薔薇の誓い
西部、グナイスト・フォン・クロプシュトック伯爵領の別荘。
噴水は高く、杯は軽く、言葉は鋭い。
音楽は、狩りの号令と同じ拍で鳴っていた。
白石のテラスから見下ろす庭園は、今夜だけは戦場の前夜に近かった。
芝生の上に並ぶ名簿は重い。
帝国貴族三百十家のうち百二十家が列席。赤い紐が袖に通され、金糸の紋章が月光を呑む。
「帝国の伝統を取り戻す」
「取り戻すとも。あの若造皇帝と、その腰巾着の宰相に好き勝手はさせん」
誰かが言い、誰かが繰り返す。
声の端々に、怒りよりもまず“安堵”が混じっているのが、老執事には聞き取れた。
自分たちの怒りが、ようやく言葉になった、という安堵だ。
「偽りの遺言で奪われた冠を、正しき皇帝陛下へ」
「陛下は本来、学問と芸術をお好みだ。血と書に親しまれるべき御方だ」
「戦場にも出たことのない皇弟を、と笑う向きもあるが戦場にしか出てこぬ皇帝よりは、まだましというものだ」
誓詞は短い。だが、短いほど、人は逃げ場を失う。
帳場の机に、誓約の札が積まれていく。
代官が読み上げ、書記が筆を走らせる。
「――エーベルハルト家、私兵五百。民兵千。糧秣、一月分」
「――フロイデンタール家、私兵三百五十。民兵七百」
「――各家、私兵は出し得る限り。領の男手は十五歳以上をすべて民兵として徴募。糧秣は在地調達、初期七日分は自弁」
「十五歳以上、すべて……?」
下位子爵家の当主が、杯を持ったまま隣の男に囁く。
「畑は誰が耕す」
「耕させねばよい。帝都の若造どもが考えた“開墾特区”とやらに任せておけ」
笑いが起こる。笑いながらも、指は誓約の札から離れない。離せない。
札の角が芝に刺さり、夜風が震わせた。
数字は炎より早く広がるが、炎より冷たい。
「五公五民だと?冗談ではない」
「我が家など、豊作の年には七割取っても文句は出なんだ」
「“上限”などと決められては、どこで差をつける」
「差をつけるのは才幹であって欲しいものですな」
皮肉を言った男に、周囲が一瞬だけ黙り、それから曖昧に笑った。
やがて、グナイスト・フォン・クロプシュトック伯爵が、ゆっくりと中央へ出た。
薔薇の紋章をあしらった真紅の礼服。
扇子の骨を軽く鳴らし、朗々と参加者名を読み上げていく。
「……かくして、諸侯の誓約、ここに出揃った」
伯爵が帳場から最後の札を受け取る。
「兵、総数――十万」
ざわめきが波になり、波が歓声に変わる。
「十万……!」
「帝国正規軍にも匹敵する数ではないか」
「いや、それ以上かもしれんぞ。あちらは“規制”で縛られておる」
伯・子爵家の槍盾、各領の私兵、直参の兵士、そして民兵。
民兵が多く、寄せ集めに過ぎない――だが、寄せ集めは、ときに雪崩と呼ばれる。
名簿の端で、白髪まじりの男爵が眉をひそめる。
「数だけで勝てるなら、神聖国はとっくに帝都まで来ておる」
隣の若い当主が肩をすくめた。
「伯爵閣下のお膝元でそんなことを言うとは。勇気がおありだ」
「勇気ではない、算術だ」
そう言って杯をあおるが、その手もまた、誓約済みの印からは離れていない。
旗が上がる。赤薔薇に白帯。
名はヴィルトローゼン連合軍。
通称、野薔薇連合。
「ヴィルトローゼン……荒くれ者というわけか」
「よい名だ。野に咲く薔薇こそ、帝国の血統の証」
「帝都の温室育ちよりはな」
下卿の笑いを背に、扇が高く掲げられる。
クロプシュトック伯爵が、一歩進んだ。
「諸侯よ」
声が、夜会のざわめきを一瞬で切り裂いた。
「帝国の格式を、帝国の手へ戻す。“理”などという薄っぺらい言葉で飾られた新しき風ではない。剣と血と、古き家門の誇りによって守られてきた、真の帝国を、だ」
杯が掲げられ、肯定の声が幾重にも重なる。
「正統帝アウグスト――ここに推戴す」
視線が、一斉に月下の皇弟へと集まる。
アウグストは静かに目を伏せた。
目は鋭く、芸術家らしい繊細さを湛えている。
だが、今この場で自分に向けられた期待の色を、最後まで言葉にできない。
「わ、私は……兄上の御治世を否定するつもりは……」
口を開きかけた瞬間、近くに控えていた老侯が一歩進み、さりげなく遮る。
「殿下。ご安心を。これは“帝国”のための決断。血筋の争いではございません」
別の誰かが続ける。
「ええ、陛下――いや、殿下はただ、正しき冠をお受け取りになればよろしい」
言葉の綾で、すでに“陛下”と呼ぶ者すらいる。
アウグストはその響きに身を震わせ、再び口を閉じた。
誓いは次々と、澱みを残さず流れていく。
「西部の正統な帝国に従う貴族たちで兵を整え、帝都へ進む」
「私兵の制限、五公五民の上限なるもの、すべて改正の議に付す」
「ツチダなる平民、皇女の寵愛をもって帝国を弄ぶ策士、逐い落とすべし」
「“農民風情”が帝国軍の補給を牛耳るとは、笑止千万」
「ツチダ式とやらで我が領の帳簿にも口を出してきたぞ。“度量衡の統一”だ、“名産での代納を認める”だ」
「皇女殿下も、惜しいお方だ。武芸に秀で、美しき花であらせられたものを……あの平民を庇っては、我らの面子が立たぬ」
「帝国を支えるのは、土ではなく、血だということを思い出していただかねば」
拍手。杯。笑い。
けれど、その笑いは剣の鞘より冷たい。
園の端で、老執事がひとり、不安げな顔をする。
彼は数字に強い。十万は重い。
だが、橋と倉と市――たった三つの石を外せば、雪崩は止まる。
止まれば崩れる。崩れれば、その重さは自分たちを押し潰す。
――それでも、今は夜会だ。
「執事長、顔が暗いぞ」
若い従者が囁く。
「十万ですよ、十万。これで帝都も震えましょう」
「……震えるのは、どちらの骨かしれんがな」
老執事は小声で返し、それきり口をつぐんだ。
薔薇の香りが濃く、油と革の匂いがうっすら混じる。
場違いなほど華美なドレスと軍靴が、同じ芝の上に並んでいた。
最後の太鼓。
誓いの言葉は一度だけ、全員で。
「アーネンエルベ正統帝国――ここに興す!」
月が雲へ入る。旗の白帯が闇に溶ける。
遠くで、馬の鼻息が応えた。
「兵の動員はいつからだ?」
「七日と見た。徴発隊は明日にも各地へ散る」
その数は多い。だが、多いからこそ、遅い。
芝を踏む音が、軍靴の音に変わるまで、あとわずか。
宴は、まだ終わらない。
しかし、もう“夜会”ではなかった。
薔薇の庭は、そのまま“野薔薇連合”という名の戦の出発点になったのだ。




