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藤原千方伝・坂東の風  作者: 青木 航
幼年編 第一章
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弐拾 傷

 左足を爪先立つまさきだちにして引きりながら藪から出て来ると、そこに、犬丸と姉の芹菜が居た。

「何をしておる? 」

 千方が問い掛けた。犬丸は

「へへへ」

と笑って、背に隠していた五本ほどの矢を前に出し千方に見せた。

 そして、

「藪の中の矢は拾っておきました。…… まだ一本残っておりましたか? 」

と言う。

 千方は、さては、どこかで見ておったなと思った。

『ならば最初から出て来て手伝え』

 と思ったが、それは口に出さなかった。

「済まぬ。拾ってくれておったか。助かったぞ」

「足はどうした? 」

 芹菜が聞いた。

「竹の小枝を踏み抜いたが大事無い」

「後で高熱を出して死ぬ者もある。放って置かぬ方が良い」

「そんな大袈裟おおげさな傷ではないわ。まむしに噛まれた訳ではないぞ」

「そう言っていて、十日ほどで死んだ者もおる」

「脅かすな」

「いえ、それは本当ですわ。前の年、死んだ者がおります。木の枝を踏み抜いて放っておいたら、何日もしてから体が突っ張って弓のように反って死んでしまいおりました。まるで狐にでもかれて狂ったようでしたわ」

 そう言ったのは犬丸だった。恐らく、今で言う破傷風だったのだろう。

「この裏に小川が流れている。早く行って傷口を洗った方が良い」

 犬丸の揚げ足を取ることもせず、芹菜は真剣な表情をしている。

「分かった。そうすることにしよう」

 芹菜が支えようとしたが、千方は何と無く気恥ずかしくて、

「犬丸肩を貸してくれ」

と言って犬丸に近付いた。

 透かされた芹菜は、一瞬目を泳がせたが、犬丸から五本の矢を受け取った後、矢筒の置いてあるところに行き、納め、それらを背負って歩き始めた。

 林を抜けて少し下ったところに小川が流れている。澄んだ水が山から下って来る勢いを保って岩に当たって飛沫しぶきを上げている。その水音は弓を引いていた千方にも聞こえていたはずだ。しかし、意識の内には無かった。流れに逆らって泳いでいる小魚が、こけでもついばんでいるのか岩に口を付けては流されて少し離れ、ついばむ為にまた近付く。

 犬丸の肩を借りて水辺まで下りた千方が足を洗っていると、矢筒を置いて一度姿を消した芹菜が戻って来た。

 何か草を手に持っており、それを水ですすぐと手早く揉んで、

「足を出して」

とややぶっきらぼうに言う。

 水辺の岩に腰かけて足を水に漬けていた千方が水から足を上げると、その足先を持って自分の膝の上に乗せ、取り出した布で軽く拭く。

 反射的に千方はなぜか足を退こうとしたのだが、芹菜はそれをぐっと押さえ付ける。

 芹菜の太腿ふとももの柔らかい感触を千方は足首の裏に感じた。

「動かねえで」

「いや、…… 済まん」

 千方は、なぜかどぎまぎしている自分に気が付いた。そして、それを犬丸に気付かれるのではないかと案じた。

「犬丸。見ておったのか弓の稽古を」

と、芹菜には無関心を装って、犬丸に話し掛けた。

「ええ、まあ」

 その辺をうろうろと歩き廻っていた犬丸が答える。

「思ったより、あの弓はきついな。あれほど張りが強いとは思わなかったぞ」

「大和の弓は甘いと、郷の大人達は言うとります」

「そうか。まあ、そう言われてもやむを得んな。腕がぱんぱんに張っておる。これでも弓には自信があったのだが、あの強い弓を、ああ次から次に引くのでは持たぬわ」

「古能代様は、弓も太刀打ちも馬も誰にも負けません。言う通りやっておれば、きっと、上手うなりますわ」

競馬くらべうまは見せて貰ったが、そうか、古能代は太刀打ちも強いのか」

「はい。何でも、阿弖流爲の再来とか大人達は言うております」

「そうか、阿弖流爲の再来か…… 」


 そんな会話を犬丸と交わしながらも、草の汁を足に塗り付けている芹菜の意外に柔らかい手の感触を、千方は感じていた。

 ふとその横顔を見ると、何か懐かしいものを感じた。その輪郭が母・露女つゆめに似ているのだ。

 母の肌は透き通るように白い。それに比べて芹菜の肌は褐色である。だが、母も芹菜も同じように漆黒しっこくの豊かな髪を持っている。

 ふたりとも、決して美人ではない。むしろ、男には人気の無い方なのだ。

 大和の、特に京の都で美人として連想されるのは深窓の姫君である。庶民は滅多にその顔を見ることは出来ないから、それは、ほとんど想像の世界となる。上品で控え目なまなこを持ち、色はあくまで白く、頬はふっくらとして、豊かな長い黒髪を持つ。胸や腰回りは肉付きが良く豊かで柔らかでなければならない。季節に寄って定められた色を重ねた十二一重じゅうにひとえの裾を扇のように広げ、こうの香りを漂わせながら、肉厚で小さな唇、即ち"おちょぼ口" から時折ふっと小さな溜息ためいきを突く。それが理想の美女なのだ。

 だが坂東には、実際にはそんな女性は居ない。しかし、都の姫のイメージは男達の中に出来上がっているから、少しでも、それに近い女性を求めようとする。

 千方の母・露女は若い時から活発な女性だった。気にすることも無く、奴婢に混じって立ち働く。もちろん、たかが郷長の娘だから、姫君ではない。しかし、その身分なりのお嬢様振りが求められる訳だが、伏せ目勝ちどころか無遠慮に大きな目で相手をまともに見る。頬は削げて顎がとがっていて鼻は下品に高い。唇はおちょぼ口どころか薄くて横に広がっている。肩や腰にむっちりとした肉付きは無く、木の枝のような体をしている。取り柄と言えば、色が白いのと豊かな黒髪を持っていることくらいか。だから、男達にも余り人気が無かった。

『千方をはらんだ時、周りの者は疑ったが、月足らずの出産でも無く露女の身持ちも固かったので、秀郷は吾子わがこと認めた』

と書いたが、実は、モテなかっただけのことなのだ。手短に説明する為『身持ちが固い』と言う表現を使ったに過ぎない。

 女性に過度な貞操が求められるようになったのは、儒教思想が普及した遥かのちの時代からのことであり、この時代は性に対しての考え方がもっと大らかだった。夜這よばいは当然の習わしであり、むしろ、年頃になっても男が通って来ないならば、親が心配したほどだ。そんな時代に、露女には通って来る男も居なかったのだ。

 武蔵守を兼ねていた秀郷は、草原かやはらからそう遠くない西の街道を通って、何度も下野しもつけと武蔵を行き来していたが、一度として、草原に足を向けることは無かった。

 土地の有力者と結び付くことを太政官が警戒していた為、無用な言い掛かりを付けられない為の配慮があったと言えば聞こえが良いが、露女は郡司の娘などではない。たかが、郷長の娘なのだ。太政官が目くじらを立てるほどの相手でも無い。要は秀郷に、露女に会いたいという気が余り無かったのだ。

 一方、蝦夷には深窓の姫君への願望などは無い。だが、漠然とした時代的な美的価値観の共有というものは有ったのかも知れない。それに、芹菜は口が悪い。相手が男だろうと遠慮無くずけずけと物を言う。だから、敬遠する男も多い。しかし、犬丸が言うほど男に相手にされない訳ではなく、露女と比べれば、それなりに人気はあるのだ。働き者で気立てが良いと思っている男も居るのだが、当の芹菜は全く気付いていない。

 もう気付かれただろうか? 平安の目で見れば、決して美人とは言えないこのふたり。現代の目から見れば、色白と小麦色の肌の差はあっても、世代こそ違うが、実は二人とも、大きな瞳を持ち鼻筋の通ったスレンダーな美女なのだ。だが、残念ながら平安美女は下膨しもぶくれのおかめ顔でなければならない。ふたりの、頬から顎にかけての逆三角形のラインも、贅肉の付いていない体も、この時代の男達から見れば、貧相にしか見えないのだ。現代の男達が見たら思わず振り返るほどのこのふたりも、平安時代に於いては残念ながら醜女しこめでしかない。ふたりは生まれる時代を間違えたという訳だ。


「もう良いぞ」

 芹菜は、布の端を噛んでぴっと裂くと、千方の足の甲から土踏まずにかけて二回りほど回し、手早く縛った。措置を終えると、芹菜は、少し乱暴に千方の足を膝から下ろし立ち上がった。

「世話を掛けた。礼を申す」

 千方が芹菜に言った。

「犬丸もそうじゃが、童は良う怪我をする。手当は慣れておるから気にするな」

 ”童” と言われて千方は相当気落ちした。いや、傷付いた。自分では、精一杯、大人振っていたつもりなのに、芹菜に”童” と言われ、きになって反論したくなったが、それこそが童なのだと気付き、口には出さずに済んだ。しかし表情まで抑えることは出来なかった。

ねえ。六郎様に無礼な物言いをするな」

「ならば、後はなれがやれ」

 立ち上がると芹菜はさっさと立ち去ってしまった。

「すいません。あんな姉ですわ」

「う? いや、良き姉ではないか。童と言われたのは正直ちと情けなかったがな」

「よう言うときますわ」

「いや、それには及ばん」

 なぜか千方は少し慌てた。


 千方に弓の稽古をさせていた場所から離れた古能代は、祖真紀の住まいに向かった。隣に住まいを建て、ひとりで住んでいるが、食事は祖真紀の住まいで父母と共にる。

 入口を入り土の階段を三段下りると

「ご苦労だったな。和子わこ様はどうじゃった」

と母が声を掛けて来た。

「さあな…… 分からん。取りえず矢を拾うておるじゃろう」

「無茶するでねえぞ。郷の童とは違うでのう」

「しとらん。しとらん。親父とは違うでのう、吾は」

 母はわんに盛った稗飯ひえめしを奥に運びながら「ふーっ」とひとつ溜息ためいきを突いた。

 奥の熊の毛皮を敷いた席には、祖真紀が胡坐あぐらを掻いて坐っている。しかし、そのかもし出す雰囲気は、千方や朝鳥が知っている腰の低い祖真紀とは大きな隔たりがある。少し陰鬱でひとを近付けぬ威厳さえ漂わせているのだ。

 母とは気軽に言葉を交わしていた古能代は、無言のまま、祖真紀の左側の席に座る。母が汁と山菜を蒸したものをふたりの前に置くと朝餉あさげが始まる。しんとして、固い稗をくちゃくちゃと噛む音が聞こえるほどだ。

「恨んでおるのか」

 やがて祖真紀が一言漏らした。

「いや」

 古能代も一言だけ答える。

 また暫くの間、稗を噛む音だけが響く。


 祖真紀は幼い頃から古能代を鍛えた。その鍛え方が少し異常だった。ある時、崖の上で太刀打ちをしていた時、追い詰められた古能代が足を滑らせて崖から落ちた。本当に運の良いことに、古能代は崖際がけぎわのすぐ下に生えていた松の枝を咄嗟に掴み命拾いしたのだが、翌日、祖真紀は古能代を、また同じ場所に連れて行って太刀打ちをしたのだ。

 この時、古能代は

『今日こそはきっと親父に殺される。助かる為には、この親父を打ち殺すしかない』

 真剣にそう考えた。そして、殺す為に打ち込んだ。だが勝てなかった。散々に打ち据えられて翌日は起き上がることも出来ないほどだった。

 古能代は

『自分はきっとこの男の子ではないのだ。本当はかたきの子か何かで、その敵への恨を晴らす為に自分を甚振いたぶっているに違いない』

 そう思った。今は勝てぬが、いつか、逆にこの男を殺してやる。そう思って稽古に打ち込んだ。その稽古ははたから見ても、とても”稽古” などと言えるものではなかった。殺意の籠った目をぎらぎらさせて、毎日が果し合いのようなものだった。

『吾は狂っていた』

と祖真紀自身も思う。刀を打つ者が、たまたま質の良い砂鉄を手に入れた。まず、良い刀を打つ為に、どれほど高い温度の火を起こせるか必死に工夫し、今度はその火で熱した鉄をこれでもかこれでもかと打つ。打てば打つほどその強さを増して行く鉄に魅入られ、狂ったように打ち続ける。そんな心境になっていた。子に対するいとおしさという感情は、どこかに置き忘れてしまっていた。

『あの頃の吾は一体何だったのだろうか? 鬼に魅入られていたのだろうか』

 祖真紀はそう思う。

 そんなある日

「郷の若者を五人ほど預けぬか。麿の郎等として育てる」

と秀郷が言って来た。古能代とその弟、他に三人の若者を秀郷の許に送った。この時、古能代は十七歳であった。

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