伍拾弐 貞盛と将門 1 京の水
「思えば、麿の人生が最も輝いていたのは、京に在って出世を目指していた、あの頃であったのかな? 」
と貞盛は思った。
京の水が合い、毎日が楽しくて仕方なかった。
土臭い坂東から出て来たが、直ぐに都風の着こなしや振舞いを身に着けることが出来た。他人が何を考え、何を欲しているのかが良く見えた。それに答えてやれば気に入られ、気に入られれば、どこに居ても居心地が良い。気に入られる為には財が必要だが、健在であった父・国香に頼めば相当な無理も聞いてくれた。周りへの気遣いは相当必要だったが、こうすれば願いを聞いてくれるだろうという目算を立てて実行し、それが当った時を思えば、苦痛となるどころか、わくわくするような快感であった。
「麿には京の水が合っている。あんな泥臭い坂東で、腕尽くの争い事を繰り返しながら一生を終わるなど真っ平だ。麿には才覚が有る。この京できっと出世して見せる。常陸の所領は、繁盛か兼任に任せて、ずっと京に残れるよう、折を見て父上にお願いしてみよう」
そんな風に考えていた。
たまに、小次郎(将門)に会うと、哀れに思えて仕方なかった。
せっかく、摂政家(藤原忠平)に仕えることが出来たと言うのに、それを生かす才覚を全く持ち合わせて居ない。
取るに足らぬ者達や家司の言動に気を病み、愚痴ばかり並べる。官職を得る為には、摂政様の耳に好ましい噂が達するようにしなければならない。それを順に伝えて行くのが、同僚であり上司であり、女子達であり、家司だ。言わば”道具” だ。その道具を上手く使い熟せないからと言って癇癪を起こしているのだ、と言うことがまるで分かっていない。他人は皆、己の思うような人間でなければならないとでも思っているのだろうか?
「ひとには様々な考えがある。気に入らない相手をどうすれば味方に出来るか考えろ」
と言ってやるのだが、将門にはさっぱり通じない。終いには、貞盛も面倒になって、適当に話を合わせ、心の中では憐れむようになってしまったのだ。
だが、貞盛が将門に対して心の中で優位に立っていたのは、この頃だけのことである。
従兄弟同士だから、父親に着いて行って、お互いの舘を訪問し合うことは幾度も有った。
父達が話し込んでいる間、二人は良く遊んだ。ところが、乗馬も弓も相撲も、貞盛は体の大きな将門に全く敵わない。多少、悔しくはあったが、大らかな性格で、それほどの負けず嫌いでも無かった貞盛は、将門に敵対心を抱くようなことは無く、将門もまた、貞盛を馬鹿にするようなことは無かった。
だから、京に在る間、出来る限り力になってやろうという気は有った。己が優位に有るということで気持ちに余裕が有ったのだ。
「小次郎があんなことさえ引き起こさなければ、麿は京で、小次郎は坂東で、それぞれ己の性に合った場所で己らしい生き方が出来ていたろう。所領のことなど、麿に相談すれば父に掛け合ってもやれたし、もし父が承諾しなくても、自分の代になるまで待てば、必ず返してやったのに……… 」
そう思った。
さすがに、父が小次郎に討たれたという報せを受け取った時には愕然としたが、朝廷の許しを得て休暇を取って常陸に帰り色々調べて見ると、将門を討とうとした源護の一族に加担して護の舘におり、追って来た将門軍が点けた火に巻かれて死んだのだということが分かった。
『小次郎は父を殺そうと思って殺した訳では無い。そこに、父が居ることすら知らなかったのだ』
そう思うと将門を憎む気持ちは失せた。それよりも、京での生活を捨てなければならないのではないかという不安の方が遙かに大きかった。
『こんな揉め事はさっさと片付けて京に戻ろう』
そう思った。
ところが、伯父の良正が、
「将門を討って父の無念を晴らせ」
としつこく言って来る。
「一度、小次郎と話し合ってみたい」
と返事をすると、
「情けない。それでも坂東平氏の嫡流か! 」
と、貞盛を臆病者扱いする始末。
「小次郎もそうだが、なにゆえ坂東の者は、頭が固く争いばかり好むのだろうか」
と腹が立った。面目ばかり気にして、どうすればお互い失う物を少なくして和解出来るか、など考えようともしない。
「やはり、こんな土地では暮せぬ」
貞盛は改めてそう思った。
しかし、弟の繁盛も良正の尻馬に乗って貞盛を責め立てて来る。
「それなら、汝が跡を継いで、好きなようにすれば良い。麿は京に戻る」
と言ってやりたいが、そんなことをすれば、
「臆病者の貞盛は、将門が怖くて京に逃げ帰った」
と、坂東中の評判になってしまうだろう。
その上、母では無いが、父の妻となっている護の長女が、
「殿を討たれた悔しさは、麿も貞盛殿も同じじゃが、麿は、それに加えて三人の弟達も全て将門に討たれ、父は何もかも失ってしまったのです。この上は、貞盛殿に仇を討って頂くことより外、生きる望みとて御座いません。やつれ切った父の顔を見ることさえ辛いのです。どうか、この想いお察し下さい」
と泣き崩れながら訴えて来る始末。
「そこもとの父上が、朝廷に訴えたそうに御座いますな。そのお裁きが出る前にこちらからことを起こせば、当方の落ち度となりましょう。まずは、お裁きを待たれるのが筋ではあるまいか」
そう宥めて、貞盛は将門との和睦を進めた。
事態は暫くの間落ち着いたかに見えた。
だが、いつまで待っても朝廷の裁きどころか、喚問の沙汰も無い。
承平五年(九百三十五年)九月に入って、源護の許に、主筋に当たる、参議・源是茂から私信が届いた。
是茂は、嵯峨源氏・源昇の子であり、護と同じ一字名源氏の出であるが、光孝天皇の養子となり第十三皇子となった時、名を変えていた。
その是茂からの報せは、護を更に落胆させる内容だった。
人を派遣して調べさせたところ、待ち伏せを受けた将門が反撃し、その勢いを借って護の本拠まで攻め込んだものであることが確認され、罰を与えるべき所業とは言えないという結論になりそうな雰囲気だと言う。
いつ誰が派遣されて誰に何を聞いたのか全く分らない。要は私闘と観て、朝廷は関わりを避けたのである。
「そんな馬鹿な話が有るものか! 」
憤懣やる方無い護は、その書状を、今、最も頼りになりそうな水守良正(平良正)に見せた。
もうひとりの娘婿である良兼は今、親王任国である上総で介の任にある。つまり、他国で言えば「守」に相当する立場にある訳だ。
私事で軽々に動くことは出来ない。その為良兼は、あまり関わりたく無いような素振りを見せているのだ。
親王任国の介は、京から派遣される受領が務める建前となっているが、実際には、下向して退任後も坂東に住み着いた王臣貴族の子がそのまま任ぜられる例も多かった。この時も高望の子である良兼が務めていた。




