霧の街道と味噌汁の夢
イースタシアからの書簡が届いてから、わずか数日。
霧灰季の朝靄のなか、帝都の東門から一行が出発した。
長は皇女クローディア・フォン・アーネンエルベ。
随行するのは、農学者五名、魔術研究者三名、護衛の騎士二十名。
規模だけ見れば、ささやかな使節団だが――皇女直率という時点で、この任務の重要度がよく分かる。
もちろん、農政顧問ツチダ・コウヘイも、その馬車に乗っていた。
出発から一週間ほどは、ひたすら帝国東部の街道を進む。
霧の深い朝に馬を出し、昼過ぎに街道沿いの町や宿場で区切る。
戦も飢えもひとまず遠ざかった街道は、驚くほど穏やかだった。
「いやあ……平和な街道だな」
馬車の窓を少し開けて、ツチダは外を眺めた。
荷馬車。行商人。巡回の兵。
道の脇には、冬播き小麦の芽が淡く列を作り、遠くには牛を追う子どもたちの姿も見える。
内乱の頃には考えられなかった光景だ。
同じ馬車に同乗している若い農学者の一人が、書き込みだらけのノートを抱えたまま、窓の外をちらりと盗み見た。
「ツチダ顧問、顔がにやけておられますよ」
「そうか?気のせいだよ」
「そんなにイースタシアが楽しみなんですか」
「もちろん。仕事としてもな」
仕事としても。
とりあえずそう言ってみせたが、胸のどこかで別の声が囁いている。
(米と魚と味噌汁……)
思考がそこに滑りそうになって、慌てて軌道修正した。
先頭の騎馬のあたりから、軽やかな蹄の音が近づいてくる。
窓を少し開けると、外套のフードを外したクローディアが、馬上から覗き込んだ。
「中の様子はどうですか、ツチダ。酔って転がっている学者はいませんか?」
「今のところ全員生きてます。多分、イースタシアに着くまでは大丈夫でしょう」
「“までは”ってところが不穏ですわね」
クローディアはくすりと笑い、それから少し真面目な顔になる。
「しかし、のどかな景色ですわね。霧が多いけれど、警戒がいらない」
「前線に兵力をかき集めてた頃は、街道に騎士なんていませんでしたからね。
今は、道を守る兵と、畑を守る農民がちゃんとそれぞれの仕事をしてる。
――いい時代になりましたよ、皇女殿下」
「うふふ。えぇ、その“いい時代”を、簡単に終わらせないようにしないといけませんわね」
クローディアはそう言って、手綱を軽く引いた。
「皆、ペースを少し上げますわよ!日が暮れる前に、あの丘の向こうの宿場町まで行きたいですから!」
返事の代わりに、騎士たちの甲冑が一斉に鳴った。
さらに数日。
帝都から半月ほどかけて、使節団は東方国境近くの街にたどり着いた。
ここで一泊し、翌朝、イースタシア側から来る案内役と合流する手はずになっている。
宿の一階の食堂は、使節団の人間と、街の住民とでほどよく賑わっていた。
この辺りは帝国でも東寄りだが、出てくる料理の顔ぶれは、帝都と大差ない。
大麦の黒パン。根菜の煮込み。塩漬けの豚肉。
たまにチーズと酢漬け野菜。
ツチダは、それらを皿に取りながら、うーんと唸った。
「どうしました、顧問」
隣に座った若い魔術研究者が首をかしげる。
「いや、改めて見るとね。帝国の食卓って、白飯も魚も発酵食品もないなあって思って」
「はっこう……?」
「発酵。腐らせるけど、腐らせすぎないで美味しくするやつ」
曖昧な説明に、研究者は「余計分かりません」と顔に書いてあった。
「パンは発酵させますよね?」
向かいの席の農学者が口を挟む
「イーストを使って膨らませる――あれは発酵では?」
「ああ、そうか。パンはギリギリ発酵仲間か。
でも、俺が恋しいのはもっとこう……豆を潰して塩と一緒に甕に入れて放っておいて、
いい感じに臭いけど、それがまた旨い、みたいな……」
「……うーん、分かりません」
全会一致で首をかしげられた。
クローディアが向こうのテーブルからこちらを見やって、小さく笑う。
「またツチダが妙な食べ物の話をしているのですね」
「妙な、ってほど妙でもないですよ。
イースタシアにはあるらしいんですよ。豆の発酵食品」
「資料にありましたわね。甕に詰めて寝かせる保存食がどうとか」
「そう、それそれ。それと魚と米が揃えば――」
ツチダは、もう止められなかった。
「朝から、焼いた魚。湯気の立つ白いご飯。
そこに、その発酵豆を溶かした汁物が一杯あれば……」
言葉だけで、喉が鳴る。
農学者の一人が、興味半分あきれ半分で尋ねた。
「そんなに違うものなんですか?今のパンと肉とスープの食事と」
「違う。全然違う。
……パンも肉も嫌いじゃないけどね。
でも、米と魚と味噌汁――いや、その発酵豆の汁は、こう、胃も心も“ただいま”って言うんだよ」
「“ただいま”……?」
誰かが繰り返すのを聞きながら、ツチダは少しだけ照れくさくなった。
この世界に来てから何年も経った。
帝国の料理にも慣れたし、この国の酒も、肉も、野菜も好きだ。
それでも、たまに夢に見るのは、湯気の立つ白い飯と、魚と、味噌汁だった。
魔術研究者が、興味深そうに顎に手を当てる。
「なるほど。米と魚と発酵豆の汁を調査しに行くついでに
イースタシアの瘴気を調べる行くわけですね」
「おい、人の仕事を食欲優先に要約するな。田の方が大事だからな」
ツチダが抗議すると、周囲の学者たちと騎士がどっと笑った。
クローディアも、グラスを掲げながら、こちらに声を投げる。
「まあ、いいではありませんか。
食べ物を楽しみにできる旅路など、平和な証拠ですわ」
その言い方には、からかいだけではない響きがあった。
彼女の剣が守っていたのは、こういう他愛のない会話の場そのものなのだ。
「そうですね」
ツチダは頷いた。
「瘴気も、病害も、きっと何とかなるでしょう。
帝国の土も、イースタシアの田んぼも、理を通せばちゃんと応えてくれるはずです」
それは、農家としての自信だった。
そして久しぶりに、ちゃんとした米と魚と味噌汁を食べるためなら、
命懸けで畑を守るくらい、安いものだという、妙な覚悟でもあった。
宿の外では、霧灰季らしい冷たい霧が街路を包んでいる。
翌朝、この街でイースタシア側の案内役と合流すれば、
いよいよ山を越え、月の国へと入ることになる。
「待ってろよ、イースタシア」
皿を片付けながら、小さく呟く。
瘴気と病の調査。
東の女王に“神なき理の国”の実力を見せること。
そして――白い飯と魚と味噌汁。
ツチダのイースタシア行きの目的は、だいたいその順番で頭の中に並んでいた。




