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藤原千方伝・坂東の風  作者: 青木 航
幼年編 第一章
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弐拾参 成長

 翌朝、千方は朝鳥に揺り起こされて目覚めた。生来せいらい目覚めは良い方である。しかし、その朝は深い眠りの中にあった。目覚めると同時に体中に痛みを感じた。あらゆる筋肉が痛い。起きるのが億劫おっくうだった。しかし、そうもして居られない。何とか起き上がったが、内腿うちももの筋肉の痛みで普通に歩けない。蟹股がにまた気味に歩いて土間に降りようとしたが、それもひと苦労。楊枝ようじを使って、竹樋ちくひから流れ落ちている水で顔を洗う。

 そこまではまだ良かったが、裏に出て川屋かわや(厠)に行き、しゃがもうとしたがしゃがめない。痛みをこらえて脂汗を流しながら、やっとのことで用を足した。川屋は溝の上に、真ん中を開けて細い丸太を並べて踏み板代わりにしている。舘に引き込んで流れ落ちる流水を排水口から溝に引き込んでおり、少し先に沈殿させる為の深い穴が掘ってある。ふんかたまりのまま下の川に流れ落ちるのでは無く、一旦、穴の中に流れ込み、穴の中でふやけて細かく分解されてから、浮き上がって来たものが流れ落ちて行く。紙は貴重品で尻を拭くなど、当時としては有り得ないことであるから、籌木ちゅうぎと呼ばれる細い木の棒で掻き取り、木の葉で拭く。やっとのことで排便を済ませた。

 腕の擦り傷は、まだ赤身の残る瘡蓋かさぶたおおわれている。一応流水で洗ったが、特に手当などはしていない。瘡蓋が乾き皮膚から浮き上がってはがせるようになるのを待つだけだ。足裏に竹の小枝を差した時、芹菜せりなが大袈裟に手当してくれたが、傷口から毒が入るものなら擦り傷とて変わらないのではないかと思った。そう思うと何か可笑しかったが、芹菜の妙に真剣な素振りは、可笑しいというよりも温かさ、嬉しさとして心に残っていた。

「お体の具合はいかがですかな? 」

 舘に戻ると朝鳥が声を掛けて来た。

「うん? …… すこぶる快調だ」

「それは上々。古能代がお待ちしていると思いますので、お支度したくを急がれた方が宜しいですぞ」

「分かった。そうしよう」

 相当筋肉痛を起こしていることはすぐに分かったが、千方が弱音を吐かないことが朝鳥には嬉しかった。しかし、その歩き方を見ていると、つい吹き出しそうになるのを朝鳥はこらえていた。気付かない振りをして、当然のことのように毎日の日課を千方にこなして貰わなければならない。七日から十日も持てば何とかなるだろうと思っていた。


  切り株に腰を降ろして、既に古能代が待っていた。

「済まぬ、遅うなった」

「いえ、左程さほどでも御座いません。では、始めましょうか」

 右腕は元より体中の筋肉がきしんでいたが、それを悟られまいと、千方は自分にむち打った。そして、後で拾い集めることを考え、前日のように適当に打ち散らすことはやめた。

 歯を食いしばって痛みに耐えながら引いたが、体が温まって来ると、痛みは嘘のように消えて行った。血行が良くなると鬱血うっけつが和らぐ、それで一時的に痛みも和らぐのだが、また体が冷えて来ると痛みも戻る。


 朝の弓の稽古が終わると、朝餉あさげを済ませ、乗馬の稽古となる。日毎ひごとに丸太は少しずつ吊り上げられてその高さを増して行った。それに連れて、落ち方も変わって来る。最初は横に落ちていたものが、高さが増すと共に頭から落ちるようになる。頭をかばわなければならない訳だが、てのひらを着いたり肘を曲げたりすると、脱臼や骨折といった大怪我に繋がる。手を伸ばして耳の脇から頭上に伸ばし、親指を内側に向けて開いた掌の下の手首のみを内側に曲げると、肘は曲がらず腕の外側全体が弓のような湾曲を作る。このようにした腕は着地の衝撃で曲がるようなことは無く、頭をかばい腕の外側から背中にかけての線を輪のようにして地上で回転することが出来、落馬の衝撃を緩和することが出来るのだ。

 古能代は、この、言わば”受け身” を千方に徹底的にたたき込んだ。千方も

『分かっておる』

などとは二度と言わなかった。


 朝鳥との太刀打ちの稽古にも変化が生まれていた。千方の口から『もう良い』と言う言葉が出なくなったのだ。どんなにへとへとになっていても、千方はやめようとしない。これは朝鳥に取っては嬉しい反面きついことでもあった。いかにごうの者とは言え、朝鳥はもう五十の半ばを超しているのだ。体力的には落ちている。それに引き換え千方の方は、諦めないことに寄って日に日に体力を付けて行く。

「今日はこの辺に致しておきましょう」

 息切れしてみっともないところを見せる前に、朝鳥からそう言い出さざるを得なくなって来ていた。


 ひと月が過ぎる頃には、千方は木馬を卒業し、例の村を半周する周回路で古能代に着いて早足で馬を駆けさせる程になっていた。弓についても筋肉痛の地獄を乗り越え、矢の行方ゆくえが徐々に安定して来ている。

 千方はまれに見る質の良い筋肉の持ち主であった。それに加えて、甘やかされた環境で眠っていた負けん気が目を覚ましつつあった。それらが相乗効果を発揮し、朝鳥ばかりか古能代までもが内心舌を巻くほどの上達振りを千方は見せていたのだ。


 三月みつき目も半ばになると、明らかに千方の外見に変化が認められるようになっていた。腕や胸の筋肉が付き、色白だっただけに日焼けも早く、郷の童達よりもむしろ黒いほどになっていた。背も少し伸びたようだ。

 そんな或る日、いつものように切り替えしの面打ちに来る朝鳥の左面打ちを頭の横で受けず、千方は、左足を退きながら自分の正中線沿いに真直ぐに打ち下ろした。結果、朝鳥の体勢は右に崩れ、千方の棒に抑え込まれた切っ先は外側に向くことになる。比べて千方の棒は、へその前から真直ぐに伸びており、右足に体重を掛け少し体を右にひねりそのまま突き込んだ。思わず仰反のけぞった朝鳥だったが、千方の棒の切っ先はそれ以上伸びて来ず、胸の前でぴたりと止まっていた。

「お見事。…… 負け申した」

 初めて朝鳥が千方をめ、負けを認めた。

 しかし、これで千方の実力が朝鳥を上回ったという訳ではない。切り替えしによる連続面打ちは、千方の持久力を付けさせるため、半ば機械的に繰り返していた攻撃であり、真剣に打ち据えようとしてのものではない。単に千方が少し成長し、一歩、朝鳥に近付いたと言うに過ぎないのだ。

 かつての、古能代と祖真紀の狂気じみた稽古には比べようも無いが、それからの千方と朝鳥の稽古は、より実践的な緊張感を増して行くことになった。


 小雨こさめくらいでは稽古が休みとなることは無いが、大雨の日は休みとなった。そこで舘の中で矢作りの作業を教わり、千方は、自ら自分の矢を作るようになっていった。大雨の日は千方の疲労した筋肉に取っては格好の休息の日ともなった。しかし、小雨の日の稽古の後は十分な注意が必要だった。急いで舘に戻るとすぐに衣類を全て脱ぎ捨て、乾いた布で体中をこする。この時代、風邪をひくことは命に係わることだったのだ。季節は既に梅雨つゆを迎えていた。


 芹菜のことに関しては何の進展も無い。千方は、表の階段を使うよりも裏の急な斜面を登り降りする方が鍛錬になるなどと理屈を付けて舘の裏へ回るのだが、そこにいつも芹菜が居る訳ではない。例え居たとしても、ちらっと見て通り過ぎるだけで、他の女達は声を掛けて来るが、当の芹菜は全く反応して来ない。

 そこで千方は、なんやかやと言っては犬丸を呼び出す。幸いと言うか、この段階で千方は犬丸以外のわらべ達とはほとんど接点を持っていない。その気さくな性格もあって、犬丸は千方がこの郷に来て得た初めての友となった。しかし、千方の心の中には、芹菜のことで犬丸を利用しているという後ろめたさが付きまとっていた。だが、芹菜に近付くことに犬丸が役に立ったかと言うと、実際には、それはほとんど無かった。


 風の日には、古能代は、風に直角に矢を射るよう千方に求めた。風に寄って矢がどのくらい流されるかを、身を以て覚えさせる為だ。

 乗馬に於いては、千方の前を行く、古能代の馬の速度は徐々に早くなり、しまいには全速力で馬を飛ばすのだが、そうなるとさすがに千方の馬との距離は見る見る離れて行く。だがそれは、馬の差ではない。千方は、武蔵から乗って来た小振りな馬では無く、既に大馬たいばを乗りこなしている。これは驚くべき進歩なのだが、古能代との腕の差は比すべくも無い。


 先に広場に戻った古能代は、馬から飛び降り、千方が戻って来るのを待っていた。

 しかし、まさか秀郷の子に馬や弓を教えることになろうとは、若き日の古能代は想像もしていなかった。結局、盗賊にも成らなかったし、郎等にも成らなかった。もし、あの出来事が無かったなら、郷に戻ることも無かったろう。祖真紀とは二度と会いたくも無かった。

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