月の都へ向かう街道、昼餉
国境を越えて二日目。
山と湖のあいだを縫うように伸びる街道を進み、昼頃、街道脇の小さな丘でいったん休憩になった。
下を見下ろせば、段々になった畑と、その向こうに静かな湖面。
霧灰季だというのに、陽の当たる斜面だけはほんのりと温かい。
護衛の騎士たちが手際よく馬を繋ぎ、学者たちはそれぞれ書きかけのノートを抱えたまま腰を下ろす。
俺は、配られた携行食の包みを膝に乗せながら、ちらりとリベラゴールのほうを見た。
「せっかくなんで、直に聞いていいですかね」
「なんだろうか?」
長い耳を小さく揺らして、リベラゴールが首をかしげた。
「イースタシアの畑の話です。
書物で読んだことはありますけど、現地のひとに聞くのが一番なんで」
「なるほど。そういうことなら、いくらでも」
リベラゴールは、膝の上の弁当箱の蓋を開けながら、淡々と語り始めた。
「まず、イースタシアの作物は麦と豆が柱だ。
大麦が主で、寒さに強い裸麦を段畑に。
大豆と小豆、それから薬草。湖や海沿いは魚や貝に、藻。
肉は……儀礼のときに少しくらい、だな」
「なるほどなるほど」
事前に読んだ資料と一致している。
俺は頷きながら、もう少し踏み込んだ。
「播種のタイミングは?」
「解氷季に麦の春播き。
霧灰季の終いで、越冬用の冬播きもする。
豆は萌緑季の初めだ。
遅霜が怖い年は、段畑の石垣で夜の地熱を抱かせて守る」
「石垣で地熱キープ……なるほどな」
夜間の放射冷却を石が受け止めて、冷え込みを和らげる。
日本でも段々畑で似たようなことをやっていた場所があったのを思い出す。
ふと、横から指がすっと地図の上を滑った。
クローディアが馬から降りて俺たちと同じ地面の上に座り、膝の上に地図を広げている。
「湖からの導水路は、東岸で二段の環状。風よけ林は柳と葦。……合ってる?」
リベラゴールは、少し驚いたように目を瞬かせてから、口元を柔らかく緩めた。
「そのとおりだ。よく勉強しているな。
柳は私たちの言葉で“風の弓”とも呼ぶ。
枝が鳴る音で、畑の機嫌を見るから」
「畑の機嫌、ですか」
クローディアが楽しそうに繰り返す。
「ああ。
風がよく通る日は、柳が歌う。
霧が重く湿った日は、枝が低く唸る。
それで畑に入るべきか、まだ待つべきか、決める」
歌、か。
月兎族は自然と歌と舞を重んじる――そういう一文を、どこかの本で読んだことがある
今の話は、その“歌”がただの比喩じゃないことの証拠だ。
「風の音で畑の機嫌を見る……いいですね、それ」
俺がそう言うと、リベラゴールは肩をすくめた。
「帝国の“理の人間”には、少しばかり曖昧に聞こえるかもしれないがな」
「いや、土の声を聞くって意味では、だいたい同じですよ。
俺だって、乾いた土と湿った土の足音で、次の雨が欲しいかどうかくらい分かります」
「それは、良い農夫の足と耳だ」
リベラゴールはそう言って、弁当箱のもう一つの蓋を開けた。
中には、白い綿のようなものをまとう小さな塊と、琥珀色の液体が入った小瓶が収まっている。
目が、勝手に吸い寄せられた。
「それは……?」
「月白麹だ。
豆と麦に回して、月味を作る。
こっちは月醬――薄い醤でこっちは月酢。
どれも、歌うように、静かに造る」
さらっと言われたが、単語の破壊力が強い。
麹。醤。酢。
日本人の胃袋が、条件反射で前のめりになるシリーズ三点セットだ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいね」
思わず前ににじり寄りながら、俺は指をさした。
「月白麹って、その白いのですよね。
豆と麦に“回す”ってことは、あれですよね、蒸して混ぜて、寝かせて、分解させて――」
「そうだ。よく知っているな。
よく洗った蒸し豆と蒸し麦に、月白麹を降ろす。
それを“静室”に運ぶ」
静室。
さっきの“歌うように静かに”という言い回しが、頭をよぎる。
「発酵室ってことですか?」
「そうだな。静室では沈黙の礼を守る。
人の声で風の音を壊さないように。
……鼠よけの笛は吹くが」
最後だけ少しだけ冗談めかして付け足す。
「“歌う”っていうのは、その……」
俺が首を傾げると、リベラゴールは琥珀色の小瓶を軽く振ってみせた。
「麹が息をする音を、私たちは歌と呼ぶ。
甕の中で、豆と麦と水とが、ゆっくり形を変える。
静室に座って目を閉じていると、泡の弾ける音と、木の軋む音と、風が壁を撫でる音が重なって――それは人の歌よりも静かな歌だ」
発酵の音を、歌と呼ぶ。
そのために、人は黙る。
イースタシアの「静寂を尊ぶ」という文化が、一気に立体的になった気がした。
「月醬は、その月味を絞ったものですか?」
「そのとおり。月味を布で絞り、幾季も寝かせる。
塩と月白麹と時間の味だ。
豆と麦に“夜の力”を詰めたものだと思ってくれればいい」
「夜の力……」
俺の中では完全に「味噌と醤油」に名前が貼り替わっているが、
それを言うと説明が大変なので、とりあえず心の中にしまっておく。
クローディアが興味深げに身を乗り出す。
「その月醬?というのは、どのように食べるのかしら?」
「いろいろだ。
汁に少し落として、野菜と藻を煮たり、塗って魚を炙ったり。
冷えた夜には、薄めて辛味と合わせて温かい飲み物にする者もいる」
「……絶対おいしいやつだ」
思わず本音が漏れた。
学者たちがくすくす笑う。
護衛の騎士たちも、完全に「ツチダ顧問がまた食べ物で目を輝かせている」という顔をしている。
リベラゴールは、そんな様子を見て、小さく首をかしげた。
「帝国には、こうした発酵の調味はないのか?」
「パンを膨らませる酵母くらいですね。
ワインや麦酒はありますけど、豆や穀物を長く寝かせて調味料にするのは、ほとんど聞いたことがないです」
「もったいない話だな。
夜と時間は、誰にでも平等にあるのに」
言い方はさらりとしているが、妙に格好いい。
「帝国は、火と鉄と理で世界を動かす国。
我がイースタシアは、風と水と歌で世界を撫でる国だ。
どちらが正しい、どちらがえらい、というものではない――だが、こうして並べて食べれば、きっと面白い」
「並べて、食べる……」
頭の中で、「帝国の黒パン+月味+炙り」「イースタシアの魚+帝国産ハーブ」みたいな組み合わせが暴走を始めた。
クローディアが呆れたような、しかしどこか楽しそうな顔で俺を見る。
「ツチダ、目が完全に“旨いものを考えるときの目”になってますわよ」
「本能なので許してほしいですね」
笑いながらも、心のどこかで、はっきりと確信した。
(この国の発酵文化は、絶対に帝国の食卓を変える。
それに、瘴気でやられてるのが“その田んぼと豆畑”なら――なおさら死なせるわけにはいかない)
月白麹も、月味も、月醬も、すべては土と水と時間から生まれる。
その元になる畑を守れなければ、理の国を名乗る資格なんてない。
俺は空になりかけた弁当箱を見下ろし、湖のほうをちらりと見た。
遠く、薄い霧の向こうで、湖面がかすかに光っている。
そのさらに向こう――東の海で、今も黒い瘴気が“息”をしているのだろう。
「よし」
小さく息を吐いて、俺は立ち上がった。
「月の都までに、できるだけ話を聞かせてください。
畑のことも、風のことも、歌のことも。
全部まとめて、瘴気ごと理でひっくり返してやりましょう」
リベラゴールは一瞬だけ目を細め、それから短く頷いた。
「期待している、理の農夫」
昼休みは、ほどなくして切り上げられた。
再び馬にまたがり、月の都へ向かう街道を進む。
俺の頭の中では、瘴気と病害の仮説と、米と魚と月醬の献立案が、きれいに半々くらいの割合で渦を巻いていた。




