策の停止に寄って移民住民に基礎を置いた従来の基本政策を維持出来無くなり、代わって蝦夷系住民に、より多くの比重を置いた新たな支配方式に移行するのだが、それが、俘囚の新興の豪族の登用を促進させ、この流れを加速させたと思われる。


 前九年の役の一方の主役である安倍頼時あべのよりとき(後に改名し頼良よりよし)以前については、その父が忠良ただよし、祖父が忠頼ただよりと推測されるのみである。

 殆ど記録が無いのだ。それはなぜか? 蝦夷の管理をその族長に丸投げしてしまった結果、大和政権の官吏かんりがその実態を把握しておらず、朝廷への報告文書にその子細が存在しなかった為だろう。

 当主としての一代を三十年、三代で九十年と考えると、忠頼が家督を継いだのが天徳てんとく四年(九百六十年)前後と考えたい。この物語の流れの時代設定は天歴てんれき四年(九百五拾年)になるので、忠頼が家督を継ぐ十年ほど前ということになる。


 陸奥安倍氏の起源については、

 1.神武天皇に殺された畿内の王・長脛彦の兄・安日彦をその始祖とする説。

 2.奥州に下った中央豪族である安倍氏のいずれかが任地で子孫を残したとの説。

 3.奈良時代に陸奥国に勢力を広げた阿倍氏から、陸奥南部の諸豪族が阿倍を冠した複姓(阿倍陸奥臣あべのむつのおみ阿倍安積臣あべのあたかのおみ、ほか)を賜与ちょうよされ支配関係が築かれたが、その子孫との説。

 4.朝廷に従った蝦夷(俘囚)とする説。

 などがあるが、この物語では「3.」と「4.」を基に構成して行く。

「1.」に付いては、神話の世界である。「2.」に付いては、安倍比羅夫あべのひらふ末裔まつえいとの説が多いが、蝦夷から見れば侵略者である大和の将軍の末裔が蝦夷に受け入れられ、土着して、対・大和戦争を経て支配を拡大して行ったとは考えづらい。大和の名族との間に婚姻関係が出て来るのは、恐らく頼時の代になってからであろうと思う。


『夷を以って夷を制す』とは言っても、その手先に使った俘囚がすぐ反乱を起こすのでは、いたちごっことなってしまう。

 蝦夷の支配を任せる俘囚は余程信用出来る者でなければならない。

 黒川郡くろかわごおりの西北にあった嘉色麻郡しかまごおり(現・宮城県加美郡色麻町)で、嘉祥かしょう元年(八百四十八年)五月十三日,色麻郡少領しかまごおりのしょうりょう(副郡司)・陸奥臣千継むつのおみちつぐら八名が阿倍あべの陸奥臣むつのおみかばねを与えられている。

 早くから大和朝廷に降り、反乱も起こさず、朝廷の意向に従って務めを果たし、外位げいではあるが位階を与えられ、成果を上げて来た俘囚達である。そこで、彼等を以って奥六郡の蝦夷を管理させようとしたのだ。

 朝廷は彼等を利用して来た。蝦夷との戦いに際しては、常に先陣を務めた。そして裏切らなかった者達なのだ。その中のひとりが、阿弖流爲の投降以来、蝦夷権力の空白地帯となっており、且つ、表面的には従順だが潜在的に反乱の危険性を内在していると思われる地域、胆沢付近に一族と共に送り込まれ、その支配を任されることとなった。

 その後、名乗りを「阿部」から「安倍」に変えていた。安倍陸奥臣あべのむつのおみを名乗り、大和の位階を持った俘囚の長。その孫を安倍忠頼の五代の祖としたい。

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